紅葉の名前
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穂積、翼を見初める
~穂積vision~
予報通りの薄曇り。
しばらく振りの平日休み。
爽やかな風を受けながら、俺は、霞ヶ関一丁目を歩いていた。
出勤時間のピークは過ぎているが、街路を行き交う人々は相変わらず多い。
こんなに人の多い大都市に、住所を持って住んでいる人間は一人もいないと言うのは本当だろうか。
俺はそんな事を考えながら歩いていく。
濃紺のスーツは、省庁ばかりのこの街に良く似合った。
だが今日の俺は、片手に和菓子屋の紙袋、もう一方の手には、大きくて頑丈な帆布の袋を提げて歩いている。
一見、披露宴からの帰り道に見えなくもないが、あいにく、そんなめでたい事態ではない。
頑丈な方の袋に入っているのは、盆栽。
一抱えもある、立派な、紅葉の盆栽だ。
今日、俺がここに来た目的は、これを、本来の持ち主に返す為だ。
本来の持ち主とは、東京地裁の櫻井判事である。
前回は、夕方に来て、全法廷が終わるまで待った。
そして、判事が出てきたところに声をかけ、盆栽を返そうとしたが、判事は無言で携帯電話を耳に当て、俺を無視したまま、タクシーに乗り込み去ってしまった。
前々回は、早朝に裁判所の入り口で待っていた。
出勤して来た判事は俺の姿を見るや否や、関係者以外立ち入れない通路に回り込み、扉の向こうに飛び込んでしまった。
盆栽が無ければ走って追い付けたのだが、それでは本末転倒だ。
その前は、判事の休憩室の扉を閉められる直前、片足を伸ばして靴を挟む事に成功した。
「判事!聞いて下さい!渡し」
しかしあろうことか、次の瞬間、判事は屈み込んで、俺の靴を脱がした。
その弾みで靴だけは中に入ったが、俺と靴下は廊下に転がる事になり、靴は扉の隙間から投げ返された。
そのまた前は……。
やめよう。
思い出すと、失敗のイメージしかない。
嫌われているんだ。それは分かっている。
でも、話を聞いてもらえさえすれば、すぐに済む用事だ。
俺はこの、紅葉の盆栽を、持ち主である判事に返したいだけなんだから。
俺は頭の中のイメージをポジティブに変換するため、とりあえず、裁判所の建物の近くで携帯灰皿を広げた。
盆栽の袋は、鉢を割らないように気を付けながら、日陰にそっと置く。
まだ開廷前の裁判所には、人気も無く静かだ。
ここからなら、中の動きもいくらか見える。判事はあの通路の奥にいる。
法廷に続く通路。判事は必ずあそこを通るはずだ。
俺は煙草に火を点けた。
そして視線を入り口に戻そうとした。
その時。
俺の視界の左手から、高校生くらいの女の子が歩いて来た。
染めていない、栗色の髪。
整ってはいるがまだ幼さの残る、あどけない顔立ちをしている。
色白でほっそりとした体つき、少しのアレンジも加えられていない、今どき珍しいくらいに規則通りの制服。
俺は瞬きも忘れて、その女の子を見ていた。
翼。
いつの間にか建物の入り口に現れた判事が、彼女の名前を呼んだ。
お父さん、と彼女が笑う。
その笑顔に、俺はどきりとした。
……可愛い。
彼女は小走りで父親に駆け寄ると、スポーツバッグから、大きめの弁当箱らしい包みを取り出した。
いつも俺には目もくれない判事が、今は、愛娘を見つめて微笑んでいる。優しい父親の顔をして、判事は弁当箱を受け取った。
娘の方もニコニコしながら、大人しく判事に髪を撫でられている。
あの年頃でああして触られて無邪気に笑っているなんて、よほど父親を敬愛しているんだな。
二人の話し声は聴こえないが、それが微笑ましい会話であることは、その様子から予想がついた。
遠い木陰からずっと見つめている俺の姿も、彼女の視界には入っていないらしい。
やがて、彼女は判事に何か言ってから、くるりと背を向けた。
一度振り返り、父親に手を振って、もう一度背を向けると、今度はもう振り返らずに、走って行った。
判事はまだその場に立って、娘を見送っている。
俺はハッとして、盆栽の袋を掴んだ。
「櫻井さん!」
判事は俺の声に、予想以上の反応をした。
あっという間に踵を返し、裁判所の中へと駆け戻ったのだ。
当然、俺も後を追う。
「櫻井さん!」
「こら、穂積!」
判事は後ろも見ずに叫んだ。
「何度言えば分かるんだ!私はお前に用はない!」
こっちに用があるんだよ。
くそう!
娘と態度が違い過ぎだぞ!
「待って下さい!」
俺の叫びも虚しく、判事は、そのまま、素早く法廷に入ってしまった。
「待って…、それは反則だろ!」
思わず文句を言ったが、法廷の分厚い扉の向こうの判事には、もう届かない。
「くそ……!」
俺は立ち尽くし、溜め息をついた。
握り締めていた袋に、視線を落とす。
翼。
彼女と同じ名前の、紅葉の盆栽。
俺は盆栽を、目の高さまで持ち上げてみた。
翼。
盆栽の様子と、さっき見た女の子の姿が重なって見えた。
ああ、櫻井判事は、こんな気持ちで、この盆栽を見つめていたのか。
俺の脳裏に、遠い日の櫻井判事の姿が浮かんだ。
判事が単身赴任で俺の実家の近くに住んでいたのは、もう、十五年以上も前の話だ。
小学生だった俺は、判事の住む家のすぐ近くの公園で毎日のように野球をやっては、毎日のように、彼の盆栽にホームランを打ち込んだ。
もちろん、すぐに謝りに行くのだが、毎日のように大事な盆栽を打ち砕く俺を、判事が苦々しく思っていただろう事は、想像に難くない。
だが、当時小学生の俺が相手では、大人としては本気で怒るわけにもいかない。
判事は今でこそ大人げないが、本来、一般人の数倍の理性を持つ人物だ。
だから彼は、赴任先が変わる日、前日の放課後に鉢を割られた最愛の盆栽が、夜のうちに無くなっていた事に気付いても、黙って引っ越して行くしかなかった。
判事が未だに俺を毛嫌いしているのは、愛する紅葉の盆栽と、その他の名も無き盆栽たちの恨みのためだ。
だから、判事の怒りはもっともで、現在、俺が判事の為にさせられている苦労は、全て自業自得というものなのだ。
そうなんだけどさ。
盗人にも三分の理って言うだろ。
結論から言うと、俺は盗んではいない。
少し考えてみてくれ。
本当に盗んだなら、何故、俺はこんなに苦労していると思う?
返そうと思ってるんだ、さっきも言ったろ。
判事が引っ越す前夜の事だ。
俺は、放課後に割ってしまった盆栽の鉢を直そうと考えていた。
何故、その鉢に限って直す気になったかと言うと、俺は、知ってたからだ。
判事が仕事から帰って来た後、それから仕事が休みの日なんかに、目を細めて、この、紅葉の盆栽に話し掛けていた事を。
優しく名前を呼びながら、その日にあった出来事を、小さい子に聞かせるように、紅葉に話して聞かせていた事を。
女の子の名前を。
俺は、それを、知ってた。
この紅葉の盆栽は判事にとって特別なんだって、知ってたんだ。
だから、紅葉の鉢を割ってしまった時には、地元で評判の悪ガキだった俺も、さすがに血の気が引いた。
謝った時、判事は、いつものように許してくれた。次は気を付けなさい。いつもと同じだった。
でも、いつもと同じはずがない。
だってあの紅葉は、判事の大切な子供なんだ。
そう思ったら、どうしても、元通りに直さなければいけないと思った。
判事が寝ている間に、直しておこう。
俺は想いを実行に移し、紅葉の翼を、土と、割れた鉢ごと家に持ち帰った。
風呂から出た後、鉢をきれいに洗って、欠片が足りないところは粘土で補ってボンドで直した。
土と紅葉も元通り鉢に戻した。
貼り付けた鉢は水も漏らなかったし、引っ張っても、強めに置いても何ともなかった。
そのうちすっかり夜が明けたから、このまま寝ないで、返しに行こうと俺は思った。
黙って持ってきたから、黙って返す方がいいかな。
割れてたはずの盆栽が元の場所に戻ってたら、たぶん、ガキどもの誰かが直したんだって気付いてくれるだろう。
それでいいや。
俺は普段なら起きていないような朝早く、盆栽を抱えて、判事の家に向かった。
けれど、判事の家は、もう空っぽだった。
その時の俺に、判事は東京からの単身赴任でそこに仮住まいしていて、転勤の時期が来たから次の場所に赴任していったなんて事が、分かるわけがない。
その時の俺はただ、取り返しのつかないほど悪い事をしてしまった現実に気付いただけだ。
早朝、誰もいない公園、空っぽの家の前で、俺は泣いた。
泣きながら、判事に謝り続けた。
大事にするから。
判事の大切な紅葉の盆栽、大事に育てて、いつか必ず返しに行くから。
その日、俺は俺に誓った。
それなのに、どうやら今日も返せそうにない。
俺はしばらくの間所在なく立っていたが、やがて仕方なく、紅葉の翼を抱え直した。
渡し損ねた盆栽と和菓子を持って、裁判所に背中を向ける。
俺は一度だけ溜め息をついて、それから、気持ちを切り替えて顔を上げた。
今日も駄目だったが、俺は必ず、判事に紅葉を返す。そして、あの時の事をちゃんと謝るんだ。
その日まで、そして判事が許してくれる日まで、俺は何度でも判事に会いに来る。
今日は、ずっと気になっていた、紅葉と同じ名前の娘の姿を見られただけで、良しとしよう。
可愛かったし。
……あの子と話が出来たら、聞かせてやるのに。
判事がどれほど、君に愛情を持って育てたのかを。
俺がどれほど、君に逢いたいと思っていたのかを。
~END~