初恋の季節
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~小春's vision~
新緑の季節の鹿児島。
東京よりも暑いだろう、と覚悟を決めて来たのですが、バスを降りた停留所に吹いていた風は思いの外涼しくて、私はほっと一息つきました。
この爽やかさは、山や海が近くにあるからでしょうか。
住宅街の街並みにも、東京とは違う、清らかで、生命力を感じるような空気が流れている気がします。
小春
「素敵なところね、翼」
緑の多い、初めてなのにどこか懐かしい景色を見渡してから、私は、腕に抱いている幼い娘に話しかけました。
小春
「翼、お父さんがいる街に着いたわよ」
翼
「おとうさん、どこ?」
翼は、「何歳?」と尋ねられれば、誰にでも2本の指を立てて見せる、私の娘。
そろそろ、3本を教えておかないといけないかしら。
この頃は言葉も増え、簡単な会話なら成り立つようになってきて、可愛い盛りです。
私は翼を歩道に下ろすと、片手にスーツケースを、片手に翼の小さな手を引いて、歩き出しました。
つばの広い、赤いリボンの麦わら帽子を被り、ボレロの付いた白いワンピースを着た翼は、歩くとキュッキュッと音の鳴る赤いサンダルが最近のお気に入り。
翼
「お、とう、さん。お、とう、さん」
サンダルがキュッ、キュッ、と鳴るのに合わせて、歌うように「おとうさん」と言いながら歩く様子は、とても愛らしいです。
趣味の盆栽に翼の名前を付けるほど子煩悩な私の夫が、今の、この愛娘の姿を見たら、きっと、「翼ー!」と叫びながら、抱き締めて頬擦りしてしまう事でしょう。
今年の春から、単身赴任でこちらに住んでいる夫は、離れて暮らす一人娘である翼が、可愛くて可愛くてたまらないのです。
もちろん、翼の方もお父さんが大好き。
そのため、翼に会いたい一心で、お休みのたびに鹿児島から公共機関を乗り継いで東京に帰り、一泊したら翌朝にはまた鹿児島に戻る、という生活をしています。
本人は平気だと言いますが、いくら若くても、短期間に何度も遠距離の移動をするのは、かなり疲れるはずだと思います。
ですから今日は、私と翼の方が、夫に会いに、東京から鹿児島までやって来たというわけなのです。
夫の職業は、判事。
ほぼ3年ごとに、地方裁判所への転勤があります。
勤続年数が増えるのにつれて、徐々に居住地から近い地域に任命されるようになるそうですが、転勤は定年まで続くそうです。
東京で、3人揃って暮らせるようになるのは、何年後になるのでしょうか……。
翼
「おかあさん!」
つい、考え事に気をとられていた私は、翼の声に、ハッとして顔を上げました。
翼の視線の先を見ると、大きな犬が体を揺らしながら、こちらに向かって近付いて来るではありませんか。
翼が、私の足にすがりつきます。
よろめきそうになりましたが、私は急いでスーツケースから手を離して、翼を抱き上げました。
ハッハッと息を吐きながら小走りに迫って来たのは、黒くて大きな、たしか、レトリバーとかいう種類の犬。
首輪は着けています。
そこに付いている、リードという太い紐を引き摺っているところをみると、散歩の途中で逃げてでも来たのでしょうか。
ですが、周りに、飼い主らしき人は見当たりません。
翼
「おかあさん、こわい」
翼が、泣きそうな声で言いながら、私の首にしがみつきました。
犬はもう、立ち尽くす私たちのすぐ足元まで来ています。
開いた犬の口から白い牙が覗いていて、迂闊に動けません。
翼
「おかあさん、こわい!」
怯える翼の声に刺激されたのか、立ち止まった犬は、唸るような声を出しながら、じっとこちらを睨んでいます。
私は、翼を抱く手に力を込めました。
お母さんも怖い、と言いたい。
言うわけにはいきませんけど。
小春
「大丈夫よ、今に、飼い主の人が来てくれるわ」
とは言ったものの、時おり通り過ぎるのは車道を行き交う車だけ、歩いているのは、ひとつ向こうの路地を歩く、下校中の小学生たちだけ……。
私たちは途方に暮れながら、ただ、犬がどこかに行ってくれるか、飼い主が迎えに来てくれるのを待って、その場で立ち往生するしかありませんでした。
その時です。
「こら、ケンジ!」
背後から、子供特有の、よく通る高い声がしました。
そして、私がそちらを振り返るより速く、黒いランドセルを背負った子が傍らを走り抜け、いきなり、犬の首輪を掴んだのです。
小春
「あっ!危ないわよ!」
「大丈夫です。こいつ、俺の子分だから」
子分?!
突然の意外な単語に、私はちょっと混乱しましたが、その子の言った事は嘘ではないらしく、さっきまで牙を剥いていた犬は、すっかりおとなしくなって、小さな手に頭を撫でられて、尻尾を振っています。
「しょっちゅう脱走するんです。俺が、飼い主の家まで連れて帰ります」
それじゃ、と言って、自分の身体よりも大きい犬のリードを持って歩き出したその子の姿の、なんと頼もしい事でしょう。
小春
「あ、あの、待って!」
私が声をかけると、その子は足を留めて、振り返りました。
数歩先に佇んだその子の姿を、改めて見た時、私は、息を飲むほどに驚きました。
なんて、綺麗な子でしょう!
ほとんど金髪と言ってもいいほどの、明るい栗色の髪。
白い肌、ぱっちりと開いた緑色の目、まるでお人形のように整った顔立ち。
もしも、たったいま絵本から飛び出してきたばかりの幼い王子様だと言われれば、納得してしまいそうです。
呼び止めたまま、その男の子のあまりの可愛らしさに見とれていた私の反応に、彼の方は少し怪訝な表情を浮かべて、軽く首を傾げただけでした。
「この辺りの人じゃないですね。もしかして、道に迷ってるんですか?」
小春
「道……あ、ええ、そうなの!越してきたばかりで、道を知らなくて……」
咄嗟に話を合わせて、彼を引き留めてしまったのは、半分は、本当に道を知らなかったから。
もう半分は、まだ、この、印象的な男の子と別れたくない、という、不思議な気持ちからでした。
夫は業者さんを頼んで単身で引っ越したので、私が鹿児島を訪れるのは初めて。
だから、住所の番地は知っているけれど、実際の家の場所は知らないのです。
小春
「あなた、知ってるかしら……この子の父親が、4月から、一人で住んでいる家なのだけど」
私が『この子』と言った時、男の子は、初めて、私の腕に抱かれている娘に、興味を持ったようでした。
男の子は2、3歩戻ってきて、翼の顔を覗き込みました。
「ふうん、お父さんに会いに来たのか。何歳?」
翼
「にさい」
翼が、2本の指を立てます。
「かわいい」
男の子は、にこりと笑いました。
彼の方こそ、天使のような可愛さです。
小春
「あなたは、何年生?」
「4年生です」
男の子が、私を見上げました。
「地図か、住所を見せてくれますか?俺が知ってる場所なら、案内します」
私は、以前、夫が印刷してくれた地図を、男の子に渡しました。
すると、地図が示す家を見るなり、男の子は、ぱっ、と顔を輝かせたのです。
「あっ!やっぱり櫻井さんの家だ。じゃあ、もしかして、この子が、翼?」
私はまたびっくりしましたが、翼の方は、名前を呼ばれたので無邪気に手を上げ、「はーい」なんて返事をしています。
「そうか」
男の子はにこにこしながら、帽子の上から翼の頭を撫でてくれました。
この子には、驚かされてばかりです。
小春
「どうして、翼の名前を知っているの?」
「櫻井さんが、一番大事にしてる盆栽にその名前を付けて、庭先でいつも話しかけているからです」
小春
「まあ」
……あの人ったら。
でも、その情景を思い浮かべると、ちょっと可笑しいような、何だか不憫なような……。
男の子は、犬のリードを握り直すと、再び、先に立って歩き出しました。
「案内します。俺も、ケンジの家も、そっちの方角だし」
小春
「ありがとう、助かるわ。ええと……」
「俺、穂積泪です」
何と呼び掛けたら良いか迷っていると、男の子の方から、名前を教えてくれました。
小春
「穂積…泪くん?」
あら、どこかで聞いた名前。
たしか、夫が帰省した時、近所にそんな名前の悪ガキがいて、困っているんだ、と文句を言っていたような……
でも、この子は、こんなに可愛くて、親切なんですもの。
きっと、私の記憶違いね。
小春
「よろしくね、泪くん」
泪
「はい」
こうして、私と翼は、しばらくの間、泪くんと一緒に歩く事になったのでした。