鼠取りの男
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~翼vision~
本日は快晴。
それなのに私の心は、もう、何日も前から曇り空。
小野瀬さんは相変わらず女性たちに囲まれて、何か楽しそうに囁いたり、囁かれたり。
そういう人なんだと諦めて距離を取ろうとすれば、彼は周囲の女性たちを置き去りにしても、私を追い掛けて来る。
私に好意があるような素振りをするのに、本気なのか冗談なのかさえ分からないし、私の知りたい事には、笑うだけで答えてくれない。
好きなら好きと言って。
嫌いならもう諦めさせて。
お願いだから。
私は給湯室で涙を堪えながら洗い物を済ませ、懸命に気持ちを切り替えて、捜査室に戻った。
穂積
「はい、本日のメニューでーす」
私が戻るのを待って、室長がファイルを開いた。
捜査室は、毎日毎日業務が違う。
その日の全員の行動は、深夜&早朝会議での上層部からの指示、各部署からの個別の依頼や残務を総合して、室長が決定している。
大きな案件は継続になるけど、通常は、毎朝のこのミーティングで、一日の仕事を知る事になっていた。
穂積
「明智、藤守は一課の現場に同行。如月は三課の取り調べに協力。小笠原は鑑識の手伝い」
名前を呼ばれたメンバーは、はい、と返事をして準備に取り掛かる。
その場に残ったのは、室長と私だけ。
目が合って、室長がにっこりと笑った。
穂積
「アンタはワタシと鼠捕り」
翼
「ネズミっ?!」
後退りする私に、室長は不思議そうな顔をした。
穂積
「あら?元交通課でしょ?鼠捕り、知らない?」
知らない。
穂積
「道路に簡易検問を張って、スピード違反や、シートベルト未着装なんかを取り締まる事よ。ちなみに今日はスピード」
ああ、そういう事か。定置式速度取締りの事を、鼠捕り、って呼ぶんだ。
明智
「最近、交通課の依頼多いですね」
穂積
「そうね。でも、山田課長には、櫻井を引き抜いた借りがあるし。しばらくは言う事聞く事にしたの」
室長はそう言って、私の背中をポンと叩いた。
穂積
「さ、行くわよ」
海岸沿いの片側一車線の道路に、赤い旗を持った警察官数名が待機している。
パトカーを道路から見えない場所に停め、木陰に取り調べ用のテーブルとパイプ椅子を置いたところで、追跡用の白バイと交通機動隊員が到着した。
トランシーバーの警察官が会話している相手は、数百メートル離れた場所で、視認のために、レーダー測定器と共に待機している同僚だ。
私と室長は取り調べ要員として、木陰に座っていた。
取り調べと言っても、実際は、検挙したドライバーに反則切符の説明をし、サインをもらうのが仕事。
取り締まりが始まるまでは、まだ時間があった。
翼
「……」
じっとしていると、つい、考えてしまうのは小野瀬さんの事。
穂積
「アンタにそんな顔をさせるのは、小野瀬?」
翼
「!」
隣から声を掛けられて、私は飛び上がりそうになった。
おずおずと振り返ると、室長は真顔のまま、私を見ていた。
室長の美貌からは、表情が消えている。
本気で怒っている時の顔だ。
翼
「……あ、あの」
何か言って取り繕うべきだと思ったけど、喉につかえて、うまく話せない。
翼
「……すみません……」
声が震えた。
チッ、と室長が舌打ちする。
穂積
「あの、馬鹿!」
室長は深く息を吸って、吐き棄てるように言った。
それきり無言で、室長は、険しい表情を私から背けるように、道路の方に向けた。
私はその時初めて、室長が、小野瀬さんへの私の気持ちに気付いていた事を知った。
翼
「……室長……」
私が声を掛けてから、しばらくして振り向いた室長は、いつもの表情に戻っていた。
過保護なくらい優しくて、心配性で、いつも私を守ってくれる、職場のお父さんの表情。
翼
「……私、分からないんです」
室長の顔を見た途端、目頭が熱くなった。
翼
「……小野瀬さんの気持ちも……自分の気持ちも……っ」
穂積
「馬鹿ね」
両手で顔を覆って嗚咽を漏らす私の髪を、室長がそっと撫でてくれた。
穂積
「好きだから、苦しいんでしょう」
ああ。
その通りだ。
小野瀬さんが好き。
認めてしまえば、こんなに楽になれるのに。
どうして、今まで素直になれなかったんだろう。
室長に頭を撫でてもらうたび、涙が零れるたび、頑なだった心が、少しずつ溶けてゆく気がした。
穂積
「櫻井」
翼
「……はい」
顔を上げようとした私を、室長の手が、そのまま聞け、というように押さえた。
穂積
「小野瀬の気持ちは、小野瀬から聞きたいわよね。……だから、今、ここでワタシが代弁する事は出来ない」
翼
「……はい」
穂積
「ごめんね」
室長の手が緩んだので、私は涙を押さえて、顔を上げた。
いいえ、と首を振る私に、室長は優しく微笑んだ。
穂積
「その代わり、小野瀬と付き合うコツを、一つだけ教えるわ」
翼
「コツ……?」
そんなものがあるんだろうか。
でも、室長と小野瀬さんは同期の親友で、何でも言い合う事が出来、誰よりも分かり合っている。
コツがあるなら知りたかった。
翼
「教えて下さい」
穂積
「簡単よ。周りを見るな、小野瀬を見ろ」
翼
「……周りを、見るな、小野瀬を、見ろ……」
穂積
「そう」
室長は頷いた。
その時、道路で待機していた警察官が、Tシャツにジーンズの若い男性を連れてこちらに来るのが見えた。
穂積
「鼠捕りが始まったみたいね」
室長は、ポキポキと指を鳴らした。
穂積
「頑張りなさい。以上、雑談終わり」
翼
「はい」
私は、室長に頭を下げた。
翼
「ありがとうございました」
室長の言う通り、私は、小野瀬さんの周りばかりを見過ぎていたのかもしれない。
そのせいで、小野瀬さん自身を見る目が曇って、迷って、惑わされていたのかもしれない。
もう一度、小野瀬さんと、ちゃんと向き合ってみよう。
本日は快晴。
私の心にも、ようやく、雲間から光が射し込んだように感じられた日。
~END~