瀕死の白鳥
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諏訪野
「お父さん、翔です」
諏訪野がインターフォンを押すと、中から、まだ若いと言っていい声が応えた。
龍一
『……翔、一緒にいるのは……警察だな?外に集まってるのも……』
俺は諏訪野の父親と面識が無い。
だが諏訪野も、いつかあんな声になるのだろうか。
……いや、諏訪野なら、きっともっと落ち着いた声を出すだろう。
俺がぼんやりとそんな事を思ったほど、龍一の声は諏訪野の声に似て、異なっていた。
諏訪野
「そうです、警察が来ています」
諏訪野が、いつもと変わらないやはり穏やかな声で、龍一に語りかけた。
諏訪野
「……ここを、出ましょう。俺も、一緒に行きます」
龍一
『俺は、捕まるのか?』
諏訪野が、明智くんを見た。
明智くんが頷く。
明智
「諏訪野龍一さん。自分は、警視庁緊急特命捜査室に所属する、明智といいます」
明智くんの声もまた、落ち着いた静かな声だった。
明智
「あなたにかかっている容疑は、営利目的での大麻の所持及び譲渡です。刑法では、7年以下の懲役、または懲役と200万以下の罰金の併科です」
明智くんは、穂積から伝え聞いているはずの龍一の過去の殺人未遂、そして、さっき諏訪野から聞いたばかりの拳銃の所持については、言及しなかった。
現時点で龍一の逮捕容疑は大麻取締法違反だけなのだから、賢明な判断だろう。
龍一
『……懲役……』
今度は明智くんが諏訪野を見た。
諏訪野は明智くんに目礼し、口を開く。
諏訪野
「……お父さん、お願いします。何も持たなくていい、そのまま一人で出て来てください」
龍一
『翔……』
インターフォン越しに聞こえてくる龍一の声は、聞いているこちらが不安になるほど、上擦って硬くなっていた。
危険な声だ。
もちろん、扉の前にいる二人もそう感じただろう。
諏訪野も、明智くんも、武道の達人だ。
しかも明智くんは警察官。
扉に向かうまでは軽口を叩いていた彼らだったが、決して、油断してはいなかった。
中から思い切り扉が開けられたとしても、外にいる自分に扉が当たらないだけの距離を取っていた。
そして、中から誰かが体当たりを仕掛けてきたとしても、いきなり銃を撃ってきたとしても、最初の攻撃をかわせる位置に身を置いていた。
だから。
扉が半ば開いた瞬間に、愛人の女性が諏訪野に向かって飛び出して来た時も。
そのすぐ背後から、龍一が銃を構えていた時も。
避けられたはずだった。
龍一が、悲鳴のような声で諏訪野の名を叫ばなかったら。
龍一の銃弾から、諏訪野が愛人の女性を庇わなかったら。
諏訪野が撃たれる事も、
刺される事も。
起きなかったはずだった。
全ては一瞬の出来事だった。
諏訪野が合鍵で扉を開けた次の瞬間、中から、龍一に突き飛ばされるようにして、愛人の女性が飛び出して来た。
諏訪野は咄嗟に身体をかわすと、同時に彼女の手を掴み、目にも止まらぬ速さで小手返しをかけた。
相手の力を使って投げる。
合気道の技だ。
そこからの全ての出来事を、俺の目は、スローモーションを見るように見ていた。
襲い掛かった愛人を投げた後、抱き締めるように引き寄せて反転し、龍一の銃口から彼女を庇った諏訪野を。
彼女に当たると知っていながら、躊躇いなく銃の引き金を引いた龍一の、醜く歪んだ秀麗な美貌を。
龍一
「俺を見捨てるのか、翔!」
背中から父親に撃たれた瞬間の、諏訪野の表情を。
小野瀬
「諏訪野っ!」
俺が飛び出すよりも速く、明智くんが龍一に飛びかかり、押さえ込んでいた。
明智
「諏訪野龍一!逮捕する!」
愛人の女は、撃たれて崩れ落ちる諏訪野の身体に覆い被さられ、動けずにいた。
だが、その顔からは、諏訪野に飛び掛かってきた時の鬼気迫る形相はもう消えている。
たった今何が起きたのか、彼女にも、すぐに分かったはずだった。
女
「翔くんっ……!」
事態を把握した女が、悲鳴を上げる。
女
「ごめん、ごめんね!あの人、翔くんに殺されるかもしれない、って、それで、私……!」
諏訪野は無言で首を横に振った。
白いスーツが、脇腹から紅く染まってゆく。
小野瀬
「諏訪野?!」
血の色を見た俺の身体に、戦慄が走った。
俺の傍らで、駆け寄った翼も息を飲む。
女の手からナイフが落ちて、音を立てた。
翼
「諏訪野さん!」
諏訪野は、明智くんに勧められて、防弾ベストを着ていた。
だが、愛人の女が隠し持っていたナイフは、諏訪野に抱きかかえられたその時に、ベストの隙間から脇腹に突き立てられていたのだ。
翼
「諏訪野さんっ!」
小野瀬
「諏訪野は俺が診る!翼は、女を!」
大声で言ってから急いで諏訪野の服を捲り、傷口を押さえて止血する。
その間に、俺の声で我にかえった翼が、愛人の女に手錠をかけた。
翼
「傷害の現行犯で逮捕します!」
翼の声に続いて、階下から、たくさんの足音が響いて来る。
銃声を聞きつけて、捜査員たちが駆け昇って来たのだろう。
龍一
「翔!」
十人近い増員によって、あっという間に、諏訪野龍一と愛人の身柄が拘束された。
龍一は抵抗し、喚き散らしている。
龍一
「翔!助けてくれ!何故、最後に俺を裏切った?何故、警察なんかに!」
諏訪野は応えなかった。
龍一
「翔、いつも助けてくれたじゃないか!何とか言ってくれ、翔!」
諏訪野
「……お父、さん……」
漸く掠れた声を出した諏訪野に、龍一はさらに喚いた。
龍一
「肝心な時に、この…っ、役立たず!!やっぱり響子なんかの、うッ!」
明智
「黙れ!」
幸いな事に、聞き取れた龍一の言葉はそこまでで途切れた。
龍一の口を、明智くんが手で塞いだのだ。
明智
「連行しろ、早く!医者はまだか!」
龍一
「翔、翔ーっ!!」
口を押さえられてくぐもった声で、なおも諏訪野の名を叫びながら、龍一は、引きずられるようにして連行されて行った。
そんな父親を、諏訪野は、虚ろな目で見送る。
龍一の姿が消えた後も、諏訪野は床に横たわったまま、放心したように動かなかった。
傍らに、割れた眼鏡が落ちている。
翼
「諏訪野さん……」
階下が騒然となるのに反して静かになった201号室の前で、翼が、それを拾って、諏訪野の傍らに膝をついた。
翼
「……大丈夫、ですか?すぐに、救急隊員が来ますからね」
諏訪野を慮って、おずおずと声を掛ける翼。
止血を終えた俺が諏訪野の上半身だけを支え起こすと、諏訪野は、翼に顔を向けた。
ただでさえ白い諏訪野の顔は、血の気を失って蒼白に見える。
諏訪野
「……大丈夫。……きみたちがいてくれて、良かった」
きみたち、というのには、龍一を押さえて階下へ連行していった、明智くんも含まれているだろう。
何故「良かった」のか、諏訪野は言わなかった。
俺たちも、聞かなかった。
諏訪野が閉じ込めた言葉は、思いは、行動は、決して、明らかにしてはいけないものだ。
諏訪野には分かっている。
だから爪が食い込むほどに拳を握り、唇をきつく結んで、固く瞼を閉じた。
小野瀬
「諏訪野……」
言葉が見つからないまま声を掛けると、不意に、諏訪野が俺の腕を掴んだ。
諏訪野
「……ありがとう、小野瀬」
聞き取れないほどのかすかな声と、震えが、諏訪野から伝わって来た瞬間、俺は、突然、全てを悟った。
最初からの諏訪野の行動、翼を通して伝えられた数々の言葉と真実、そして、今、目の前で起きた出来事。
それらがいちどきに蘇り、思っていたよりも深いところに込められていた諏訪野の想いが、俺の中で意味を持って繋がる。
俺は、叫び声を上げそうになった。
諏訪野は、本当に、俺を待っていたんだ。
親友であり、警察官になった俺が、自分を迎えに来るのを……ずっと前から。
すまなかった、と呟けば、諏訪野が、俺の胸に顔を埋める。
それきり黙り込んだ諏訪野の身体を、救急隊員が駆け付けて来るまで、俺は、ただ、抱き締めていた。
幸い、父親の愛人に刺された諏訪野の怪我は、命に関わるようなものではなかった。
父親の私物らしいナイフの刃渡りは15cm近くあったものの、どさくさ紛れの女性の力では、諏訪野の身体を貫く事までは出来なかったのだ。
手当てをした救急隊員によれば、左の脇腹に、浅い刺し傷と数cmの切り傷を負っただけで済んだ。
その場で5針ほど縫ったが、いずれ綺麗に治るという。
銃弾の方は、完全に防弾ベストが防いでいた。
もちろん衝撃は免れないが、こちらも後遺症は残らないだろう。
……少なくとも、身体には。
諏訪野
「ありがとうございました」
俺がそんな事を考えていると、処置が済んだ諏訪野が立ち上がって、隊員たちに礼を言った。
これなら緊急搬送の必要も無いと判断して、救急隊員たちも先に引き上げてゆく。
翼
「諏訪野さん、痛みませんか?眼鏡が無くて大丈夫ですか?手を貸しましょうか?」
心配そうにまとわりつく翼が見上げると、諏訪野にようやく少し、表情が戻った。
諏訪野
「ありがとう。視力はそこまで悪くないんだよ。ただ、眩しいのが苦手でね。だから、色のついた眼鏡をかけてるんだ」
割れた眼鏡はポケットに入れたままで、諏訪野が涼しい目元を和らげる。
諏訪野
「でも、せっかくだから手を繋いでもらおうかな」
翼
「えっ」
小野瀬
「おい……!」
諏訪野の、色素の薄い目に見つめられて、頬を染める翼。面白くない俺。
けれど、諏訪野は静かに両腕を差し出すと、雰囲気とは裏腹な言葉を口にした。
諏訪野
「手錠だろう?」
その手を見つめて、翼は一瞬、真顔になった。
それから、助言を求めるように俺を見る。
俺は翼に頷いてから、諏訪野に顔を向けた。
小野瀬
「手錠は、かけない」
諏訪野
「?」
翼
「その……」
怪訝な顔をする諏訪野に、翼が、階下を指差した。
翼
「私の手錠、さっき使ってしまいましたし」
……ああ、と、納得したように声を出した後で、諏訪野は苦笑した。
諏訪野
「それなら、仕方ない」
そう言って腕を下ろし、翼と俺に軽く頭を下げる。
俺は、諏訪野と並ぶと、少し高いその肩に手を置いた。
小野瀬
「行こうか」
諏訪野
「そうだな」
俺が促すと、諏訪野は歩き出した。
およそこれから連行される男とは思えないほど、諏訪野は、真っ直ぐに前を向いていた。