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~翼vision~
窓の外は今日も雨。
足元を濡らして帰宅した私は、そのままバスルームに向かうと、浴槽にお湯を張り、お化粧を落として湯船に浸かった。
5月の雨に当たった身体は思った以上に冷えていたらしくて、お湯の中にいると、指先からじんわりと血が巡ってくるのが分かる。
しばらく温まったところで、身体を洗い直そうとボディーソープを泡立てて肌に馴染ませた時、泪さんの事を思い出した。
翼
(まだ、仕事してるのかな……)
今日は、泪さんに帰りの挨拶をしないまま帰宅してしまった。
私が仕事を終えて捜査室を出た時刻には、泪さんは、まだ外回りから戻っていなかったのだ。
翼
(……会いたいな……)
職場で毎日会ってるのに、もちろん明日も会えるはずなのに。
泪さんに「お疲れ様」「また明日ね」と言ってもらえなかっただけで、こんなに寂しいなんて。
我ながら、子供みたい、だけど。
お風呂を出て、いつもならもうパジャマを兼ねた部屋着に着替えてしまうところで、私はバスタオルを身体に巻いたまま、携帯電話を手にしていた。
「室長」にではなく、「泪さん」に、電話をかけてみる。
受話器の奥で発信を告げる音が3回鳴った後、静かな男性の声がそれに代わった。
穂積
『翼か、どうした?』
泪さんの声の後ろから、カーラジオの音声が微かに聴こえる。
プライベートな話し方に、泪さんももう帰宅する途中の車内なのかな、そうならいいな、と考えながら、私は口を開いた。
翼
「あの、こんばんは。今、お話しして大丈夫ですか?」
穂積
『はい、こんばんは』
応えてくれた泪さんの声は、微笑を含んでいた。
穂積
『大丈夫だ。車は路肩に停めたから、心配しなくていい』
翼
「お仕事は?」
穂積
『終わったわよ?』
低く穏やかだった声が、急に、高い裏声になる。
それは職場での、演技している時の「室長」の声。
穂積
『アンタ先に帰っちゃうんだもの、寂しかったわ』
翼
「ごめんなさい」
相変わらず見事な切り替えに、私はくすくす笑ってしまった。
穂積
『冗談だ。笑う声が聞けて、嬉しい』
また、声が戻る。
私の大好きな、「泪さん」の声に。
穂積
『それで、電話の用件は何だ?』
聞き惚れていたら、急に、話が本題に戻った。
翼
「え、ええと……」
ただ何となく、とは言えないで、戸惑ってしまう。
穂積
『いい傾向だ』
翼
「え?」
ぼそりと呟かれた声に、私の胸はどきりと鳴った。
穂積
『俺の声が聞きたくなったんだろう?』
翼
「……!……」
私が息を飲んだ音を聞き漏らさなかった泪さんが、くつくつと喉を鳴らしている。
穂積
『迎えに行ってやりたいが、雨でずぶ濡れなんだ。タクシー代は払ってやるから、来いよ』
翼
「いいの?」
穂積
『ああ、おいで。俺も会いたい……』
そう言った直後、泪さんが、電話から顔を背けて大きなくしゃみをしたのが分かった。
風邪を引かせたら、大変。
私は慌てて通話を切り、明日そのまま出勤出来るようにスーツに着替えると、荷物を抱えて、電話でタクシーを呼んだ。
泪さんのマンションまで送り届けてくれたタクシーの運転手さんは、お支払いは穂積様から頂きます、と笑顔で言い残して、去っていった。
私がタクシーに乗るまでの間にどういう手段でそこまで手配してくれたのか私には想像もつかないけれど、泪さんが時々見せてくれるこういうスマートさには、驚かされるばかり。
インターホンに返事が無いので合鍵でお部屋に入ると、玄関では濡れた靴が大切そうにしっかり湿気対策されているのに、一歩踏み出せば脱ぎ捨てられた服が転々と散乱していて、思わず笑ってしまった。
呆れながら濡れた服や靴下を拾い集め、洗濯機に入れたりクリーニングに出す準備をしたりしていると、バスルームから、髪を拭きながら泪さんが出て来た。
穂積
「いつも悪いな」
翼
「ううん。それより、急に来てごめんなさい」
穂積
「好きな時に来ればいい。その為の合鍵だ」
私が謝ると、泪さんは濡れた身体を拭いてシャツを着てから、ソファーに座って私を手招いた。
穂積
「それより、さっきの返事を聞かせろ」
翼
「返事?」
引き寄せるようにして私を膝の上に乗せ、腕の中に緩やかに閉じ込める。
穂積
「どうして電話をかけてきたのか、だ」
翼
「あっ……」
狼狽えて目を逸らすと、背中から抱き締められて、ときめきが蘇った。
穂積
「俺の声が聞きたくなったか?」
翼
「……う……、うん……」
穂積
「いい傾向だ」
肩越しに頬を寄せた泪さんが、さっきも口にした言葉で私の耳をくすぐる。
穂積
「それで?」
オカマを装っている職場での裏声でもなく、私たちに指示を出す時の毅然とした声でもなく。
穂積
「声を聞いたら、それで満足か?」
たぶん、今、私だけが聞いているこの声は、泪さんの本当の声。
聞きたかった声は、確かにこの声なのだけれども。
翼
「……」
穂積
「お前も、風呂上がりだな」
すん、と泪さんが私の髪の香りを嗅いだ。
穂積
「裸になったら俺を思い出したのか?」
翼
「え、違」
違わない。
穂積
「この手が恋しくなったか?」
泪さんは大きな掌で私の肩を掴んで、身体ごと自分の方に振り向かせた。
向かい合うだけで体温が上がりそうで、私は俯いてしまう。
穂積
「翼」
肩から腕へ、さらに滑り降りた先で握った私の手を、泪さんは自分の胸に当てさせた。
穂積
「直に触れたくないか?」
服の下にある、泪さんの身体の心地好さを思い出した。
引き締まっていて、しなやかな筋肉と熱情を内に秘めた、逞しい男の人の身体。
泪さんが手を離しても、私は泪さんの胸から手を離せなかった。
どうすればいいのか分からなくなって顔を上げれば、私を見つめている碧の瞳に捉えられた。
穂積
「どうしてスーツを着て、下着の替えまで持って来た?」
眼差しが和らいで、泪さんの綺麗な顔が近付いてくる。
自分が、耳まで赤くなっているのが熱さで分かった。
どうして、って、だって、だって。
翼
「泪さん……」
穂積
「言ってしまえ」
唇が触れ合う寸前で、顔を近付けるのを止めた泪さんが囁いている。
穂積
「俺を思い出して会いたくて、抱かれたくて来たんだと」
翼
「うっ……」
もう、顔から火が出そう。
穂積
「恥ずかしくて泣きたくなるぐらい、俺のことが好きなんだと……それとも」
泪さんが、こつん、と、額を私の額に当てた。
穂積
「こうしてお前が目の前にいてくれて、嬉しくてたまらないのは俺だけか?」
驚いて見上げれば、泪さんは目を閉じていた。
伏せられた金色の長い睫毛が震えたように感じて、私は慌てて首を横に振った。
翼
「そんな事ない。だって私」
泪さんが瞼を開く。
もう逃げられなかった。
翼
「……泪さんに会えないまま、一人で帰る時から、寂しくて。雨に濡れながら歩いてた時から、人恋しくて。でも、他の人じゃ駄目なの。どうしても、泪さんの顔が思い浮かんで、消そうと思っても消えなくて」
堰を切ったように溢れだす言葉も思いも、もう止められない。
翼
「お風呂に入ったのに肌寒くてたまらなくて、我慢しようと思ったのに、泪さんの事が頭から離れなくて、会いたいと思ったら、我慢出来なくなって、それで……、それで、電話しちゃったの。ごめんなさい」
穂積
「翼」
泪さんの指が動いて、私の目尻を拭った。
穂積
「翼」
きつく抱き締められると、だんだんと鼓動が落ち着いてきた。
初めての頃は逆にドキドキしたのに、不思議。
穂積
「良かった」
翼
「?」
穂積
「お前が、順調に俺を好きになっている」
私が泪さんを好き、という言葉は、しっくりと私の胸におさまった。
翼
「うん」
私は頷いて、温かい泪さんの胸に顔を埋めた。
翼
「泪さん、好き。大好き」
穂積
「これから、雨に遭うたびに俺を思い出すようにしてやる」
私を抱き締める泪さんの体温に包まれて、身体が溶けてしまいそう。
穂積
「晴れの日差しにも、曇り空にも、風の夜にも、雪の朝にも」
翼
「それじゃ、毎日だよ」
穂積
「毎日教え込んでやる」
ボタンを外した首筋に吸い付かれて、私は声を出してしまった。
穂積
「もっと夢中になれ」
翼
「んん……っ!」
穂積
「覚悟しろよ……俺を、本気にさせたんだから」
言葉通りの荒々しい愛撫と、言葉とは裏腹の優しい眼差しで誘惑されて、身も心も泪さんに奪われてゆく。
でも、その烈しさが、堪らなく心地好い。
翼
「るい、」
言葉を口づけで奪われて。
代わりに私を満たすのは、私をソファーに倒す泪さんの熱と身体の重みと、隠そうともしない私への恋慕。
見つめ合うたび、窓を叩く雨の音が遠ざかってゆく。
唇を重ねるたび、私の身体は彼の為に解されてゆく。
長い指が下着の隙間から滑り込んだ瞬間、目の奥で火花が散って、私は悲鳴を上げた。
翼
「やっだめっ、明日このスーツ着れなくなっちゃう!」
穂積
「手遅れだと思うけどな」
翼
「うっうっ、意地悪……」
穂積
「マジ泣きすんなよ」
こんな時に限って、なかなか脱がしてくれないんだから本当に泣きたくなる。
楽しそうに私を見下ろす悪魔のような恋人に、お願いだからもう許してと無駄な懇願をしながら、私は思う。
この人はまだ足りないと言うけれど、これ以上好きになったらどうすればいいの?
何ひとつ対策を立てられないまま、気持ちよすぎる拷問に身悶えしながら、私は熱い溜め息を吐き出した。
明日は出勤出来ないかもしれない。
~END~