瀕死の白鳥
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マンションの外は、さっきとはすっかり様変わりしていた。
まだ規制線は張られたままだが、神奈川県警からの人員のほとんどが姿を消している。
諏訪野龍一と、愛人の女の逮捕に伴って撤収して行ったんだろう。
明智くんと如月くんの姿も見えない。
穂積
「諏訪野さん」
現場保全に残っている僅かな人員の中から、濃紺のスーツ姿の穂積が、こちらに抜け出して来るのが見えた。
穂積は、軽く手を挙げた俺に目で頷いただけで、諏訪野の前に駆け寄ると、きちんと踵を揃えた後、深々と頭を下げた。
穂積
「申し訳ありません。……あなたを、傷付けてしまいました。お詫びします」
顔を上げた穂積は、諏訪野をじっと見つめる。
諏訪野もまた穂積を見つめ返していたが、やがて、両手を揃えると、穂積に向けて差し出した。
穂積が自分の手錠を取り出す。
翼が顔色を変えたけれど、俺が肩を抱くと、開きかけた口を噤んだ。
ガチャリ、と音がする。
諏訪野は、自分にかけられた手錠を見て、大きく、ひとつ、息を吐いた。
それは、事ここに至った、諦めの嘆息ではなかった。
むしろ、それは安堵の溜め息であったように、俺には思えた。
俺の感覚を裏付けるように、諏訪野は、ゆっくりと穂積に一礼を返す。
そこへ。
見覚えのある車が近付いてきた。
藤守くんが運転席にいる。
停車を待って、穂積が、後部座席のドアを開けた。
穂積
「櫻井、アンタは助手席に乗りなさい。小野瀬は後部座席の道路側、運転席の後ろへ。諏訪野さ…諏訪野、は、その隣へ」
俺たちが指示通りに乗り込むと、最後に穂積が、諏訪野の隣、つまり、後部座席の歩道側、助手席の後ろに乗り込んだ。
後部座席に俺、諏訪野、穂積が並ぶ。
穂積
「出して」
穂積の声に、藤守くんは「はい」と言って、車を発進させた。
穂積は、さっき来た道を戻って、海岸線に向かうよう、藤守くんに指示を出した。
それでは神奈川県警と逆方向だし、警視庁を目指すにも遠回りだが、俺には、穂積の心遣いが分かった。
諏訪野に海を見せてくれるつもりなのだろう。
そう思いながら隣を窺うと、諏訪野は目を閉じ、座席にもたれていた。
さすがに疲れたのか。
それとも、さっきまでの事を思い出しているのか……。
そこまで考えて、胸が疼いた。
さっき、明智くんと共に、部屋の前に立った時。
あの時、諏訪野は扉越しに、「何も持たなくていい、そのまま一人で出て来てください」と言った。
銃を持つなと。
彼女を巻き込むなと。
言外に匂わせる事で、父親に、もうそれ以上の罪を重ねるな、と訴えた。
諏訪野は、賭けた。
そして、裏切られた。
……最悪の形で。
今の諏訪野の心情は、察するに余りある。
海が見えたら教えてやろう。
そう考えて視線を前方に戻した時、俺は、異変に気付いた。
小野瀬
「諏訪野……!」
諏訪野が目を開いた。
沿道の両側を埋め尽くすように、遥か彼方まで、車やバイクが停まっていた。
同時に、居並ぶ数えきれないほどの人々が、皆、俺たちの車に向かって、手を振ったり、叫んだりしている。
諏訪野
「……!……」
弾かれたように、諏訪野が身を乗り出す。
鵠沼に入るな、と、諏訪野が舎弟たちに告げていた事を、俺は今頃思い出していた。
だから、彼らは待っていた。
諏訪野が鵠沼を出てくるのを。
諏訪野
「……あ……」
唖然とする諏訪野の横で、穂積が口を開いた。
穂積
「藤守、窓を開けてやりなさい」
窓が開き、まだ冷たい風が、勢いよく車内に吹き込んで来た。
同時に、聞き覚えのある、あの音も。
耳を聾するようなバイクや車の排気音、嵐のようなクラクション。
そして、諏訪野を呼ぶ声。
兄さん!
兄さん!
車は鵠沼を出て、さらに、湘南の海岸線へ。
そこでも待ち構えていた無数のバイクや車が、次々と、俺たちの車を追うように走り出す。
兄さん!
兄さん!
まるで、仲間同士、羽ばたきを揃えて飛ぼうとする鳥たちの群れのように。
俺たちの前後左右を、すっぽりと諏訪野の仲間たちが取り囲み、さらにその数を増やしてゆく。
中には車のすぐ脇を走りながら、車内を覗き込んでいく二人乗りのバイクまでいる。
諏訪野
「馬鹿野郎っ……」
四方に目を遣りながら、諏訪野がうめいた。
諏訪野
「お前らまで捕まる気か!散れ!離れろ!」
諏訪野が言っても、窓の横を走るバイクの運転者は返事の代わりにアクセルを吹かし、笑いながら別のバイクと場所を替わるだけだ。
諏訪野
「……」
代わる代わる諏訪野を呼ぶ、甲高い排気音。
そして、次々に大音量で鳴らされるクラクション。
途切れる事なく湘南の海岸に響き渡る、自分を取り巻くけたたましい音を聞きながら、諏訪野の目には涙が浮かんでいた。
翼
「……白鳥の声」
ぽつり、と翼が呟いた。
翼
「ねえ、諏訪野さん。この音を、白鳥の声だって言った人がいるんですよ」
諏訪野
「……」
助手席から振り返った翼の笑顔を、諏訪野は少し戸惑うように見つめた。
翼
「群れを成して走る車やバイクが出すこの音は、彼らの悲鳴だって。そして、白鳥の声にそっくりだって」
穂積が僅かに身動ぎする。
藤守
「その言葉の意味……箱根の山で暴走族の音を聞いたあん時は分からなくて、ただの騒音にしか聞こえへんかったけど。今なら、俺も分かります」
すん、と鼻を鳴らしたのは、運転席の藤守くんだった。
藤守
「これは、白鳥が、仲間を呼ぶ声や」
諏訪野の目から、涙が零れた。
声も出さずに、ただ涙だけが零れる。
俺が肩を抱くと、ようやく自分が泣いている事に気付いたのか、諏訪野は、照れたように、手のひらで涙を拭った。
諏訪野
「……それを言った人に、会ってみたいな」
翼が、貰い泣きの涙を堪えながら、微笑んだ。
翼
「きっと、仲良くなれると思いますよ」
藤守
「せやな。二人で小野瀬さんをからかうところとか、見てみたいわ」
小野瀬
「やーめーてー」
俺たちが笑うと、諏訪野も、それから、穂積も笑った。
俺は昔、諏訪野と、穂積に、同じ質問をした事がある。
それは、「みにくいあひるの子」の話。
親と違う姿で生まれたあひるの子は、実は美しい白鳥だったという話。
どう感じる?と尋ねた俺に、二人は、奇しくも同じ答えを返した。
「あひるの子は、あひるに生まれたかったに決まってる」
それでも、穂積は一人で飛び立った。
諏訪野は、白鳥の群れを手に入れた。
二人の選んだ生き方は違ったけれど、そのどちらもが、俺の進むべき道を力強い光で照らしてくれる。
俺は白鳥じゃない。
一人で飛び続ける力強さも、群れを率いて飛ぶ柔軟さも持ち合わせていない。
でも、一緒に生きていきたい相手がいる。
彼女と二人、比翼の鳥のように、互いに与え合い、求め合い、支え合って羽ばたいていきたい。
二人でなら、きっと、どこまでも飛べる。
俺が見つめている事に気付いたのか、翼が微笑んだ。
きっと、同じ事を考えてくれていると信じて。
溢れそうな思いを込めて。
俺は唇を動かした。
愛してる、と。