瀕死の白鳥
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~翼vision~
藤守さんがアクセルを踏み、車が静かに走り出す。
私は唇を噛み締めたまま、小野瀬さんに背を向けていた。
窓の外は、夜明け前の深い闇。
車内を写すガラス窓には、泣きそうな顔の私と、その肩越しに、途方に暮れたような表情で私を見つめる小野瀬さんとが映っている。
……小野瀬さんは悪くない。
私が諏訪野と過ごした数時間の事を、彼は知らない。
だから、彼は昨夜の小野瀬さんのまま。
きっと私だけが、少し先に進んだ。
その分だけ、心が離れた。
……私が振り返って、歩み寄らなきゃ。
そう、思った時。
小野瀬
「……本当、なの?」
聞き取るのがやっとな程の、それは、小さな声だった。
翼
「えっ?」
思わず振り向いてしまう。
小野瀬
「諏訪野が、きみに……」
穂積
「藤守!海岸線に出てちょうだい」
キスをした事。
そう訊いた小野瀬さんの声は、室長が不意に出した大きな声と被って、聞き取り辛かった。
藤守
「了解です」
応える藤守さんの声も、殊更に大きい。
穂積
「主要道路で待機している県警の交通課から、諏訪野が由比ヶ浜を出たという連絡は無いわ。まだ、近くにいるはずよ。一旦海岸線に出て、そこで待機しましょう」
藤守
「分かりました」
私はそれで、前の座席の二人が、後部座席の私たちの会話を、極力、盗み聞きしないように気を遣ってくれているのだと気が付いた。
さらに会話を続けている室長と藤守さんの心遣いに感謝しながら、私は、小野瀬さんに向かって頷いた。
翼
「……本当です。……諏訪野さんが、響子さんの家から出ていく間際です」
小野瀬
「どうして……」
抵抗しなかったの、という声は、藤守さんの声に隠されるまでもなく、小野瀬さん自らが、途中で言うのを止めたようにも聞こえた。
藤守
「諏訪野の車は母親の家に残されてましたから、交通手段は徒歩か、本人名義の900ccのバイクですよね?……せやけど、あの家を出てから、少なくとも30分は経ってます。どこに行ったんでしょう」
穂積
「さあね。どこかで夜明けを待ってるか……海でも見てるんじゃないの?」
室長は呑気な事を言っている。
藤守
「警察に追われてるんですよ?」
穂積
「そんな事、最初から分かってるでしょう」
藤守
「……それも、そうですけど……」
確かに、室長の言う通りだった。
私を連れ去った時、いやもっと前、薬師寺が逮捕された時から。
……ううん違う。
大麻の栽培に手を染めた時から、諏訪野には、いつかこの日の来る事が分かっていたはず。
穂積
「どこを何で走ろうと、全ての道路には警察が配備されているし、諏訪野が、父親のいる鵠沼に向かうのは間違いない。見逃す事は無いわ。それより」
藤守さんと会話しながら、室長は、バックミラーで後部座席の小野瀬さんに視線を送った。
穂積
「まだ未明だってのに、鵠沼を中心にした一帯には、夥しい数のバイクや車が集結してきてるらしいわ。警察とのトラブルにはなってないけど、逮捕の動きに連動して集まっていると考えて間違いないわね」
それは、当初から予測されていた事態だった。
湘南の暴走族たちにとって、前総長である諏訪野はカリスマであり、その影響力は、今も絶大なものであるはず。
でも、それ以上に。
諏訪野を知る人たちにとって、彼という人物がどんな存在なのか、私は知っている。
豪田さんを見れば分かる。
それからドイツ料理店でも、あのホテルでも。
諏訪野は、慕われていた。
みんなが、諏訪野に畏敬の念を抱いて尽くし、進んで力を貸してくれていた。
諏訪野は、この湘南の地に守られ、そして、誰からも愛されていた。
皮肉な事に、両親からの愛だけを除いて。
小野瀬
「諏訪野の父親、そして諏訪野の自宅を警察が包囲したとなれば、いつ、暴走族と警察隊との大規模な衝突が起きてもおかしくない」
小野瀬さんが、室長の呟きに応えた。
小野瀬
「まして、諏訪野が命令を下すような事があれば」
翼
「諏訪野さんに、抵抗する意思はありません」
私は思わず口走っていた。
小野瀬
「諏訪野、さん、か」
私が諏訪野を「さん」付けで呼んだ事が、小野瀬さんには不愉快そうだった。
小野瀬
「……どうして、きみにそんな事が分かるの?」
尖った声で問われて、一瞬身を竦ませてしまった時、バックミラーの中の室長が、落ち着いた眼差しで私を見た。
穂積
「櫻井、根拠があるなら言ってごらんなさい」
翼
「……はい」
私に向けられた室長の声に力を得て、私は、ぎゅっと拳を作って、言葉を続けた。
翼
「私、ホテルで、諏訪野さんが、誰かと電話で話すのを聞いてました。その時、彼は、『鵠沼に近付くな。お前らまで巻き込むつもりはない』って」
小野瀬
「……確かに、諏訪野本人にその気はないかもしれない。でも、あいつの舎弟たちにも、血の気の多いのはいるからね」
翼
「……」
そういう点に関しては、おそらく小野瀬さんの方が詳しい。
私は、唇を結んで黙るしかなかった。
小野瀬
「……まるで諏訪野の肩を持つような態度だね、櫻井さん」
小野瀬さんの口調は、きみはいったいどちらの味方なの、と、私を問い詰めるよう。
翼
「……だって……」
小野瀬
「……あんな目に遭わされたのに、どうして、きみはあいつを庇うの?」
真っ直ぐに見つめられて、ずきり、と胸が痛んだ。
それは、私を見る小野瀬さんの目が、確かに潤んでいたから。
ずきん、ずきん、ずきん。
私だけの痛みじゃない。
鼓動の度に、小野瀬さんの痛みが、苛立ちが、伝わって来るようだった。
どうしよう。
怒らせるつもりなんてなかった。
私は、ただ。
小野瀬
「もしかして、あいつに、惹かれてるの?」
尋問するような小野瀬さんの冷ややかな眼差しは、まるで、初めて会った時のよう。
私は咄嗟に答えられず、首を横に振る。
違う。
翼
「違います」
私は、ただ、伝えたかっただけ。
離れている間に私が知った事を、小野瀬さんにも知って欲しかっただけ。
小野瀬
「なら、どうして」
翼
「だって」
小野瀬
「どうして?きみとあいつの間に、いったい、何があったの?」
翼
「何もありません、だって」
小野瀬
「だって、何?!」
穂積
「小野瀬、やめろ!」
ついに、室長が小野瀬さんを遮った。
穂積
「馬鹿野郎、櫻井をよく見ろ!」
いつの間に車が止まっていたのか、身体ごと振り返った室長が、小野瀬さんの肩を掴んで私から引き離す。
室長の声に、小野瀬さんが、ハッとしたように私を見た。
それで、私も、気付いた。
私は、胴震いしていた。
全身が、がたがたと震えている。
涙が溢れて止まらない。
無意識のうちに小野瀬さんのシャツを握り締めていた私の手の指先は硬直していて、離そうとすれば布を引きちぎってしまいそうだった。
小野瀬
「……ご、……ごめん……」
室長が、力の抜けた小野瀬さんの身体から手を離す。
小野瀬
「ごめん、翼……」
小野瀬さんからの呼び掛けが、名字から名前に変わった。
強張って固まった私の手を、小野瀬さんの手が擦ってくれる。
もう一方の手が、私の背中を擦って、引き寄せてくれた。
小野瀬
「ごめん……」
小野瀬さんの胸に抱き寄せられて、私の身体の震えは少しずつ、おさまってゆく。
小野瀬
「……まだ、マリファナを吸引したショックが残ってて、情緒不安定なはずなのに」
私の髪を撫でながら、小野瀬さん自身も、心を落ち着かせようとしているよう。
小野瀬
「……きみが、浮気なんて、するはずがないのに」
その手が、声が、震えていた。
翼
「……小野瀬さん……」
小野瀬
「俺は、馬鹿だ」
顔を上げると、さっきまでとは全く違う、温かさを取り戻した目が私を見ていた。
懐かしい掌の感触が、頬の涙を拭いてくれる。
小野瀬
「翼……何度も、『だって』って、言いかけてたよね。……何を、言おうとしてたの?」
翼
「……だって、友達だから」
小野瀬
「え?」
翼
「諏訪野さんは、小野瀬さんの親友だから。だから、私……」
小野瀬
「……翼……」
一瞬見開いた目を、小野瀬さんは、頭を下げ、眉を寄せながら閉じた。
小野瀬
「……ごめん」
私の指が解れて、温もりを取り戻した小野瀬さんの両手に、しっかりと包み込まれた。
小野瀬
「……俺は……本当に、馬鹿だ……」