ポケット穂積
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穂積
「ワタシは誰ひとり傷を負わせるつもりは無いわ」
顔を上げた私を真っ直ぐに見つめて、室長は力強く言った。
穂積
「行ってくれるわね、櫻井」
その顔に、小さな泪さんの顔が被る。
来て欲しいと、あの時泪さんは言った。
そして今、行ってくれ、と室長が言う。
翼
「はい、行きます!」
室長がにこりと笑った。
穂積
「指示を出すわよ」
私は頷いた。
翼
「(小声)藤守さん」
おにぎりの詰まったコンビニの袋を両手に提げて階段を昇って行くと、藤守さんが静かに駆け寄って来てくれた。
藤守
「よお1人で来たな。偉いぞ」
私の頭を撫でた藤守さんが、交渉役の警察官に手を挙げて合図した。
交渉役は携帯電話で犯人と連絡を取る。
翼
「藤守さん、私なら犯人も警戒しないはずです。何とか、窓を開けさせてみます」
私の動きに合わせて、SITも突入準備を整えているはずだ。
受け渡しから10分後に設定された、突入までのタイムリミット。
すでに針は時を刻み始めた。
時間が無い。
中には泪さんがいる。
突入させるわけにはいかない。
私は大きく息を吸い込むと、窓の前に立って、声を掛けた。
翼
「おにぎりを持って来ました。櫻井と申します。開けて下さい」
おにぎり、という私の声を聞き付けた子供たちが、小さくざわめく。
その声を咎める様子もなく、カーテンが下からめくられ、窓が解錠されて10cmほど開き、男性の左手がぬっと差し出された。
すかさず交渉役が窓を全開にしようと動きかけたのを、藤守さんが力ずくで止めた。
翼
「大きい袋ですよ。2つあります」
私はわざと、袋の持ち手を差し出すのではなく、差し出された手の甲の上に乗せるようにした。
個包装のおにぎりの入っている袋は片手の上で崩れそうになり、相手は反射的に右手も出してそれを支えた。
その手は銃を持っていない。
袋を抱えた手が一旦カーテンの向こうに消え、空になって再び現れた。
今度は最初から、両手でしかも上に向けている。
翼
「乗せますよ」
左手薬指のプラチナの指輪を確かめながら、私はそこに袋を乗せた。
声
「これで終わりだな」
手が引っ込み、さらにもう一度、右手が現れた。
扉を閉め、施錠する為だ。
これを閉められたら終わる。
翼
「待って!」
閉まり始めた窓を私が押さえた、その時。
声
「ワタル?!」
背後からの声に、窓を掴む手がびくりと震えた。
私も窓を押さえている手をそのままに、暗がりを振り返った。
間に合った!
そこには、背の高いきれいな女の人と、背後に立つ如月さんとがいた。
女の人は、川原めぐちゃんのお母さん。
そして、もしかしたら、犯人の男性がこの事件を起こした、そのきっかけを作ったかもしれない人。
川原・妻
「ワタルなの?」
川原ワタル・声
「お前と話す事はもう無い」
窓を閉めようとしたのを、私は懸命に食い止めた。
川原・妻
「あなたは優しい人よ。こんな大それた事をする人じゃない。誰かにそそのかされたの?」
川原ワタル・声
「失礼な事を言うな。高木さんは俺に同情して協力してくれただけだ」
川原・妻
「だったら、もうやめて!今ならまだ」
川原ワタル・声
「うるさい!いいか、車を用意しろ。俺はめぐと遠くへ行く。お前とは二度と会わない!」
凄い力で窓が閉められ、私は尻餅をついた。
泣き崩れる川原さんの奥さんを連れて、如月さんが急ぎ足で階下に戻ってゆく。
力を封じられていた交渉役の警官は、怒ったように藤守さんを振り払うと、SITの待機している音楽室の方に走って行ってしまった。
おそらく、今の出来事を報告しに行ったんだろう。
でも、良かった。
めぐちゃんのお父さんの言葉を信じるなら、車を用意すれば、少なくとも他の人質は解放されるはずだ。
お父さんには気の毒だけど、車で逃げても、警察の包囲は抜けられない。
SITの出動は空振りに終わっても、それはむしろ歓迎すべき事で。
室長の言った通り、これで、誰も傷つかないで事件は終わるはずだ。
起き上がろうとして、私は、足元に、小さな紙が落ちている事に気付いた。
藤守
「櫻井、よおやったで」
翼
「藤守さん、これ」
私と同じように四つん這いになって、近付いて来た藤守さんは携帯のライトでその紙片を照らした。
レシートほどの小さな紙に、矢印と、棒のような線がいくつか描かれている。
私には意味が分からないけれど、藤守さんは顔色を変えた。
その目が不意に、さっき交渉役の人が消えた通路の奥に向けられた。
藤守さんが身体を起こす。
藤守
「あかん」
翼
「えっ?」
私が藤守さんの顔を見上げた時、突然、嵐のような靴音が沸き上がった。
同時に、黒い服を着て武装した数十人の集団が、四方から迫って来る。
どうして?
どうして、突入が止まらないの?!
藤守
「あかん!突入したらあかん!!」
立ち上がった藤守さんが、もみくちゃにされながら叫んだ声と、規律正しいSITの号令と、扉が破られる音と子供たちの悲鳴と。
全てが錯綜する中で、鈍い銃声が響いた。
私と藤守さんは園庭の隅にある花壇の縁に腰掛けて、膝を抱えていた。
突入の直後、SITの隊員によって、人質の子供たちとともに、園庭まで誘導されて脱出してきたのだ。
実際は、私も藤守さんも、ほとんど引き摺られるようにして2階から下ろされたのだけど。
園庭は、同じように解放された子供たちや保育士さんが、迎えに来た人たちと再会を喜びあう光景が広がっていた。
あちらこちらで、子供たちはお父さんやお母さんに抱き上げられたり抱き締めあったり、涙を流したりしている。
けれどその中に、川原さんたち親子の姿は無かった。
私たちの傍らでは、如月さんと小笠原さんも、その景色を無言で見つめていた。
私は自分の隣に視線を送る。
膝を抱えた自分の腕に爪が食い込むほど、藤守さんは震えていた。
恐怖ではなく、憤りで。
その手には、あの、小さな紙が握られている。
棒のような線は、暗号だった。
ボーイスカウトの経験がある藤守さんが見れば、一目で、犯人の数と子供たちとの位置関係、主犯の川原さんが銃とナイフを持っている事、そして、川原さんが人質に危害を加えるつもりの無いことが読み取れたという。
これを渡すために泪さんは単身で教室に潜入し、藤守さんを2階に待機させ、私に食事を運ばせたのだ。
それなのに、私たちには結局、突入を防げなかった。
SITの突入を知った時、川原さんは、銃で自殺を図った。
けれど、なぜか銃身の中にはみっちりと粘土が詰め込まれていて、弾丸は暴発どころか発射さえされなかったらしい。
私たちが聴いた鈍い銃声は、銃での自殺を諦めてナイフで自身を刺そうとしていた川原さんに対して、最初に飛び込んだSITの隊員が、威嚇発砲した音だったのだ。
足元の床を撃ち抜かれて、川原さんは抵抗を諦めたそうだ。
取り押さえられてぐったりする川原さんを助けようと、娘のめぐちゃんは泣きながらSIT隊員を殴り続けていたという。
重い沈黙の中、指揮官の中年男性が私たちを見つけて、近付いて来た。
指揮官
「穂積室長の部下の諸君だったな。人質は全員無事、犯人も無傷で確保出来た。ご苦労だった」
指揮官は上機嫌でそう言ったものの、座ったままだった私と藤守さん、それに如月さんと小笠原さんの責めるような視線に耐えかねたのか、そそくさと立ち去ろうとした。
突然、私の隣にいた藤守さんが、のっそりと立ち上がった。
目が据わっている。
私はぎょっとして、咄嗟に、藤守さんを止めようと脚にしがみついた。
藤守
「待てや」
指揮官も気付いて、表情を変えた。
いけない。
こんな場所で喧嘩したら。
翼
「やめて!」
穂積
「やめろ、藤守!」
次の瞬間、私を振り払って飛び出してしまった藤守さんを、横から体当たりするようにして止めたのは、室長だった。
そのまま後ろから羽交い締めにする。
藤守
「室長、離して下さい!」
室長
「黙れ!」
それでもまだ指揮官に掴みかかろうとしていた藤守さんを、室長が一喝した。
電流に打たれたように藤守さんの身体が跳ね、正気に戻ったのか、へなへなと力が抜けてゆく。
藤守
「そやかて……突入せんかて……」
藤守さんは両手で顔を覆って、しゃがみこんでしまった。
藤守
「……う……くっ……」
藤守さんの気持ちは分かる。
私だって、きっと、如月さんや小笠原さんだって同じ気持ちだ。
藤守さんを見下ろしてから、室長は指揮官に向き直って、頭を下げた。
穂積
「部下が失礼を致しました」
私たちの周りでは、警察官はもちろん、まだ、一般の人たちもちらほら残っている。
指揮官はその視線をちらりと気にしてから、大きな身体をひとつ揺すった。
指揮官
「……噂通りの辣腕だ、穂積室長。きみには感謝する」
指揮官は鷹揚な笑顔を浮かべて、右手を差し出した。
室長はその手をじっと見つめてから、おもむろに握手を交わした。
次の瞬間。
指揮官
「ぐわあぁあっ!」
指揮官が呻いた。
室長が握り締めた指揮官の手から、ミシミシと骨の鳴る音がここまで聞こえる。
穂積
「感謝のお言葉は無用です」
室長が、にっ、と笑うと、指揮官の額に、ぶわっと脂汗が浮いた。
穂積
「犯人を自殺寸前まで追い込み、川原めぐを泣かせ、私の部下を無駄に危険に晒した」
指揮官
「いっ、痛、いぎぎぃっ」
室長がさらに力を込めると、指揮官は身を捻り、悶絶した。
穂積
「SITの指揮官としてのあなたにお会いするのは、これが最後でしょうからね」
吐き捨てるように言って、室長は指揮官の手を離した。
指揮官
「……っ……!」
指揮官が転がるように立ち去ると、室長は、藤守さんの肩を叩いて立ち上がらせた。
藤守
「……室長」
藤守さんの目には、涙が浮かんでいる。
藤守
「……室長……」
室長
「安売りするな、藤守」
室長は、藤守さんの頭をガシガシと掻き回した。
室長
「あんな奴に、お前の拳は勿体ねえよ。涙もな」
ふん、と鼻を鳴らす室長に、藤守さんは、はい、と何度も頷いて、腕で涙を拭った。