瀕死の白鳥
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~小野瀬vision~
遅れて到着した神奈川県警の捜査員たちが行き交う中を、翼を抱いて、ゆっくりゆっくりと階段を降りていく。
外に出れば、夜明け間近の空気はひやりとしていて、そこに数台の捜査車両が、無音のまま、赤色灯を明滅させながら停車しているのが見えた。
その中の一台の車の傍に藤守くんがいて、俺たちの姿を見ると、すかさず助手席側のドアを開けてくれる。
助手席は既に後部座席の方に倒されて、平らになったシートには毛布が敷かれていた。
藤守くんの手を貸りて、翼をそこに寝かせようかと思ったけれど、やめて、彼女を抱いたまま、運転席側の後ろのドアから、後部座席に乗り込む。
藤守くんは黙って助手席を起こし、広くなった後部座席に座った俺の膝の上で震えている翼の身体に、静かに毛布を掛けてくれた。
小野瀬
「ありがとう」
藤守
「俺も現場の方、手伝って来ます。諏訪野の行方が、まだ、分からないそうなんで」
にっ、と笑顔を作って、翼の髪をくしゃくしゃと撫でた後、藤守くんは車のドアを閉め、離れて行く。
車内には、俺たち二人だけになった。
小野瀬
「……寒くない?」
車はエンジンがかかっていて、車内は暖房が効いているけれど。
翼
「……」
翼は目を閉じたまま、こくんと頷いた。
俺はその、小さな身体を抱き寄せる。
翼が無事に帰って来てくれさえすれば、他には何もいらないと思っていた。
そうして、俺の腕の中に取り戻したら、今度こそ、今度こそ、彼女を傷つけるような事はするまいと。
それなのに。
抱き寄せた彼女から漂ったのは、いつもの甘い香りではなかった。
たったそれだけの事で、性懲りもなく、負の感情が沸き上がって来る。
それは、疑心。
不安、焦燥、困惑……
そして、嫉妬。
小野瀬
「……」
諏訪野と、どんな時間を過ごしてきたのか。
何を聞き、何を話し、何を思ったのか。
分からない、だから苦しい。
聞けばいい。だけど聞けない。
考えないようにしようとしても、彼女から漂う不快な匂いが、どうしても別の男を連想させて。
諏訪野に対する憤りと、彼女に対する形容し難い思い、そして、何より自分自身への苛立ちが募って渦を巻いて、頭がおかしくなりそうだ。
翼
「……小野瀬さんの匂い……」
不意に、彼女が呟いた。
小野瀬
「え?」
翼
「……コロンの香りが薄れて……本当の、小野瀬さんの匂いがします……」
彼女は俺の胸に顔を埋めた。
俺に擦り寄る仕草と温もりが愛しくて、邪な事ばかり考えている自分が情けなくて、余計、苦しくなる。
俺が、コロンで隠さない俺の匂いを教えたのは、翼だけ。
彼女の本当の匂いを知っているのも、きっと、俺だけだと信じてる。
けれど、彼女は、違う男と一夜を過ごして。
その男に買ってもらった服を着て、その男がつけた、危険な匂いを漂わせて。
……分かってる。
これは邪推だ。
彼女は諏訪野と浮気したわけじゃない。
まして、心変わりをしたわけでもない。
彼女は何も悪くない。
被害者だと言ってもいい。
分かっているけれど。
けれど、でも。
彼女の言動の一つ一つにざわめく胸の内を知られたくなくて、声が出せなくなる。
小野瀬
「……」
彼女を傷つけるような事を言ってしまうのが怖くて、口を開けなくなる。
目を閉じても耳を塞いでも、何の解決にもなりはしないのに。
翼
「……小野瀬さん」
黙り込んだ俺に業を煮やしたのか、ついに、彼女が顔を上げた。
翼
「……言いたい事、言ってください」
思い詰めた表情で、大きな目に涙をいっぱいに溜めて。
翼
「思っている事、全部、教えてください」
周りに職場の人間がいることを意識してか、彼女の言葉遣いはまた、敬語と『小野瀬さん』に戻っている。
その事にまた小さな苛立ちを覚えながらも、俺は、彼女の髪を撫でた。
小野瀬
「……心配したよ。……危ない目に遭わされていないか、怖い思いをしてはいないか。ずっと、気がかりだった」
俺はようやくそれだけの言葉を絞り出すと、彼女に向かって笑ってみせた。
小野瀬
「でも、とにかく無事でよかった。俺の所に戻ってきてくれて、よかった」
上手く笑えたか、分からない。
でも、笑って、それで、諏訪野との事は終わりにしてあげなくちゃいけない。
俺は、
小野瀬葵は、
彼女の前では大人の男でいなきゃいけないんだから。
けれど、彼女は、俺の言葉に激しく首を振った。
翼
「そんな事、言って欲しいんじゃありません」
小野瀬
「でも、本当にそう思ってるんだ。心配で心配でたまらなかった。だから、無事に戻ってきてくれただけで、俺は……それとも、謝ればいいの?」
翼
「違います!……私、叱ってほしいんです。勝手な行動をして、小野瀬さんを心配させて、みんなにも迷惑をかけて。どういうつもりだ、って、問い質してほしいんです!」
翼は真剣な面持ちで俺に迫るけど、そんな事、言えるはずがない。
小野瀬
「翼、落ち着いて。きみが連れ去られたのは、俺のせいだよ。俺が、不注意だったから。だから」
翼
「いいえ。私の責任です。それなのに責めないのは、私の事なんか、その程度の人間だと思ってるからですか」
小野瀬
「違うよ。きみ、どうしたの」
翼
「私」
気持ちが昂っているのか、俺を見上げて、翼は唇を震わせた。
翼
「……私、諏訪野さんに、キスされました」
次々に投げ掛けられる言葉に、俺は咄嗟に反応出来なかった。
……キス……?
……諏訪野が?
……翼に……?
翼
「それでも、責めないんですか?何も言ってくれないんですか?」
翼の手が、俺のシャツの胸を掴んで握り締めた。
翼
「小野瀬さんは」
俺を見つめた彼女の目から、涙が零れ落ちた。
翼
「もう、これ以上、私に立ち入らない事にしたんですか。おしまいにするんですか。今までの女の人と同じように」
小野瀬
「……!……」
息が止まるかと思った。
それほど彼女の言葉は鋭く、潤んだ目で真っ直ぐに俺を見る表情は、毅然として美しかった。
翼
「……どうして、諏訪野さんが私にキスをしたのか、今、分かりました」
翼の声と表情が、半ば怒ったような、俺を突き放すようなそれに変わる。
小野瀬
「……翼、それは……」
その時、突然、車のガラス窓が叩かれた。
ほとんど同時に運転席と助手席のドアが開いて、藤守くんと穂積が乗り込んで来る。
翼は穂積から顔を隠すようにして、手の甲で涙を拭った。
穂積
「二人とも、シートベルトを着けろ。行くぞ」
翼
「はい」
穂積の声を合図に、翼は俺を一瞥して頭を下げ、滑り降りるようにして俺から離れると、隣の席に一人で座ってベルトを締める。
俺の返事を待たずに、藤守くんがアクセルを踏んだ。
翼が無事に帰って来てくれさえすれば、全てが元通りになると思っていた。
それなのに。
たった一夜で彼女は変わった。
諏訪野はいったい、彼女に何をしたんだ。
俺はまだ混乱する頭を手で押さえながら、隣の席の翼の横顔を見つめた。
それは急に大人びて、そして、肩が触れ合うほど近くにいるはずなのに、ひどく遠くにいるように思えた。