寒中梅
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~穂積vision~
酷い事件だった。
酷い現場だった。
その凄惨さはあの小野瀬が嘔吐を催し、この俺が思わず顔を背けた程だった。
だが、本当に恐ろしいのは、血塗られた殺害現場の有り様ではなかった。
小野瀬は鑑識の部下たちと共に被害者の生温い破片を拾い集め、俺は、壊れたように泣き喚き続けている加害者と向かい合った。
加害者は、いや、加害者を含む周辺住人たちは、長年に渡って、誰もその理由を知らないまま、心身を苛むほどに執拗で理不尽な中傷や攻撃を繰り返し受け続けていた。
被害者の感情にまかせて無差別に行われる、異常としか言いようのない恐ろしい執着や言動に、誰もがほとほと困り果て、疲れ果てていた。
今回の事件で、加害者に同情し減刑を求める嘆願書の署名者数は、数日で千を超えている。
加害者はたった一度の凶行によって、被害者による無数の暴行を終わらせたのだと誰もが認め、その多くが涙を流して加害者を擁護している。
だが、誰からも慕われた加害者の人格は殺人によって完全に崩壊し、被害者はついに誰にも理解されないまま、振るわれた鉈の露となって文字通り灰塵に帰した。
酷い現場だった。
酷い事件だった。
もはや会話も成り立たず、感情だけに振り回される加害者の取り調べに何日も費やし、これ以上傷付かないように、然るべき病院に送り届けた。
目の下に隈を作ってようやく帰宅した俺を、翼は黙って迎え入れてくれた。
穏やかな味の温かな料理は、現場を見て以来食事を受け付けなくなっていた俺の身体を、少しずつ、少しずつ、時間をかけて満たしてくれた。
浴槽に張ってくれた温めの湯にたっぷりと浸かれば、目に焼き付いた光景も、染みついた血の匂いも、耳に残った狂気の声も、やがて静かに薄れていくだろうと思えた。
寝室で待っていてくれた柔らかい身体に抱かれて、俺はただただ眠った。
加害者は報われたのだろうか。
被害者は救われたのだろうか。
もっと早く、警察に出来る事は無かったのだろうか。
どれほど考えても、今の俺には分からない。
それでもなお、答えを求めずにはいられない。
暗い闇の中で伸ばした手を、ちいさなやさしい手が握り返してくれた。
瞼を閉じるたびに現れる悪夢を、髪を撫でるやわらかい指先が拭い去ってくれた。
子守唄のように、
母の胸のように、
早春の寒さの中、雪の積もる庭先で綻び始めた小さな梅の蕾を見上げた時のように。
凍てついていた心と身体が、五弁の花びらの触れたところから、季節が揺らぐように、ゆっくり、ゆっくりと解されてゆく。
瞼を開くと、唇で触れてくれた。
返事の代わりに、指を絡めて目を閉じた。
清廉でいとおしい香りが包んでくれて、俺はまた眠りに落ちる。
翼。
いつも傍らにある小さな、けれど芯の強い花。
俺の進む道は、時として冷たく暗く険しいけれど。
吹雪の中で迷いそうになったとしても、決して道を誤りはしない。
翼。
俺は、お前という花を道標に、この、果ての見えない道を進み続ける。
どんなに雪が深くても、どんなに長い冬でも。
いつか、穏やかな春の喜びを一緒に迎えられる日が来ると、そう、信じながら。
~END~