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~翼vision~
立秋はとっくに過ぎたのに、秋とは名ばかりの残暑が続く中。
今日は、早朝から、刑事部の女性警官を対象とした、体力強化訓練が行われていた。
もちろん、捜査室からは、唯一の女性である私だけが参加している、……なんて、説明するまでもない事だと思うけど。
今は、他の課に所属する女性たちと二列縦隊を組んで、汗だくになりながら、警視庁の敷地内にあるトレーニングコースを周回しているところ。
一緒に走っている仲間たちの中からは、「なにもこんな真夏にやらなくても」とか、「日焼け止めが全部落ちちゃう!」なんて嘆く声が、荒い息遣いの合間から、途切れ途切れに聞こえてくる。
私も全く同感。
……だけど、苦しいからこそしっかりやっておかなくちゃ!なんて、前向きに考え直してもみたり。
なにしろ、私の所属する緊急特命捜査室の室長は、女性捜査員であり恋人(ここ大事!)である私に対しても、職場では一切の特別扱いをしないで、他の男性メンバーたちと同じようにこき使……仕事をさせてくれる人、なのだから。
男女平等な職場だというのは喜ぶべき事だし、実際、現場に出れば、体力が無かろうが女だろうが真夏だろうが、逃走する被疑者を追って、逮捕するまで走り続けなければならない。
そして、そうは言いつつも体力が圧倒的に不足している私を、男性メンバーたちが上手にフォローしてくれているという事だって、分かっている。
だからこそ。
翼
(捜査室の役に立つ刑事になれるよう、頑張らなきゃ!)
私は、拳をぎゅぎゅっと握り締めた。
ようやくランニングを終え、仲間たちと軽く会話したり、水分補給したりしながらコースを歩いて、徐々にクールダウンしていると。
急に、周りの女性たちがざわめき出した。
翼
(何だろう?)
みんなの視線が集まっている方向を目で追って見れば、そこには……庁舎の窓からこちらを見下ろしてにこやかに手を振っている、小野瀬さんの姿があった。
小野瀬
「みんな、お疲れ様!頑張ってね!」
思いがけない『警視庁の光源氏』からの声援に、女の子たちは一斉に色めき立って、きゃあきゃあと嬉しそうに黄色い声を上げたり、手を振り返したりしている。
さすが、小野瀬さん。
警視庁の内部で密かに行われている『抱かれたい男ランキング』で、毎年のようにNo.1に選ばれるのも納得の人気ぶりだ。
小野瀬
「櫻井さん!」
感心していたら、突然、私の名前が呼ばれた。
小野瀬
「櫻井さーん!」
翼
(えっ?!)
周りが一斉に私を振り返る。
小野瀬
「櫻井さん、頑張ってー!」
たちまち、四方八方から、羨望の視線が私に突き刺さってきた。
翼
(ひゃああ!)
争うように手を振り返していた他の女の子達と比べて、私、反応が薄いと思われたのかしら……?!
翼
「すみません、ありがとうございます!頑張ります!」
慌てて、大声でお礼を言いながらぺこぺこと頭を下げると、小野瀬さんは満足そうに笑って窓から離れ、廊下を優雅に歩き去っていった。
翼
(危ない、危ない。小野瀬さんを不機嫌にすると、後で再会した時、どんなお返しをされるか分からないんだから……この前も、ダイエット中なのに、シュークリームを二個も食べさせられたりしたし……美味しかったけど)
「……てるよね」
「……ちゃおうか」
その時、私は小野瀬さんの事を考えながら冷や汗をかいていたので、ふと耳が拾った、低い声で交わされた会話の大半を、聞き逃してしまっていた。
後から思えば、この時、もっと注意していれば、後に起きる出来事に備える事が出来たかもしれないのに……。
事前の柔軟体操と、さっきまでのランニングで身体を温めたところで、強化訓練の舞台は道場に移った。
今度は逮捕術。
警察学校の必須科目だから、もちろん経験はある。
けれど、強面の教官たちから熱の入った指導を受け、教わった事を反復していると、普段とは違う緊張感で身体が強張ってしまう。
翼
(……技の基礎や受け身の練習だけで倒れちゃいそう……)
フラフラになりがらもどうにか耐え、「そこまで!」の声を聞いた時には、もう、そのまま気を失ってしまいそうだった。
「ありがとうございました!」
残った気力を振り絞って作法通りに挨拶をして、やっとの事で、午前の教習は無事終了。
午後からは、刑事部上層の偉い人たちが、逮捕術特訓の成果を視察に訪れる事になっている。
そう。
つまり捜査室からは泪さ……室長がここに来るのだ。
今朝のミーティングでは、
穂積
「櫻井の柔道は夏の合宿で見たけど、逮捕術は久し振りね。どれだけ上達したか、楽しみだわぁ」
なんて笑ってたけど。
翼
(頑張って、強くなったところを見せられたらいいな……)
一旦解散となり、私たちは疲労困憊の身体を抱え、きっと傍目にはゾンビの行列のようになりながら、ぞろぞろと庁舎内にある大浴場へと向かった。
汗を吸ったジャージが重い。
お風呂から出たら今度は官給のTシャツとスラックスに着替えて、めいめいに昼食を摂って、すぐにまた道場に戻らなくちゃいけない。
翼
(急がなきゃ)
焦って更衣室に飛び込んだせいで、私は、そこに立っていた人の背中にぶつかってしまった。
翼
「あっ、すみません!」
渡辺
「櫻井さん」
振り向いたのは、刑事一課の……たしか、渡辺さん。
身長も体重も、大柄な男性刑事に引けをとらない立派な体格。
そして、柔道の有段者で、暴漢の検挙率の高さでも有名な婦警だ。
渡辺
「あなた、小野瀬さまに声をかけられて調子に乗ってるかもしれないけど。小野瀬さまは誰にでもお優しいんだから、有頂天にならないことね」
翼
「えっ?」
……小野瀬さま?!
たった今言われた言葉を頭の中で急速再生した私は、彼女の勘違いに気付いて愕然とした。
翼
「あの」
渡辺
「あなたも、男性ばかりの部署に一人で頑張ってるみたいだし、ちょっと可愛いのも認めるわ。でも、婦警の価値は顔じゃない。午後からの道場で、それを思い知らせてあげる。小野瀬さまの前でね」
それだけ言うと、彼女は、どすんどすんと床を鳴らしながら去っていった。
「……い気味だよね」
「……わいそうだけどさ」
さっきも聞こえた、低い嘲りの声。
翼
(もしかして、さっきの事で、小野瀬さんのファンの人たちを敵にしちゃったのかな……)
警視庁の中で、特に、未婚女性の間で、小野瀬さんの人気は凄まじい。
「アオイスト」とも呼ばれるファン同士の間で、水面下での激しい争奪合戦が行われているという噂も聞いている、けど。
翼
(……けど、私は、小野瀬さん派というより、穂積室長派なんだけどな……)
その室長よりも体重のありそうな、居酒屋の女将さんや警察病院の婦長さんを彷彿とさせるあの巨体と、道場で相対したらどうなるか……想像しただけで、はあ、と溜め息が溢れてしまった。
ところが。
不運は、それだけでは済まなかった。
お風呂から出て、スポーツバッグから着替えを出そうと中を見た私は、あれ?と思った。
Tシャツが無い。
入浴前は確かにそこにあったのに。
翼
(まさか……)
一瞬、渡辺さんの顔が頭に浮かんだけど、すぐに消えた。
あの人は、こんな陰湿な事をするタイプじゃないと信じたい。
次に脳裏をよぎったのは顔ではなく、ひそひそと囁き合う声だった。
翼
(あの人たちか……)
小野瀬さんから声をかけられた私に向けられた、嫉妬を含んだいくつかの声。
持ち主の顔は分からないけど、あの中の誰かが私をこらしめるよう渡辺さんをけしかけ、さらに私のTシャツを隠したと思えば、納得がいく。
翼
(他に着るものはないし……汗まみれだけど、さっき脱いだ私服のTシャツをまた着るしかないのかな……)
視察があるから、全員が、紺色で胸に名前の刺繍がされている、官給のTシャツを着る事になってるのに。
翼
(選りに選って、ピンク色……)
溜め息をついた時、私は、捜査室のロッカーに、グレーのTシャツが置いてある事を思い出した。
昼食を摂る時間が削られてしまうけど、ピンクよりグレーの方が、まだ少しはましだろう。
私は、急いで捜査室に向かった。
翼
「ただいま戻りました!……それでは行ってきます!」
穂積・明智
「待て待て待て待て!」
捜査室に飛び込んで自分のロッカーからTシャツを掴み、再び飛び出していこうとした私の襟首を、立ち上がった室長の手が掴んで引き止めた。
穂積
「何があったんだ?」
明智
「飯は食ったのか?」
捜査室の娘に対して、捜査室のお父さんと捜査室のお母さんの反応は対照的だった。
ミーティングテーブルの上を見れば、そういう二人も、午後の視察に向けて昼食中だったらしい。
翼
「その……入浴中に、官給のTシャツが無くなってしまって」
穂積
「誰かに盗まれたか」
明智
「サンドイッチ食え」
翼
「それで、ピンクよりはグレーの方がまだましだと思いまして」
立ったまま、サンドイッチをもぐもぐしながら言うと、室長は、自分のロッカーから、紺色のTシャツを出してきてくれた。
穂積
「これを着て行け」
明智
「紅茶を飲んでけ」
背の高い室長が差し出してくれた官給のTシャツは、デザインは同じでも、明らかにサイズが大きい。
けれど、『穂積』と縫い取りされた文字が、じわじわと私の傷心を癒してくれた。
穂積
「負けるな。俺がついてる」
明智
「もう1つ食べてから行け」
室長と明智さんの優しさが嬉しくて、涙が溢れた。
翼
「はい!頑張ります!」