初恋の季節
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住宅街を5分ほど歩いて、着いたお宅に犬のケンジくんを送り届けると、飼い主であるご高齢の女性は、
「まあ、ごめんなさい!また脱走したのね。泪くん、いつもありがとう」
と泪くんにお礼を言い、私と翼には、
「驚かせて申し訳ありませんでした」
と謝って、冷たい缶ジュースをくれました。
泪
「ごちそうさまでした」
泪くんは、頂いた缶ジュースをその場で飲み干し、手が空くと、今度は、当たり前のように私の手からスーツケースを取って、引っ張っていってくれます。
泪
「俺が持ちます。行きましょう」
小さいけれど、頼りになるナイトだこと。
泪
「翼、もう少しだからな」
翼
「うん」
普段は人見知りする翼も、泪くんには懐いた様子。
私と手を繋いで歩きながら、もう一方の手を泪くんに伸ばします。
翼
「おにいちゃん」
泪
「泪」
翼
「るいちゃん、おてて、つないで」
いつも、自分が大人から言われている言葉です。
翼
「いっしょに、あるこう?」
私は吹き出しそうになりましたが、泪くんは言われた通り、翼と手を繋いで歩いてくれます。
泪
「うん。一緒に、歩こうな」
泪くん、弟か妹がいるのかもしれません。
優しいお兄ちゃんです。
泪
「俺の名前、覚えたか?」
翼
「うん」
翼はひとりっ子なので、お兄ちゃんが出来たようで嬉しいみたい。
泪くんを見上げてにこにこしながら、繋いだ手を振って、楽しそうに歩いています。
なんだか微笑ましい。
小春
「翼、泪くんを好きになったみたいね」
泪
「そうですか?」
泪くんの桜色の頬が、ほんのり赤く染まりました。
泪
「嬉しいけど、小さいからなあ。会えなくなったら、たぶん、……俺の事なんか、忘れちゃいます」
小春
「うーん、そうね、まだ2歳ですもんね……」
泪
「仕方ないです」
泪くんは、ちょっと残念そうな顔で、無邪気に歩く翼を見つめています。
小春
「でも、たとえ翼が忘れても、私が覚えているわ。きっと、何年経っても」
私が言うと、泪くんは、驚いたような表情で振り向いて、ぱちぱちと瞬きをしました。
小春
「勇敢で、聡明で、優しい男の子。泪くんの事、私、大好きよ。忘れないわ」
泪くんが、何か答えようとするように、口を開きました。
その時です。
櫻井
「翼!」
空き地の先に建っている家から、夫が飛び出して来るのが見えました。
泪
「あ、やべ」
夫の姿を見た途端、泪くんは、弾かれたように、くるりと回れ右をしました。
泪
「これ」
そうして、泪くんは、私にスーツケースの持ち手を返すと、いま来た道を戻るように走り出し……いえ、走り出そうとして、足を止めました。
翼
「るいちゃん、いっちゃうの?」
まだ、翼に手を繋がれたままだったのです。
泪
「翼、また会おうな」
泪くんは翼の手を離しましたが、すぐに翼の前に屈んで片膝をつき、翼の小指に自分の小指を絡ませて、指切りをしました。
泪
「俺、大人になったら、会いに行くから」
別れの予感に泣きそうな顔をしながら、翼が尋ねます。
翼
「ほんと?」
泪
「うん。約束する」
泪くんは力強く頷くと、翼と絡めた指をほどいて立ち上がった後、今度は私にきちんと向き直って、丁寧に頭を下げました。
泪
「さようなら」
最後に顔を上げて微笑んだ、その時の泪くんの笑顔を、私は、今でも、鮮明に思い出す事が出来ます。
泪
「俺も、あなたの事、忘れません」
けれど、それだけ言い残すが早いか、泪くんは、家から飛び出してきた夫が駆けつけて来る前に、すごい速さで走り去って行ってしまいました。
櫻井
「くそぅ、相変わらず逃げ足の速い奴だ!」
小春
「あなたったら。あの子、私たちを大きな犬から守ってくれて、そのうえ、ここまで送ってきてくれたんですよ?」
櫻井
「む、そうだったのか?……だが、絆されるなよ。あいつは、私が、朝、配達された牛乳を取り忘れていると、登校中に立ち寄って飲んでしまうような奴なのだぞ!」
小春
「忘れられて牛乳が傷むより、飲んでもらう方が助かるじゃないですか」
櫻井
「……それは…そうだが……隣の空き地で野球や三角ベースが始まると、うちの塀を乗り越えてボールを拾いに来るのだ!この前は、そのついでに、盆栽の姫リンゴをひとつ摘み食いされた!」
小春
「リンゴひとつくらい、男の子らしくていいじゃないですか。それに、あの子がボールを拾いに来るという事は、庭に打ち込んだのは、相手チームの誰かでしょう?」
櫻井
「……それも…そうだが……ええい!どうしてそんなにあいつの肩を持つんだ?!あいつめ……たった、バス停からここまでの距離を歩く間に、お前を調略したのか?!油断も隙もない!」
夫はそう叫ぶと、膝をついて翼を抱き締めました。
櫻井
「翼!お前だけは、あんな悪魔に毒されてはいかんぞ!」
翼
「あくま?」
翼はきょとんとしています。
小春
「もう。変な言葉を教えないでください」
私は溜め息をついてから、泪くんの走り去った方角を見つめました。
でも、もう、どこにも、彼の姿は見えません。
悪魔なんかじゃないわ。
私は、心の中で呟きました。
私にとっては、天使のように魅力的な男の子だったもの。