瀕死の白鳥
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
しまった、と室長を窺えば、室長もまた、驚きを隠せない顔をして諏訪野を見つめていた。
小野瀬
「生きてる?どういう事だ?!」
諏訪野
「彼は、東北の、とあるホスピスに、全く別人として入院している」
衝撃の事実を、諏訪野は淡々と明かした。
小野瀬
「……入院……?」
諏訪野
「母が、自殺未遂を起こした後の事だ。俺の父は、母の愛人を殺そうとして失敗した」
小野瀬
「……!……」
諏訪野
「憎い男を崖から落としたはいいが、相手は頭と腰の骨を折っただけだったのさ」
淀みなく語る諏訪野の声は、あの、氷のような声になっていた。
諏訪野
「父は愛人に顔を見られた。後始末をしてくれと泣きつかれて、俺は知人に、怪我人をどこか遠くに移してくれるよう頼んだ。二度と湘南には来るな、と、因果を含めてもらってね」
小野瀬
「……」
知人、とはどんな人か、小野瀬さんは諏訪野に尋ねなかった。
その事が、私に、冷静な現実を教えてくる。
おそらく諏訪野は、響子さんの愛人に直接会ってはいない。
もちろん脅してもいない。
けれど、諏訪野の「知人」は、響子さんの愛人に、諏訪野が言葉の外に含ませた意図までを、忠実に伝えただろう。
二度と湘南には来るな。
それはおそらく、湘南に戻れば今度こそ命は無い、と言われたのと同じ事。
……そして、愛人は命を惜しんだ。
たぶん、今は諏訪野の経済的な庇護の元、動かない身体と、別人としての身の上で、余生を長らえているのだろう。
彼は、結果として、響子さんを捨てたのだ……。
小野瀬
「……諏訪野、力を貸してくれ」
話し終えた諏訪野に、今度は小野瀬さんが再び、語りかけた。
小野瀬
「今の話をもう一度、警察で話せば、お前の罪はさらに増えてしまう。だが、諏訪野龍一の罪を、そのままにはしておけない」
諏訪野
「分かってる」
諏訪野が頷く。
諏訪野
「……俺が鵠沼へ行こうとしたのは、あの人が、足元を警官に包囲されるなんて状況に耐えられるはずがないと思ったからだ」
小野瀬
「諏訪野……」
諏訪野
「せめて、一緒にいるはずの女性だけでも助けたい」
諏訪野は僅かに感情を取り戻した声で言うと、長い睫毛を伏せた。
諏訪野
「……俺の父親が愛した女だ」
私はその言葉で、諏訪野が、響子さんの愛人の命を長らえさせた、本当の理由を知った。
母親を壊した、許せない相手。
でも、響子さんが愛した相手。
だから、諏訪野は、その相手でさえ憎みきれない。
……この人はいったい、何人の人生を抱えて生きて来たんだろう。
父親、母親、それぞれの愛人……
……その中の誰ひとりとして、諏訪野を愛してくれはしないというのに。
小野瀬
「俺も行く」
小野瀬さんの声に、私はハッとした。
小野瀬
「お前を一人では行かせない」
小野瀬さんは、諏訪野を真っ直ぐに見つめている。
物思いに沈んでいた諏訪野の表情が、小野瀬さんに解されて、わずかに軽くなったように思えた。
顔を上げた諏訪野が、不意に大きな声を出した。
諏訪野
「小野瀬にヘルメットを貸してやってくれるか?」
その声に応えて、どこからかさらに大きな声が、はい!と返事をしたので、私はびっくりしてしまう。
ところが、声のした方を振り返って、私はさらに驚いた。
私たちの車の前方に、数えきれないほどのバイクや車が、ハザードを点けてずらりと停車していたのだ。
車の後方で話していた諏訪野と小野瀬さんにすっかり気を取られていたから、全く気付かなかった……。
藤守
「凄え。よう見たら、対向車線にもぎょうさんおるやん」
……藤守さんも気付いてなかったみたい。
小走りで駆け寄ってきた人の差し出してくれたヘルメットを、諏訪野が、お礼を言って受け取る。
小野瀬さんからもお礼を言われて、その人は嬉しそうに、何度も何度も頭を下げた。
貸したのは自分の方なのに。
小野瀬
「久し振りだな」
ヘルメットのベルトを留めながら、小野瀬さんが言った。
諏訪野
「コート着て来い」
諏訪野もヘルメットを被り、長い脚でバイクに跨がる。
小野瀬さんが戻って来て、ヘルメットの風防を開けて助手席の室長に声を掛けた。
小野瀬
「後から来てくれ」
穂積
「お前の尻を追い掛けるのは癪だがな」
小野瀬
「藤守くん、諏訪野は速いよ。俺の尻を見失わないようにね」
私は後部座席から、小野瀬さんのコートを差し出した。
小野瀬
「ありがとう。……ねえ、櫻井さん、きみって凄いな」
コートの袖に腕を通しながら、小野瀬さんが私に言った。
小野瀬
「諏訪野に全てを話させるなんて……よっぽど、あいつに気に入られたんだね」
その声から嫌味な響きが消えている事にほっとしながら、私は、首を横に振った。
翼
「違います。……だって、諏訪野は、私に言いました。『きみは、小野瀬の大事な人だから』って」
小野瀬さんが、きょとんとした顔で私を見つめた。
翼
「諏訪野は、小野瀬さんに伝えたい事を全部、私を通して伝えてるだけです。……小野瀬さんが、真っ直ぐに自分に会いに来てくれなかったから、拗ねてるんですよ」
私は、くすりと笑った。
翼
「諏訪野も素直じゃないですね」
小野瀬
「ぷっ」
小野瀬さんが噴き出すと、離れた場所で諏訪野が咳払いをした。
諏訪野
「聞こえてるよ」
照れ隠しのようにバイクのエンジンをかけ、アクセルを空吹かしする。
口を押さえた私の頭をぽんぽんと撫でてから、小野瀬さんは、笑顔で諏訪野のバイクのタンデムシートに乗った。
小野瀬さんが諏訪野の腰に掴まり、諏訪野がウィンカーを点滅させて車道を窺うと、集まっていたバイクや車の持ち主たちもまた、一斉に自分たちの愛車に乗り込んだ。
小野瀬
「おい、諏訪野」
諏訪野
「勝手に集まって来たんだが、こいつらなら心配ない」
小野瀬
「しかし……」
諏訪野
「舌噛むぞ」
小野瀬
「うわ!」
車道に出ると同時に、諏訪野のバイクの前輪が跳ね上がった。
大きなバイクが、諏訪野と小野瀬さんを乗せたまま棹立ちになる。
私は悲鳴を上げそうになったけど、諏訪野は、まるで荒馬を乗りこなすみたいに軽々とバイクを押さえ込むと、両輪が地に着いた瞬間、一気に加速した。
諏訪野のバイクが唸りを上げて、物凄い速度で飛び出してゆく。
周りのバイクや車から喝采が起きたけど、当の諏訪野と小野瀬さんを乗せたバイクは、すでに遥か彼方だ。
藤守
「……かっこええ……」
穂積
「馬鹿!見とれてないで、さっさと追いなさい!」
室長が、運転席の藤守さんの頭をはたいた。