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翼
「……こんばんは!」
3日ぶりの、泪さんの部屋。
暗くて、ひんやりしている。
照明も暖房も、スイッチが入っていない。
だけど、玄関には3日前に履いていったはずの革靴が戻っており、リビングには点々と洋服が脱ぎ捨てられていて、その先にある浴室には、明かりが点いていた。
翼
(シャワー浴びてる……)
ということは、
翼
(泪さん、帰ってきたばかりなんだ……)
急に、胸の鼓動が速くなる。
すぐそこに泪さんがいると思ったら、さっき静まりかけた波が、また、押し寄せてきた。
翼
(……どうしよう。……どうしよう……どうしよう……)
暗いリビングに立ってたら、驚かせてしまう。
とりあえず、明かりを点けなきゃ。
このままじゃ不法侵入だから、声をかけなきゃ。
ああ、でももう、脱衣室の曇りガラスの向こうに人影が見える。
すぐに出て来るから、冷蔵庫からミネラルウォーター。
いやその前に寝室からシャツ、その前にタオル……
穂積
「何をドタバタしてるんだ」
翼
「ひゃっ!」
のんびりした声に続いて、背後から肩越しに伸びてきた長い腕が、私の手からタオルを取って髪を拭き、シャツを取って頭から被り、ミネラルウォーターを取ってスクリューキャップを開けた。
穂積
「ありがとう」
頭の上から声がして、プシュ、という音に続いて、ごくり、ごくりと喉を鳴らす音がし、さらに、空になったペットボトルをごみ箱に放り込む音が聞こえた。
穂積
「ごちそうさま」
翼
「ど、どういたしまして……」
……振り向けない。
穂積
「約束通り、来たんだな」
ふわり、と、泪さんの腕が、私の身体を後ろから抱いた。
背中に、泪さんの温もりを感じる。
穂積
「明日の朝まで待ちきれなかったのか?」
声が笑っている。
ああ、笑顔が見たい。
でも、なんというか、タイミングを逃してしまったから、顔を合わせづらくて。
穂積
「翼?」
振り向きたいけど。
振り向きたいんだけど!
穂積
「……変な奴」
私のお臍の前辺りで組まれていた手が緩んで、ふわあ、と、泪さんが欠伸を噛み殺す気配がする。
穂積
「まあ、いい。もう寝るぞ」
翼
「寝る?」
穂積
「明日は出勤だからな。お前、泊まっていくんだろう?」
私は我にかえった。
そうだ、逃げてる場合じゃなかった。
泪さんは、出張明けで疲れてるんだから。
早く休んでもらわなくちゃ。
でも、その前に、きちんと話をしないと。
明日、歪んだ噂が泪さんの耳に入る前に、私の口から、本当の事を話しておかないと。
取り返しのつかない過ちになる前に。
翼
「……あの、泪さん……」
私は意を決して、振り向いた。
そこにいたのは、3日ぶりに会う、懐かしい泪さん。
穂積
「やっと、こっちを向いたか」
泪さんの目が、微笑みをたたえて私を見た。
穂積
「ただいま……」
ほとんど金色の髪と、日本人離れした端整な顔立ちを持つ泪さんだけど、中でも印象的なのが、この、煌めきを放つ碧色の目だ。
吸い込まれそうなほど、きれいな目……
ところが。
その目が一瞬、見開かれた。
泪さんの顔から、微笑みが消える。
穂積
「誰だ」
翼
「えっ?」
誰、と聞いた?
泪さんが腕を伸ばして、親指の腹で、私の目の下をそっと擦った。
思わず、身体が硬くなる。
すると、泪さんの目が、すっ、と細められた。
表情の消えた美貌の中で、碧色の目だけが、感情の火を燃やしている。
穂積
「誰だ、と聞いている」
思考速度が速い泪さんの言葉は、私には理解出来ない事がしばしばある。
今もそれだった。
私が答えられないと分かったのか、泪さんの質問が変わった。
穂積
「誰が、触れた」
今度は少し、具体的になった。
けれど、私を見下ろす泪さんの冷たい表情は変わらない。
冷静で明晰な眼差しが、全てを暴こうとしている。
こういう時、彼は私の行動や表情の変化から何かを読み取りながら、頭の中では、物凄い速度で情報を整理して推理しているのだ。
怒らせてしまったのは間違いない。
けれど、仕事中に居眠りしていた藤守さんの頭を書類で叩いたり、私にちょっかいを出した小野瀬さんにプロレス技をかけたりする時と違って、表情の無い泪さんの怒りは、どれほどのものか計り知れなかった。
怖い。
怖くて、咄嗟に声が出なかった。
穂積
「俺の留守に、誰が、お前に触れたんだ!」
とうとう、泪さんが怒鳴った。
穂積
「それを言う為に来たんじゃないのか!」
翼
「……そう、だけど、私、私……」
泪さんは、ち、と舌打ちをして、私から手を離した。
そのままくるりと背を向けて、テーブルの上にあった携帯電話を手にする。
穂積
「もういい。小野瀬に聞く」
私はびっくりした。
翼
「小野瀬さんに?真夜中なのに!」
穂積
「お前だって真夜中に来ただろうが」
泪さんは本気で電話しそうだ。
穂積
「呼び出してやる」
翼
「駄目!やめて!」
穂積
「じゃあ俺が、これからあいつの部屋へ行く!」
翼
「もっと駄目!待って、お願い、話すから!」
私は必死に手を伸ばして、泪さんの手から携帯を奪った。
本気の彼に力で敵うはずはないから、実際は、彼の方が手を離したんだろう。
穂積
「どうして泣いてるんだ!目の下に隈が出るほど、お前を悩ませているのは、何だ!俺が触れただけで身体を強張らせるほど、お前が怯えているのは、いったい何故だ!」
翼
「泪さん……」
穂積
「……誰が、お前を泣かせたんだ」
感情の昂りを抑えようとしているのか、泪さんは仁王立ちして、肩で息をしていた。
穂積
「俺の一番大事なものに、断りもなく触れて、傷付けて、泣かせやがったのは、どこのどいつだ!」
翼
「……うん」
涙が出そうになった。
翼
「全部、話す」
泪さんの怒りは、私に向けられたものじゃない。
私の頬に涙の跡を見つけ、目の下に浮き出た隈に気付いて、私の身に何かが起きたと察してくれたものだ。
それが、嬉しかった。
翼
「泪さん、私を、信じてくれる?」
穂積
「当たり前の事を聞くな」
泪さんは頭の回転が速いから、一瞬で沸騰したように怒るけど、冷静になるのも速い。
目を閉じ、大きく息を吸ってから、はあ……、と、深々と息を吐く。
穂積
「……怒鳴って悪かった」
泪さんは私にきちんと向き直ると、頭を下げてくれた。
翼
「ううん」
私は、目尻の涙を指先で拭って、首を横に振った。
そうだ、慶史さんとの時も、そうだった。
泪さんは、私の浮気を責めるというより、私がそれを秘密にしていた事を、悲しんでいた。
泪さんと私の二人に関わる問題なのに、私が一人で抱え込んで、悩んで、勝手に結論を出そうとしていた事に、憤っていた。
あの時、泪さんは、どんな事でも話せ、と言ってくれていたのに。
翼
「あのね、一昨日の夜、刑事部の忘年会の時の話なんだけど……」
話し始めた私を、泪さんのくしゃみが止めた。
穂積
「……待て。とりあえず、先にベッドへ行こう。風邪ひいちまう」
泪さんは、自分が湯上がりで、しかも寒がりだという事を急に思い出したみたいで、大袈裟な仕草でひとつ、身体を震わせた。
翼
「あはは」
穂積
「やっと笑ったな」
泪さんも、やっと、笑った。
翼
「うん、ありがとう、泪さん」
寝室に向かいながら、泪さんがふと足を止めて、私を振り返った。
穂積
「そういえば、まだ、『おかえり』を言ってもらってなかった」
翼
「そうだね。……お帰りなさい、泪さん」
穂積
「ただいま」
泪さんが、私の見たかった笑顔を見せてくれる。
穂積
「安心しろ、今夜は」
泪さんはそこで言葉を切って、言い直した。
穂積
「今夜からは、安心して眠れるようにしてやるからな」