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化粧室を出た後、もう一度あの会場に一人で戻る気にはなれなくて、私は、廊下の窓から見えた中庭に出てみる事にした。
洋風の庭園灯に照らされた、こじんまりとした庭。
ほぼ中央にある小さな池のほとりには、いくつかベンチも設えられていて、池の中には、小さいながら噴水も見える。
池にかかるように植えられている落葉樹は、もしかしたら桜なのかもしれない。
だとしたら、時期が来ればお花見が楽しめるはずだけど、いまは冬の夜、他に人影も見えない。
人の集まりに疲れた、今の気分転換には、ちょうど良さそうだった。
あの池をのんびり一周したら、ロビーに向かおう。
自販機で何か飲み物でも買って、待ち合わせの時間まで、藤守さんたちが出て来てくれるのを待てばいい。
そう考えて、私は、クロークへ預かってもらっていたコートを取りに行き、それを羽織ると、廊下からガラス張りの自動ドアを抜けて、中庭に出た。
外は少し寒かったけど、吐いた息は思ったよりも白くない。
腕時計を見れば、まだ、約束の時刻まではしばらく時間がある。
私は、庭園灯の仄かな灯りを頼りにゆっくりと庭を散策しながら、池のほとりに近付いて、ベンチに腰を下ろした。
翼
「……はあ……」
会場の喧騒が、遠くに聞こえる。
ひとり、揺れる水面に映った自分はなんだか冴えない顔をしていて、思わず溜め息が漏れてしまった。
翼
(……泪さん……)
一人ぼっちになると思い浮かべてしまうのは、やっぱり、ここにはいない泪さんの事。
翼
(……今頃、どうしてるのかな……)
そして、泪さんが出張に出掛ける前の、夜の事。
「浮気するなよ」と言われて、「しない」と答えたら、抱き締めてくれた。
「浮気しないでね」と言ったら、「しねえよ」と怒ってくれた。
翌朝、出発前に玄関でくれたキスは、優しかった。
泪さん……
翼
(……浮気なんか、しないよ……)
「失礼、櫻井くん?」
翼
「はっ、はいっ?!」
突然、間近から名前を呼ばれて、私は文字通り飛び上がってしまった。
慌てて声の方を見ると、すぐそこに、背の高い男性が立っていた。
こんな近くに来られるまで気付かなかったなんて、ここに泪さんがいたら「注意力が散漫だ」「刑事として失格だ」と叱られてしまいそう。
……泪さんの事を考えてたから、気が付かなかったんだけど。
翼
「す、すみません」
急いでベンチから立ち上がり、深々とお辞儀をする。
立花
「いや。こちらこそ、驚かせてしまってすまなかった」
ニコニコしているけど、見覚えの無い男性だった。
今日、ここのレストランは貸し切りだから、おそらく警察の関係者だろうとは思うのだけれど……。
……もしかして、この人……?
立花
「わたしは、警務部人事一課の立花だ。よろしく」
翼
(やっぱり)
私は緊張を悟られないようにそっと深呼吸すると、改めて、丁寧に一礼した。
翼
「緊急特命捜査室の、櫻井翼です」
立花
「知っているよ、櫻井くん。あそこはなかなか激務だが、その中でもきみは健気に頑張っていて、検挙率も高いと聞いている。大したものだ」
思いがけず褒められて、私はもう一度、頭を下げた。
翼
「ありがとうございます。捜査室の皆さんが良くしてくださるので、どうにか勤まっています」
立花
「しかも優等生だな」
立花警部は微笑みを絶やさない。
たしか34歳だと小野瀬さんが言っていたのに、もっと若く見える。
小野瀬さんや泪さんはどちらかと言うと中性的な顔立ちだけれど、この人は少し癖のある黒髪で短髪だし、彫りが深くて、男っぽい印象だ。
眉間に浅い皺が入っているのも、少し神経質そうで、憂いを含んだ眼差しが、男前と言っていい整った目鼻立ちに、強いアクセントを加えている。
さっきまで、女性たちがこの人の周りに人だかりを作っていたというのも、なんとなく分かる気がした。
立花
「隣に座ってもいいかな?」
どうぞ、と言おうとして、不意に、首の後ろがチリッと痛んだ。
同時に、さっき小野瀬さんに言われた「立花警部には気を付けて」という言葉が甦る。
翼
「あの」
さっき立ち上がったままだった私は、ベンチには戻らず、一歩下がって、立花警部にベンチを勧めた。
翼
「警部がどうぞ。私、もう、中に戻りますので」
早く、この場を立ち去ろう。
藤守さん、如月さん、小野瀬さんの所に戻ろう。
翼
「失礼します」
挨拶もそこそこに立花警部に背を向け、急いでホテルの方に戻ろうとした私の身体は、けれど意に反して、がくん、と動きを止めた。
一瞬、何が起きたか分からなかった。
驚いて振り向くと、立花警部の右手が、私の左腕を掴んでいた。
どういう情況なのか。
私がそれを理解する前に、立花警部が口を開いた。
立花
「待ちたまえ。……櫻井くん。わたしは、話がしたい、と言っているんだよ」
翼
「えっ?」
立花
「それに……失礼だと言うのなら、このわたしに、そんな態度はとらない方がいいと思うが?」
何が気に入らなかったのか、立花警部は笑顔を消し、突然、横柄な態度になった。
立花
「今のところ、捜査室は高い評価を受けている。室長である穂積や、捜査員たちも同様だ」
立花警部は私の腕を掴んだまま、行く手を阻むように前に回ると、また、笑いを浮かべた。
立花
「だが……その捜査室の存続も、穂積の出世も……これからの、きみの態度次第だ、と言ったら?」
立花警部の言葉と、掴まれた自分の腕。
それが意味する事に思い至って、私は衝撃を受けて立ち尽くした。
立花
「櫻井くん、きみは聡明だ。わたしの言っている意味が、分かるだろう?」
つつ、と立花警部の指先が私の腕を撫でて、全身に鳥肌が立つ。
翼
「……ご冗談、ですよね」
気丈に言い返しているつもりなのに、私の声は震えていた。
まさか、自分の立場を悪用して、下の階級の私を脅そうだなんて!
そんな個人的な欲望の為に、捜査室や泪さんを利用しようだなんて!
翼
「……失礼ですけど、警務部の方の言葉とは思えません。……そんな、公私混同な人事を、出来るはずがありません」
言ってから、もう一度身体を引こうと思ったけれど、立花警部に掴まれた腕は、少しも緩まない。
それどころか立花警部は、私の腕を握る手に力を込めた。
立花
「はは、本当に優等生だな」
翼
「手を放してください!」
私は逃げようともがいたけれど、立花警部は、私の抵抗を一笑に付しただけだった。
立花
「ふ……穂積が気に入って、交通課からスカウトしたと聞いたが、……なるほど」
立花警部が私を見つめて、目を細めた。
立花
「わたしも気に入ったよ」
顔を近付けてくる立花警部から強いお酒の匂いがして、私は顔をしかめた。
翼
「やめて、近寄らないで」
さっきから感じていた首筋の痛みは、もう、ズキズキという痛みに変わって、警鐘を鳴らし続けている。
寄せられる顔を押し返そうとしたら、もう一方の腕まで掴まれてしまった。
両方の手首を立花警部の手に掴まれ、逆らおうとしても、身動きがとれない。
翼
「放してください!」
力ずくで抱き寄せられて、私は悔しさに身をよじった。
立花
「おとなしくしたまえ。みんなが見ている」
翼
「えっ?!」
立花
「ホテルの方を見てごらん。ほら、野次馬が集まり始めているだろう?向こうから見たら、わたしときみは、仲睦まじく話しているように見えないかな?」
確かに、今、立花警部と私は、向かい合って、両手を繋いでいるように見えるだろう。
ホテルの窓を振り返って、向こうからの視線を確かめる勇気はなかった。
立花
「たとえ、事実はこんな風に言い争いをしているとしても、だ。まさか、優等生の櫻井翼が、上役のわたしの手を振りほどき、突き飛ばそうと躍起になっているだなんて、誰も思わないだろう?」
翼
「そんな……!」
その時突然、植え込みの中で何かが光った。
何?
……まさか、写真?!
立花
「噂というのは、利用すれば便利なものさ。明日になれば、周りが勝手に、きみとわたしを『そういう関係』だと思ってくれる」
立花警部は、いやらしい目で私を見てから、いきなり私を引き寄せ、私の頬に、無理やり、自分の唇を押し付けた。
翼
「ひっ……!」
再び、植え込みが光る。
立花
「さあ、これで、我々が、人目も気にせずにキスをしていた、という噂が立つかな?」
そんな……
酷い。
どうすればいいの?!
誰か……!
翼
(……泪さん……!)
小野瀬
「櫻井さん!」
その時割って入って来たのは、泪さんじゃない。
小野瀬さんの声だった。
同時に、植え込みから誰かが向こうへ出ていく気配がしたけど、追うことは出来なかった。
小野瀬さんに気付いた立花警部が、ちっ、と、私だけに聞こえる舌打ちをして、私から手を離す。
弾みでよろめきそうになりながらも、私は、小野瀬さんを目で探した。
小野瀬さんは、もう、すぐそこまで来ていた。
小野瀬
「遅くなってごめんね。……大丈夫?」
大丈夫じゃありません!
思わずそう言い返しそうになったけれど、駆け寄ってきた小野瀬さんの手に、さっきの烏龍茶ではなく、透明な水の入ったコップが握られているのに気付いて、私は、咄嗟に、頷くだけの返事に留めた。
きっと、小野瀬さんは、戻らない私を探しに来てくれたんだ。
そして、庭で立花警部に絡まれている私を見つけ、機転を利かせて水を持ち、介抱を装って助けに来てくれたに違いない。
助けに来てくれた……、そう思ったら、安堵で足から力が抜けそうになった。
翼
「ありがとうございます、小野瀬さん」
小野瀬さんの心遣いを無駄にしないよう、私は、心からのお礼を言って、コップを受け取った。
立花
「……小野瀬」
小野瀬
「こんばんは、立花警部……ですよね。すみません、彼女、人に酔ってしまったようで。さ、座って」
小野瀬さんは私をベンチに座らせながら、さりげなく、立花警部との間に入ってくれる。
ありがたくて涙が出そうだった。
立花
「……ああ、そうか……、具合が悪くて、外の空気を吸うために休んでいたのか……。そこまでは気付かなかった」
立花警部が半ば独り言のように言うのを、私は、聞こえないふりをした。
立花
「だから、機嫌が悪かったというわけか。悪かったな、櫻井くん」
勝手な事を言っているけれど、もう、言い返す気にもならない。
コップを持つ自分の手が、まだ震えている。
怖くて、じゃない。怒りで。
翼
「いえ……でも、今日は、もう、帰らせていただきます」
私は溢れ出そうになる感情を抑えて、ようやく、それだけ言った。
こんな事で本当に室長や捜査室の立場が危うくなるとは考えられないけど、騒ぎにはしたくない。
それでなくても、立花警部と小野瀬さんが揃った事で、大勢の視線がこの庭に集中したのが気配で分かる。
これ以上、注目されたくはなかった。
ところが。
立花
「気を付けて帰りたまえ」
そう言い残し、先にホテルに向かって石畳を戻り始めた立花警部の後ろ姿が遠ざかるのを見て、ほっとしたのも束の間。
廊下にある出入口まで戻った彼は、私と小野瀬さんのいる庭を振り返って、さらに大きな声で言ったのだ。
立花
「では、櫻井くん、また明日!いつものように、このホテルの701号室で、夜9時から待っているよ!」
翼
「なっ……」
なんて人なの!
怒鳴ってやりたかったけれど、傍らで小野瀬さんが私を目で制したので、私は唇を噛んだ。
立花警部は、待ち構えていた大勢の女性たちに囲まれて、笑いながら会場に戻って行く。
その姿が今度こそ見えなくなるまで待って、私は、小野瀬さんがくれたコップの水を、一息に飲み干した。