pure pure love
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~小野瀬vision~
喫茶店での待ち合わせ。
俺は約束の時間より二十分も早く到着し、落ち着かない思いでブレンドコーヒーを啜っていた。
大きな窓の外を、スーツ姿の公務員たちが忙しく往来している。
……普段なら、俺もあの時間の流れの中にいる。
昼下がりの霞が関でお茶だなんて、たまの休みとはいえ、我ながら優雅なものだ。
せっかくだから楽しめればいいのだが、あいにく、今日の俺には、それだけの余裕もない。
溜め息をつきかけた時、不意に、街路に向けていた視線の先で、何かがきらりと輝いた。
冬の明るい陽射しを浴びて、透きとおるような光を放ちながら、金色の髪が小走りに近付いて来る。
急がなくていいのに。
微笑ましい気持ちになりながらも、俺は居住まいを正して、喫茶店の入り口を見つめた。
扉が開くと、ぱあっと辺りが明るくなるような、華やかな存在感。
誰もが振り向くその美貌。
店内に俺の姿を見つけて歩み寄ってくる笑顔の持ち主に、俺は左手を軽く挙げて応えた。
小野瀬
「忙しいのに、呼び出して悪かったね」
霜
「全然。あ、俺もブレンド」
霜がまだ席につかないうちから、頬を染めたウェイトレスが注文を取りに来た。
霜は紺色のジャケットを脱ぎながらそちらに向かって笑顔で注文し、椅子に腰を下ろす。
続いて待機していた別のウェイトレスが、霜の前のテーブルに水を入れたグラスを差し出した。
また別のウェイトレスが、今度はおしぼりとメニューを持ってくる。
霜はいちいち小さく礼を言っている。
……こいつ、俺の若い頃よりモテるんじゃないかな。
穂積も、……こいつの父親もモテる男だったが、こういう時には無愛想だった。
あいつが霜のようにニコニコしていれば、警視庁で10年連続抱かれたい男No.1に選ばれ、殿堂入りしたのは俺じゃなかっただろう。
コーヒーを届けに来たウェイトレスにもありがとう、と目礼してから、霜はその笑顔を俺に向けた。
霜
「おじさん、相談って何?」
小野瀬
「ああ、その……外は風が冷たかっただろ?とりあえずコーヒーを飲んでからでいいよ」
霜
「うん」
霜は添えられたミルクも砂糖も使わずに、カップを持ち上げた。
こいつも大人になってきたな、と、妙な所で俺はしみじみ思う。
霜
「そう言えば、母さんが気にしてたよ。結婚してそろそろ半年経つけど、秋はちゃんと出来ているのかって」
俺のカップがソーサーと触れ合って、かちゃりと微かな音を立てた。
霜の目が俺を見る。
父親譲りの碧色の目には内心の動揺まで見透かされそうで、ぞくりとした。
霜
「やっぱり、相談って秋の事?」
俺は溜め息をついて、頷いた。
小野瀬
「……翼さんとお前には、隠し事は出来ないな」
霜は静かにカップを置く。
霜
「秋と、うまくいってないの?」
霜に問われて、俺は首を横に振った。
小野瀬
「秋は良く頑張ってくれている。文句も愚痴も言わないし、いつも俺の事を優先してくれて、気を遣ってくれて……」
語尾は声が小さくなってしまった。
そう、秋は本当に、非の打ち所のない妻だ。
母子家庭とはいえ、母親の翼さんは、秋と霜を育てるために警視庁の刑事として忙しく働いていて、なかなか家に居られなかった。
穂積の実家は遠い為、子供たちは幼い頃、祖父母のいる翼さんの実家に預けられる事も多かったが、小学校に上がると徐々にそれも不便になった。
いつしか、二人は穂積の家で留守番しながら家事をするようになり、だから秋も霜も、掃除や洗濯は難なくこなすし、料理も上手だ(霜は散らかすのも得意だが)。
結婚後も、生来の真面目さと頑張り屋の性格で、秋は仕事の疲れも見せず、いつも穏やかに微笑んで、俺に快適な居場所を与えてくれている。
霜が首を傾げた。
霜
「それなら、秋に対して不満は無い、って事だよね」
小野瀬
「もちろん、無いよ。……でも」
霜
「でも?」
小野瀬
「最近……別れる方がいいのかもしれない、と思う」
霜
「は?」
一瞬、きょとんとした霜は、次の瞬間、俺の襟首を掴んで立ち上がっていた。
霜
「ふざけんな!」
空手で鍛えた腕力にぎりぎりと絞め上げられて、息が止まりそうになる。
霜
「どういうつもりだ?俺の妹を弄んだのかよ!ガキの頃からあんたに惚れてた、三十以上も年下の女を騙して嫁にして、ヤって飽きたらもう離婚かよ!」
小野瀬
「違う……!」
霜
「じゃあ何だ!もし、退屈だの浮気だの言ってみろ。このまま絞めてオトすぞ!」
霜は俺より背が高い。力をこめられると、爪先が浮きかけた。
小野瀬
「俺は……秋を……愛してる……」
霜
「はあ?意味が分かんねえ。だったら、何で別れるんだよ?!」
小野瀬
「愛してる、から……秋の、幸せを考えたら……俺とじゃない方が……」
霜
「……」
霜の力が緩んで、足が地に着いた。肺に、空気が戻って来る。
呼吸が追い付かなくて、俺は激しく咳き込んだ。
俺から手を離しながら、はーっ、と声に出して、霜が溜め息をつく。
霜
「……俺に分かるように説明してくれないかな、おじさん?」
小野瀬
「……」
なおも噎せていると、霜が、背中を擦ってくれた。
俺はようやく息を継ぐ。
小野瀬
「……翼さんの言葉の意味は分かってる。……子供はまだ出来ないのか、って言いたいんだろう?」
俺の言葉から一拍おいて、霜が、ああ、と、合点のいった顔をする。
霜
「それを気にしてるわけ?でも、なかなか子供が出来ないから別れるなんて、本末転倒だろ」
俺が腰を下ろすのを待って、霜も向かいの席に戻った。
霜
「それに、秋は就職したばかりだし、おじさんも相変わらず忙しいし、だからまだ作らないんだろうと俺は思ってたんだけど」
小野瀬
「……」
霜
「……違うの?」
俺の表情を見ていた霜が、突然、ハッとした顔をした。
霜
「もしかして、おじさん、もう『赤い玉』が出ちゃったの?」
声を潜める霜に、俺はコーヒーを噴きそうになった。
小野瀬
「出てないよ!」
霜
「どうかなー。俺、警察に入るまで知らなかったけど、おじさん、『桜田門の光源氏』とか呼ばれてたらしいじゃん。千人斬りだか二千人斬りだか知らないけど、やり過ぎて種が尽きちゃったんじゃね?」
ああ、身から出た錆とは言え、耳が痛い。そして霜は容赦が無い。
霜
「あ、そのせいで秋に嫌われたの?」
警視庁とは目と鼻の先にある検察に、長年に渡る俺の女性遍歴の噂が届いていないはずはない。
そこに勤める秋の耳にも、もちろんすでに伝わっているだろう。
けれど、秋は一度も、その件で俺を責めた事は無い。
小野瀬
「嫌われては、いない……と思う」
霜
「あーっ、焦れったい!」
霜が苛々と言った。
霜
「いったい、秋の何が悪いんだよ!」
霜に睨まれて、俺はついに全てを打ち明ける覚悟を決めた。
小野瀬
「秋は、何も悪くない」
霜
「……?」
小野瀬
「子供が出来るはずがない」
俺は、顔に熱が集まるのを感じた。
小野瀬
「俺たち……まだ、……してないんだ」
俺の言葉を霜が理解するまでの、短い沈黙があって。
霜
「……はあ?!」
霜が、素っ頓狂な大声を出した。
周囲の視線が集まる。
俺は両手で顔を覆う。
霜
「嘘だろ?何で?」
小野瀬
「本当だ……。何度も、挑戦しようとして……でも、どうしても、出来なくて」
霜
「勃たねえの?」
すでに赤面している俺に、霜の言葉はストレートだ。
霜
「やっぱり、もう、種が……」
小野瀬
「違うから!」
俺は顔を上げて、怒鳴った。
確かに衰えは感じる。でも、身体が動かないわけじゃない。
小野瀬
「俺は、秋と、したい!」
霜
「……分かったから、喫茶店の中で、でかい声で言うなよ」
周りの席から、堪えきれない忍び笑いが聴こえた気もする。
けれどもう、俺は気にしなかった。
小野瀬
「さっき、お前、『ガキの頃からあんたに惚れてた』って言ってくれただろう?」
霜
「うん」
小野瀬
「でも、その大部分は、『父親代わりとして』の俺を好きだったんだ。秋がいつから『男として』俺を意識したのか、俺には分からない」
霜
「なるほど。……確かに。……あれ?……もしかして、未だに『父親代わりとして』かも?」
小野瀬
「言うなー!」
言えない。
未だに、『おじ様』と呼ばれてるだなんて、こいつには言えない。
知ってか知らずか、霜は苦笑いした。
霜
「でも、いくら奥手でもそれなりの知識はあるだろうし、結婚してもう半年だぜ。おじさんの妻だって自覚もあるだろ」
小野瀬
「お前はいつだ?」
霜
「は?」
小野瀬
「いつ、大人になった?」
霜
「ここで俺かよ!どうでもいいだろ?!」
霜は真っ赤になった。
小野瀬
「相手はあの子だろ。中学生の時から付き合ってる、」
霜
「わあ!名前を出すな!」
小野瀬
「じゃあ、教えろ」
霜
「…………ハタチ」
小野瀬
「遅っ」
霜
「殴るぞ!」
小野瀬
「お前でそれなら、秋は絶対、まだ、だよな」
霜
「…俺と比べなくても、間違いなくまだだろ」
霜はまだむくれている。
小野瀬
「秋は、本当に清らかなんだよ。無垢で、可憐で、美しい。まさに聖女だ」
霜
「のろけるなら帰る」
小野瀬
「待てって。……あまりにも純真で、健気で、可愛らしくて……俺なんかが触れてはいけないような気持ちになるんだ」
霜
「おじさん、どんだけ汚れてるんだよ……」
小野瀬
「キスしようと思うだけで、手が震えちゃうぐらい」
霜
「初恋かよ!」
小野瀬
「……」
霜
「あれ?」
霜と目が合って、俺は、つい、目を逸らしてしまった。
霜
「マジで?」
もちろん、いい年をして、これが初恋のはずがない。
初めての女性を相手にした事が無いわけでもない(極力避けてきたけど)。
けれど、秋に触れようとすると、気が引けてしまうのは本当だ。
今までの女性には悪いけど、どうでもいい相手には何でも出来て、最愛の妻には手も出せないなんて、男としてどういう事だ。
小野瀬
「……このままじゃ、秋を不幸にしてしまう……」
秋の姿を、笑顔を思い浮かべるだけで、胸が温かくなる。
本当に、初恋のように、俺は純粋に秋に恋い焦がれている。
でも、それだけじゃ駄目だろう。
霜
「だから、別れるってか。あーもう、何が光源氏だよ」
霜が、派手な溜め息をついた。
霜
「でも、まあ、俺に相談するぐらいだから、本当に悩んでるんだろ。……分かった。俺も、秋と話してみる」
小野瀬
「先に言っておくけど、今の話をそのまま伝えるなよ!」
霜
「分かってるよう」
しょうがないなあ、という顔で、霜が笑う。
穂積がよく俺に見せた表情だ。
少しだけからかわれているようでいて、同時に、こいつに任せてみようという気にさせる微笑み。
実際、この表情の後の穂積は、いつでも何とかしてみせてくれたものだ。
霜
「俺の可愛い妹と、可愛い義弟の為だからな」
『義弟』というのは俺の事。
秋は霜の妹だから、その夫の俺は霜の義弟になるというわけ。
遥かに年下の霜にそう言われても全く不快感が無いのは、きっと、俺がこいつを信頼しているからだろう。
小野瀬
「頼む」
霜
「うん。でも、先に言っておくけどさ。俺たち、おじさんが好きなんだぜ。……だからさ、別れるとか、簡単に言うなよ」
霜はそれだけ言うと、レシートを持って席を立った。
俺は霜の長身が店を出て行くまで呆然として、それから、窓の外、霞が関の雑踏に紛れてゆく年下の義兄の背中を、見えなくなるまで見送った。