瀕死の白鳥
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~翼vision~
ふわり。
顔を撫でるように何かが触れて、私は重い瞼を開いた。
重いのは瞼だけではない。
全身が重くてだるくて、力が入らない。
諏訪野が寝かせてくれたソファ―から、起き上がる事が出来ない。
それでも身体を捻ろうとすると、ソファーの端から、だらりと右腕が落ちた。
翼
「……ぅ……」
重く痛む頭を懸命に動かして、私は、たった今自分に触れたものの正体を探した。
………
…………扉が開いている……。
諏訪野が出て行く時、たしかに閉めていったはずなのに……。
その時、視界の中を、白く裾の長い服を着た女の人の姿が横切った。
緩く波を打つ長い黒髪、青ざめた美しい横顔には、けれど、表情というものがない。
私はぞくりとした。
……響子さん……!
彼女はぶつぶつと唇を動かしながら、漂うような動きでゆっくりと壁際に近付くと、さっき諏訪野が蓋を閉めた、小さな香炉の蓋を開けた。
響子
「あの男はいつも消してしまう」
誰に向けたのか分からない呟き。
響子
「だから大嫌い」
響子さんは手にしていたコンパクトケースを開いて、昔の粉薬のように、薄い紙を畳んで作られた小さな五角形の包みを取り出した。
細い指先でそれを香炉に入れ、マッチで火をつける。
煙が上がり、強い香りが立ち昇り始めると、響子さんはうっとりと目を細めた。
……マリファナだ。
翼
「きょ……こ、さん、……やめ、て……」
私の喉から出たのは、信じられないぐらい掠れた声だった。
息を吸うと苦しい。
息を吐けば喉が熱い。
響子
「あの男と同じ事を言う……」
響子さんがゆっくりと振り返り、ぞっとするほど冷たい目で私を見た。
翼
「……毒……だから、……すわ……息子さん、……は、なるべく……」
響子
「息子?」
響子さんが近付いて来て、白い服の裾がまた私の顔を撫でた。
響子
「息子の事を言わないで」
翼
「……えっ……?」
息子なんてもういない。
捨てたんだから。
そう、聞こえた気がした。
響子
「小さくて、なにもかも真っ白で」
響子さんは、子供を探すように辺りを見回しながら、落ち着かない様子になった。
そう言えば、離れていた時間が長かったと聞いた。
響子さんの中で、小学生だった諏訪野と、今の諏訪野は結び付いていないのだろうか……
響子
「真っ白で、禍々しい子」
私は耳を疑った。
翼
「……まが…まがしい……」
もしかして、さっきのは、聞き間違いじゃなかったのだろうか。
……もういない、って。
…………捨てた、って。
響子
「わたしは悪くない」
響子さんは両手で頭を押さえた。
その手の指を立てて、自分の髪を掴む。
響子
「わたしのせいじゃない。子供なんか欲しくなかった。白い子なんか産みたくなかった。龍一さんも、あの人も、なにもかも失ってしまった、なにもかも狂ってしまった、なにもかもあの子のせい」
髪が軋むほどの音を立てて、響子さんは自分の頭を掻きむしった。
響子
「翔はいない、もういない。わたしが捨ててきたんだもの。泣いてたのに。あんなに泣いてたのに。かわいそうに。でも、もういない。あの子は、もういない」
狂気と錯乱の予感がして、私は口を挟むのを止めた。
響子
「違う、ちがう。違う違う違う。あんな男、翔じゃない。わたしの子じゃない」
響子さんは、声を上げて泣き始めた。
翼
「…………あ」
私は、自分が、とんでもない勘違いをしていた事に気付いた。
諏訪野は、響子さんを「俺の母親だった人」と言った。
私はそれを、響子さんが諏訪野の父親と正式に離婚したのだろうと、母親でなくなったというのはそういう意味だろうと、勝手に思っていた。
でも違う。
響子さんは、ずっと苦しみ続けてきたんだ。
望まない形で諏訪野を産んで、周囲からも夫からも責められて。
幼い諏訪野を捨てて家を出て、愛人とマリファナに逃げて。
再会した諏訪野を息子とは認められなくて、ううん、認めるのは、あまりにも辛すぎて。
だから、自分の世界に閉じ籠った。
諏訪野も、強いてそこから出そうとはせずに、響子さんを見守ってきた。
息子だと認めてもらうことを諦めて、ただ、マリファナと、静かな生活を与えるだけの存在として。
ただ、彼女のそばにいるためだけに。
翼
「……ああ……」
涙が滲んだ。
どんなに尽くしても、全てを捧げても、小野瀬は心底受け入れてはくれない。
……辛いよね。
諏訪野の言葉が蘇った。
あれは。
私と小野瀬さんとの事を言いながら、誰を思い浮かべていたんだろう。
ありのままの小野瀬を全て受け入れようとしているのに。
その気持ちは、こんなものでは揺るがないはずなのに。
小野瀬は、その事を理解してくれない。
……誰に、受け入れて欲しかったんだろう。
何を、理解して欲しかったんだろう。
白鳥の声を聞いた事がある?
同時に蘇ってきたのは、室長の言葉だった。
この騒音は、あいつらの悲鳴よ。
ただ迷惑なだけの大音量の騒音にしか聞こえません、そう言った時、室長は、とても静かな眼差しで私を見た。
諏訪野と同じ、優しくて、どこか哀しい、綺麗な色の目で。
いいのよ、分からなくて。ごめんね。
ワタシにはそう聞こえるだけ。
暴走族の群れなすバイクの排気音に、諏訪野は何を聞いていたんだろう。
父親から疎んじられ、母親から拒まれても、それでも、彼は愛さずにはいられなかった。
そのせいで道を外れ、今、警察に追われる身になってしまっても。
声にならない声で叫び続けながら、それでも、両親を、愛さずにはいられなかったんだ。
突然、首の後ろがチリッ、と痛んだ。
ハッとして目線を向けると、響子さんが、新しい包みに火を点けていた。
翼
「駄目!」
長い髪を掻き乱した響子さんが、泣き腫らした目をこちらに向けた。
私は、痺れたように言うことをきかない身体を持ち上げようとして、ソファーから転げ落ちてしまった。
でも、止めなくては。
諏訪野は、出て行く時にマリファナの火を消していった。
きっと、もう充分なはずなのだ。
それなのに、さっき、響子さんは新しい包みに火を点けた。
そして、今また新しい包みに火を点けてしまったら……!
翼
「駄目……」
私は床に這いつくばった。
腕に力が入らない。
それでも、朦朧とする意識を必死で呼び戻し、響子さんを止めようともがいていると、突然、仰向けにひっくり返された。
同時に、響子さんが私の身体の上に馬乗りになる。
そして、いきなり首を絞めてきた。
翼
「……っ!」
響子
「うるさい女」
軽い身体。細い腕。針金のような指先で喉笛を押さえられて、私はあっという間に呼吸が苦しくなった。
普段の体力なら、こんな華奢な人を投げ飛ばし、押さえ込むくらいわけはない。
けれど、たっぷりと嗅がされた麻薬の煙のせいなのか、身体は全く思い通りにならない。
響子さんは私のブラウスのボタンを外して首を露にすると、剥き出しになった喉に、さらに指先を食い込ませた。
翼
「……く、はっ……!」
苦しい。
苦しい。
少しでも息を繋ごうと頭を振って抵抗していると、ポツリ、顔に何かが落ちた。
翼
「……?……」
響子
「……あんたなんかに……」
見開かれた目から、次々に落ちてくるそれは、響子さんの涙だった。
響子さんは泣いていた。
けれど、首を絞める力は緩まない。
それはまるで、響子さんの心に反して、響子さんの身体だけが勝手に、私を絞め殺そうとしているように。
響子
「……あんたなんかに……何が……!」
再び、首を絞める力が強くなった。
息が詰まって、気が遠くなる。
脳裏に突然、室長の面影が浮かんだ。
続いてすぐにお父さん、お母さん……
一瞬、遠くに見えてきた花畑にうっとりとしかけて、私は総毛立った。
これは……
……駄目だ!……しっかりしなきゃ……!
私はなんとか意識を保とうと、固く目を閉じ、歯を食いしばって、生きて会いたい人の顔を思い浮かべようとした。
……笑顔。
大好きな、笑顔。
そう、たとえ想いが届かなくても、
擦れ違ってばかりで、分かりあえなくても。
私は、あの笑顔のそばにいたい。
せめて、あの人に、もう一度会いたい。
翼
「……ぉ」
涙が零れた。
翼
「……あ……ぉ……」
力が抜けかけた、その時。
小野瀬
「翼ーーっ!」
いくつもの足音が近付いたと思った次の瞬間、飛び込んで来た青い影が、私の上にいた響子さんを突き飛ばした。
響子さんはよろめく間もなく別の黒い影に取り押さえられ、手錠をかけられる。
明智
「藤守、如月!窓を開けろ!」
藤守
「はい!」
如月
「はい!……っぷ、凄い臭い!」
明智さんの声に応えて、藤守さんと如月さんの声が聞こえた。
次々と窓が開けられ、こもっていた空気が、外の冷たい空気と入れ換わってゆく。
小野瀬
「翼、しっかりして!気を確かに!大きく息を吐くんだ!」
翼
「……あ……」
駆け寄って来るなり、床に膝をついて、私の上半身を抱き上げるようにして顔を覗き込んだ、紅い髪の人。
何だか、数年ぶりに会ったような懐かしさを感じる。
翼
「……小野瀬、さん……」
小野瀬
「ここにいる」
返事をする前に、きつく抱き締められた。
小野瀬
「……ここにいるよ。だから、名前で呼んで」
小野瀬さんの声が、震えている。
翼
「……あおい……」
小野瀬
「翼……!」
痛いほどの力で私を抱き締める小野瀬さんの身体を、私もまた、精一杯の力をこめて、抱き締めた。