初恋の季節
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
~エピローグ~
およそ20年後、東京。
小春
「穂積さん、ごめんなさいね。さっきまで家にいたのに、あの人ったら、急に外出しちゃって」
庭に面した縁側に並んで腰掛けていた二人の背中に謝りながら、私はお盆を置きました。
お盆の上には、お茶菓子と、冷たい麦茶が乗っています。
「お気遣いなく。慣れてますから」
振り返って笑ったのは、ほとんど金髪と言ってもいいほど明るい栗色の髪と、白い肌と、印象的な碧の目を持った、綺麗な男の子。
そう。
あの、泪くんです。
もっとも、もう「男の子」は失礼かしらね。
翼
「ちゃんと連絡してから来たのに。お父さんったら、失礼だよ」
唇を尖らせて父親の行動に憤慨しているのは、私の娘。
成長した翼です。
翼
「ごめんなさい、泪さん」
穂積
「いいさ、嫌われてるのは昔からだ。それに、今日は、お母さんに会いに来たんだし」
今日は、母の日。
二人は、仕事仲間の方のお父様に頼んで作って頂いたという、立派な握り寿司の並んだ大きな寿司桶と、リボンのついた鉢植えのアジサイを携えて、我が家に来てくれたのです。
成長し、警察官になり、約束通りに翼と再会して愛を育み、今、翼の婚約者としてこうして私の目の前にいる泪くんの姿を見ると、様々な感慨が込み上げてきます。
小春
「ありがとう。嬉しいわ」
穂積
「お礼を言うのはこちらの方です。お母さんには、いつも応援してもらって、感謝しているんです」
初めて会った時と変わらない、端整な顔立ちと笑顔。
夫は「お前の前ではおとなしくしているが、あんな顔して、中身は悪魔だ。騙されるなよ」とよく言うけれど。
いつの間にか口の悪くなった翼は「お母さんの前だと、泪さんは猫を被っているんだよ」なんて、笑いながらこっそり告げ口してきたりするけれど。
二人とも、本当は知っているはずなのよ。
ただ、気付いていないだけ。
この子はこっちが素顔なの。
私の前では、落ち度の無いように油断なく構える必要も、付け込まれないように弱味を隠す必要も、職場のように意地を張る必要も無いから、自然な姿を、本来の泪くんの姿を見せてくれるだけなのよ。
翼
「お父さん、どこにいるの?」
小春
「たぶん、近くの古本屋さんね」
翼
「私、探して連れ戻してくる!」
翼もそう。
口では生意気な事を言うようになったけれど、本当は、やっぱりお父さんに会いたいのよね。
穂積
「そこまでしなくてもいいんじゃないか?」
翼
「でも、せっかく如月さんのお父さんに握ってもらったお寿司が、悪くなっちゃうもん。行ってきます!」
結局、翼は立ち上がって、玄関から出ていってしまいました。
意地っ張りな夫と、こうと決めたら頑固な娘。
私は、小さく溜め息をつきました。
すると、私の溜め息に気付いた泪くんが、くすりと笑ってから、気遣うように、座る距離を詰めてきました。
小春
「あら、聞こえちゃったかしら。ごめんなさい」
穂積
「地獄耳だ、ってよく言われるんですよ。聞こえないふりをする事も出来ますけど、お母さんの溜め息は聞き逃せません」
小春
「ふふ、ありがとう。優しいのね」
泪くんは、庭の新緑を映したような目で私を見つめて、それから、静かな声で呟きました。
穂積
「……俺は、好きですよ。意地っ張りな櫻井さんも、こうと決めたら頑固な翼も」
私は息を飲みそうになりました。
小春
「すごいわ、本当に地獄耳。心の声まで聞こえるのね」
穂積
「だから、悪魔だって言われるんです」
私が差し出したコップを受け取った泪くんは、いたずらっぽく笑ってから、麦茶を一口飲みました。
庭を抜ける風が、微笑む泪くんの髪を揺らします。
泪くんは、もう何度も家に来てくれているけれど、考えてみたら、こんな風に、のんびりと二人きりになるのは初めてです。
小春
「ありがとう。溜め息をつくと幸せが逃げるって言うけれど、泪くんのおかげで、幸せを逃がさずに済んだみたい」
私がお礼を言うと、泪くんは、私に向けた目を、楽しそうに細めました。
穂積
「久し振りですね」
小春
「何が?」
穂積
「いつも『穂積さん』なのに、『泪くん』って。久し振りに、名前で呼んでくれました」
小春
「えっ」
無意識の事でした。
でも……泪くんの、今の言葉が意味しているのは……
小春
「……あなた……もしかして、昔、鹿児島で私に会った事、覚えてるの?」
穂積
「はい」
泪くんが頷きます。
小春
「翼の事も?」
穂積
「はい。もちろん」
小春
「まあ……まあ……!」
たった一度、会ったきりだったのに。
私は、てっきり、忘れているものと思って接してきたのに……。
穂積
「忘れない、って、約束しました」
……20年前の約束なのに。
本当に、覚えていてくれたなんて。
私は、目頭が熱くなりました。
小春
「……翼の初恋を実らせてくれて、ありがとう」
穂積
「はい?」
泪くんは、まるで私が的外れな事を言ったように、キョトンとした顔をしました。
小春
「翼、あなたと別れたあの後、泣いて泣いて大変だったのよ。もっと、るいちゃんとあそびたかったのに、って言って」
その泪くんが、翼と並んで我が家の玄関に現れた時、私が、どれだけ驚いたことか。
穂積
「……」
私が伝えた言葉に、なぜか泪くんは苦笑してから、視線を、床の間にある、紅葉の盆栽に移しました。
夫が鹿児島にいた頃、翼の名前を付けて大切にしていた、あの盆栽です。
泪くんは、6年生の時に誤ってこの盆栽の鉢を割ってしまい、家に持ち帰って直そうとしましたが、運悪く、その間に夫が引っ越してしまった為に返しそびれて、つい最近、翼との婚約を報告しに来るまで、ずっと育て続けてくれていたのです。
穂積
「……俺が、翼を二度目に見たのは、翼が、高校生の時です」
小春
「あら……?翼が警察に入ってから、捜査室にスカウトしてくれた時ではなかったの?」
穂積
「違います」
翼から聞いた話を鵜呑みにしていた私に、泪くんは、軽く首を振りました。
穂積
「その前に、一方的に見かけた事があるんですよ。遠くからでしたし、会話もしてませんけど」
小春
「翼が、高校生の時……」
穂積
「ええ。俺は、上京して、警察官になって、あの盆栽をお返ししようと、躍起になって櫻井さんを追い回していた頃です」
泪くんの視線が、盆栽から、私に戻りました。
穂積
「……櫻井さんと一緒にいる翼を見て、一目で分かりましたよ」
そこで言葉を切って、泪くんは、その時の翼と、今の私を重ねて見るような表情をしました。
穂積
「顔立ちに、お母さんの面影がありましたから」
泪くんの瞳に、私が映っています。
穂積
「見間違えるはずがありません。……笑った顔が、たまらなく可愛かった。……翼を意識し始めたのは、その時からです」
ほんのりと頬を染めて語る泪くんの、なんとも愛らしいこと。
思いがけず二人の馴れ初めを聞く事になって、私は、微笑ましい思いで、泪くんの話に耳を傾けていました。
私の視線に気付いて、泪くんは照れ隠しのように咳払いをし、私の隣で、居ずまいを正しました。
穂積
「その次が、翼を捜査室にスカウトしに行った時です。『久しぶり』と声をかけましたが、翼は、俺の事、覚えてませんでした」
小春
「え、そうなの……?それは……ごめんなさい」
それで、さっき、泪くんが苦笑いした理由が分かりました。
穂積
「成長してからの翼の記憶力は、抜群です。でも、さすがに、2歳の時に一度会っただけの俺の記憶は、薄れて消えてしまったみたいですね」
泪くんの眼差しが、私に向けられました。
穂積
「……初恋の相手、というのは、『もっと一緒にいたい』『もう一度会いたい』と初めて感じた人で……、『いつも心のどこかにいて、繰り返し思い出すから、忘れる事が出来ない相手』だと思います。……違いますか?」
真摯な表情で問いかけるように言われて、なんだか、胸が熱くなりました。
そんな風に思ってもらえるなんて、泪くんの初恋の相手は、幸せな女の子だと思いました。
小春
「そうね……あなたの言う通りよ。私もそう思うわ」
穂積
「……ですから、翼の初恋の相手は俺じゃないと思いますよ、残念ですが」
家の外から、翼の声が聞こえた気がしました。
夫を連れて、帰って来たんでしょうか。
そろそろ、話を切り上げて、玄関に二人を迎えに行かなくてはいけません。
小春
「泪くんの初恋のお相手は、きっと幸せね」
私は、さっき思った事を言いました。
すると、泪くんは私を見つめて、それから、ゆっくりと、はにかむように微笑んでくれました。
穂積
「そう思ってもらえたら、俺も幸せです」
頬を染めて、本当に幸せそうな笑顔を見せてくれる泪くんが可愛くて、私も、つられて微笑んでしまいました。
小春
「二人が帰って来たみたい。迎えに行って来るわね」
穂積
「はい」
私は泪くんを縁側に残して立ち上がり、玄関に向かいました。
その途中、一人になったところで、不意に、胸が高鳴りました。
小春
「……あ、あら……?」
さっきまでの話を反芻していて、何かが、胸に引っ掛かった感じでした。
そして、なんだか、胸の奥がくすぐったいような。
どうしてかしら……
思わず振り返りましたが、縁側の泪くんは、もう、庭の方を向いて、麦茶を飲んでいます。
……もしかして……いえ、まさかね。
小春
「……私ったら、図々しい」
私は小さく声を出して、浮かびかけた考えを打ち消しました。
けれど、私の胸は勝手にドキドキとときめいて、心は年甲斐もなく浮き立って、廊下を歩く足は、踏み出すたびに舞い上がってしまいそうです。
いけない、いけない。
櫻井
「翼、放しなさい!母の日なんだから、わたしには構わなくていいと言っているだろう!」
翼
「駄目だよ!お父さんも一緒じゃなくちゃ!」
玄関の戸を挟んで、親子で揉めている二人の声が聞こえます。
まだ外にいるというのに、騒々しい人たちだこと。
小春
「ご近所に迷惑ですよ、もう……」
上がり框を下りようとした時、後ろから、背の高い影に、すい、と追い越されました。
穂積
「俺が出ます。その方が、面白いでしょう?」
そう言いながら、泪くんは、もう、靴を履いて三和土に下りています。
小春
「る」
穂積
「お母さん」
思わず声が出そうになってしまった時、泪くんが振り返りました。
穂積
「図々しくなんか、ないですよ」
今度こそ、私は息を飲みました。
泪くんは私の反応を確かめてから照れくさそうに笑って、人差し指を自分の唇に当てました。
穂積
「翼には、内緒でお願いしますね」
泪くんは私の返事を待たずに玄関に向き直ると、勢いよく戸を開けました。
翼
「あっ泪さん、ただいま!お母さん、お父さん連れてきたよ!」
穂積
「お帰り」
櫻井
「こら穂積、なにが『お帰り』だ!わたしの留守に、勝手に家に上がるな!母さん!母さん!早く追い出しなさい!」
戸が開くと同時に、大騒ぎが始まってしまいましたが、私も、内心、それどころじゃありません。
もう、大変な母の日です。
私は、すっかり火照ってしまった頬を両手で押さえながら、夫と、娘と、そして、いつか息子になるだろう泪くんの笑顔を見つめました。
夫と娘の言う通り、確かに、天使ではないかもしれないけれど。
私は、心の中で呟きました。
私にとっては、悪魔のように魅力的な男の子。
なんだか、幸せな気持ちがこみ上げてきます。
泪くんにはいつも驚かされてばかりだから、この調子ではこれからも、きっと、
溜め息をついている暇なんて無いわね。
~END~