イニシャル
登場人物の名前を変更する事が出来ます。
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
渡辺さんの体術は、素晴らしかった。
道場の壁際にずらりと正座して見学している各部署の責任者さんたちからも、彼女が男性の指導者を相手に技を決めるたび、拍手や感嘆の声が漏れる。
これが現場で相手が被疑者だったら、と思えば、彼女の強さは頼もしい限りだ。
その証拠に、捜査室から参加している室長と明智さんも、目を輝かせて彼女の動きを見つめている。
渡辺さんの方は、鑑識代表として見学している小野瀬さんの視線の方が気になるみたいだけど。
見事な一本背負いに見惚れていると、不意に、渡辺さんがこちらを振り向いた。
渡辺
「次は……櫻井さん、相手をお願いします」
翼
「えっ?!……はい!」
急に呼ばれてびっくりしたものの、さっきの会話から、こうなるだろうと予想はしていたので、覚悟を決め、彼女に向かって走り出る。
道場の中央で向かい合うと、彼女はやっぱり大きくて、背後にいるはずの室長と明智さんが巨体に隠れてしまったほどだ。
でも、私は見ていた。
彼女の陰に消える直前、室長と明智さんの唇が、揃って「きめろ」と言う形に動いたのを。
これは、逮捕術の訓練だ。
まともな柔道なら、有段者の彼女を相手に勝ち目は無いけれど、逮捕術なら、負ける確率は100%ではない。
彼女は私より頭ひとつ背が高く、身体も厚い。
体重は、倍近くあるだろう。
こんな強い人に勝つ気でいる自分にも内心驚いたけど、私だって、室長や明智さんに、そして、捜査室での経験に鍛えられている。
不様な負け方だけはしたくない。
翼
(……きめる、きめる、きめる……)
私は目を閉じて、足踏みをしながら、イメージトレーニングを繰り返した。
翼
(……渡辺さんを被疑者だと思って……確保するつもりで……)
「始め!」
合図と同時に、踏み込んできた渡辺さんの手が、私の手首を掴んだ。
動きが速くて見えなかった事にまず驚いたけど、これは、イメージしていた攻撃の範囲内。
私は急いで手を開き、そのまま、自分の肘を渡辺さんの肘に当てた。
こうすると、角度的に手首を掴んでいられなくなるので、相手の手を外すことが出来る。
一撃目はかわせた。
けれど、もちろん、渡辺さんはすぐに次の攻撃を仕掛けてきた。
Tシャツの胸倉を掴まれたので、私は夢中でその手を外に捻り、お辞儀をするようにしながら、渡辺さんの手首に体重をかける。
そうすると、渡辺さんは下方向に逃げるしかなくなるのだ。
さらに、捕らえた右手を、親指が下になるように掴んで外方向に捩ってやれば、床に膝をついた渡辺さんが、小さく悲鳴を上げた。
大して力は入れていないけれど、人体の構造上、この方向に手首をひねられると、痛みで立っていられないはず。
私は無我夢中で渡辺さんの腕を捻りあげたまま押さえつけ、全体重をかけて彼女の身体を組み敷いた。
「そこまで!」
きまった!
私は非力だから、渡辺さんとまともに組み合うなんて出来るはずがない。
だから、室長と明智さんのアドバイスに従って、関節をきめる事だけを狙ったのが、効を奏したみたい。
明智さんが、珍しく高揚した様子で私に拍手を贈ってくれている。
油断したとはいえ、負けたのがよほど悔しかったのか、それとももしかしてどこか痛めたのか、渡辺さんは、私が手を離しても、まだ、うずくまったままだ。
すると。
壁際から、室長が立ち上がった。
上役の人達に一礼してから、渡辺さんの傍らに歩み寄って、片膝をつく。
二言、三言、彼女の耳元で囁くようにかけた言葉は聞き取れなかったけど。
何をするつもりなのか全員が見守る中、室長は、誰もが驚く行動に出た。
穂積
「失礼」
そう、優しく声をかけると、一息に、渡辺さんの大きな身体を抱き上げたのだ。
渡辺
「うそ……」
渡辺さん本人も、まさか、室長が、自分をお姫様抱っこで持ち上げるほどの膂力を持っていたとは思わなかったようで。
穂積
「どうもありがとう、渡辺さん。櫻井のような非力な者でも、逮捕術をしっかり身に付ければ、あなたのように強く優秀な相手を抑え込む事が出来ると実践して見せてくれて。感謝します」
室長の言葉が終わると、見物していた全員から、渡辺さんに対する拍手が沸き起こった。
渡辺さんの顔が赤く染まる。
小野瀬さんも、壁際で立ち上がって、手を叩いている。
小野瀬
「素晴らしかったよ、渡辺さん」
涙を堪えて赤くなっていた渡辺さんの顔が、さらに赤く染まった。
室長はその様子を見てから渡辺さんに微笑むと、そのまま彼女を保健室に運ぶと言って、道場を出て行った。
数日後。
翼
「あれ?泪さん、これ、何?」
帰宅した室長……泪さんの鞄の傍らに、見慣れない小さな紙の手提げ袋が一緒におかれているのに気付いて、私は首を傾げた。
ジャケットを脱いでいた泪さんが、「ああ、それね」と、まだ職場でのオネエ言葉が抜けないままに言いながら、今度はネクタイを外す。
穂積
「渡辺にもらったのよ。この前、お姫様抱っこで保健室に運んでもらったお礼、ですって」
翼
「えっ?」
穂積
「手作りの塩味クッキーなんですって。可愛いわよねーえ」
翼
「……渡辺さんが、クッキー……」
部屋着に着替えた泪さんが、リビングのソファーに戻って来た。
穂積
「『警視庁穂積ファンクラブ』にも入ったらしいわよ」
翼
「えっ!」
穂積
「ワタシの部下であるアンタの事も、今後は、妹のように可愛がると言ってくれたわ。良かったわねー、頼もしいお姉ちゃんが出来て」
泪さんに頭を撫でてもらって嬉しいけど、今聞いた話の内容が、いろいろと衝撃的過ぎて。
翼
「渡辺さんは、熱烈な小野瀬さん派なんですよ?」
穂積
「ああ、そういえば、アンタとの試合の前も、小野瀬ばかり見ていたわねえ」
翼
「だから、あの時、私、突然、組み手の相手に指名されて、怖い目に遭ったのに……」
穂積
「たぶん、小野瀬もいいけど穂積も悪くない、って思ってくれたんじゃない?」
そう言って、泪さんはにっこり笑った。
穂積
「ところで、今の、突然、渡辺の組み手の相手に指名されたのは、小野瀬派のせいだって話、初耳なんだけど?最初から、詳しく事情を聞かせてくれるかしら?」
(後日、私は、今度は男性職員を対象にした逮捕術訓練で、私が渡辺さんにした体術をそっくりそのまま、泪さんが小野瀬さんに実践した……と、風の便りで聞く事になる……)
翼
「ねえ、泪さん。私、少しは、刑事として成長したかな?」
穂積
「そうだなあ。あの渡辺を抑え込んだんだから、大したものだ」
翼
「やった!」
思わずガッツポーズをすると、泪さんが笑いながら、私に顔を寄せてきた。
穂積
「必ず、立派な警察官に育ててやる。俺を信じて、努力し続けろよ」
翼
「うん」
ちゅ、と、泪さんが私の唇を啄む。
嬉しいし、気持ちいいけど……、何故か、ちょっとだけ、物足りない。
穂積
「エロい顔して……こっちも、そろそろ、次のステップを教えてやろうか」
泪さんが私を抱き上げる。
翼
「……泪さん……」
穂積
「何だ?」
翼
「もう、他の女の人を抱き上げたりしちゃ、嫌」
私の為にしてくれたんだと、分かってるけど。
翼
「私、もっと努力する。立派な警察官になるのはもちろん……女性としても、泪さんの好みに近付けるよう、頑張るから」
穂積
「いい心掛けだ。だが……」
額にちゅ、とキスされて、顔を上げれば、泪さんの笑顔と、私を見つめる碧の光彩に捕らえられた。
穂積
「お前はとっくに、俺好みの女だよ」
翼
「……ん……っ」
重なった唇が教えてくれるのは、言葉通りの、今までよりも大人なキス。
泪さんの頭を抱き寄せるようにして応えれば、口づけはさらに深くなって私を誘う。
泪さん。
あの時、だぼだぼのTシャツの胸に縫い付けられていた泪さんの名前が、どれほど私に勇気をくれたか、分かる?
いつか、あの名前が自分のシャツの胸に馴染む日が来るよう、私、これからも頑張るからね。
~END~