瀕死の白鳥
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象牙色の壁に囲まれた室内には、四方に置かれた幾つもの花瓶に、色とりどりの華麗な生花が飾られている。
寝衣のような白い服を着た女性は、そのうちのひとつを、揺り椅子からぼんやりと眺めていた。
諏訪野が近付くと彼女は物憂げに半身を起こし、長い髪を揺らして頭を下げる。
再び上げたその顔立ちは、病的に青白く痩せて表情が乏しく、虚ろな目をしてはいるものの、諏訪野によく似た美貌の面影を失ってはいなかった。
諏訪野
「こんばんは、響子さん。少しの間お邪魔します」
諏訪野が丁寧に挨拶したので、私もそれに倣って頭を下げた。
翼
「お、お邪魔します」
「どうぞ」とかすかに微笑んで、響子さんが私に応えた。
鈴の鳴るような、綺麗な声だった。
諏訪野は私に目で合図を送ると、響子さんに再び黙礼をしただけで踵を返し、その部屋を出るよう促す。
扉を閉める直前に振り返った私は、響子さんがまた、何事もなかったかのように、ゆっくりと揺り椅子に身体を戻すのを見た。
翼
「……諏訪野、さん。今の、女の人……」
あまりに美しすぎて、静かすぎて。
まるで白日夢を見たような感覚に、震えがおさまらない。
今もあの扉を開ければ彼女がいる、その事が実感出来ない。
廊下に出たところで呼び掛けると、諏訪野は足を止め、静かに振り返った。
私が震えている事に気付いていたのか、諏訪野は、私に向かって頭を下げた。
諏訪野
「驚かせてごめんね」
淡い色のついた眼鏡の奥で、諏訪野は長く真っ白な睫毛を伏せる。
そんな表情をすると、やっぱり、彼は響子さんによく似ていた。
諏訪野
「……彼女は、俺の、母親だった人だ」
諏訪野の言葉に、私は、ようやく、答えを見つけ出して頷いた。
おそらく、響子さんとご主人は、正式に離婚なさったのだろう。
だとしたら、ここは響子さんのご実家なのかもしれない。
そう考えれば、全て、辻褄が合うではないか。
諏訪野
「……こっちへ来て」
廊下を少し戻ったところで、諏訪野は別の部屋の扉の前に立った。
諏訪野
「開けてごらん」
促されて諏訪野の隣に立ち、ドアノブに手をかけてみた。
逡巡する私が見上げると、諏訪野はひとつ頷く。
それから軽く顎を動かして、開けて、というような仕草をしたので、私は意を決し、思い切って扉を開けた。
翼
「……っ!は、」
その途端、室内から溢れ出た、噎せかえるほどの臭気を吸い込んでしまった。
翼
「……な、何、これ……」
涙が出るほど咳き込んでいると、私の一歩後ろから、諏訪野が入って来た。
諏訪野
「よく見て」
諏訪野に言われ、私は荒い息のまま、顔を上げて室内を見た。
……何と形容したらいいのだろう。
切り込みの深い緑の葉を繁らせた、1.5メートルほどの高さの植物が数十本、整然と並んでいた。
上からはたくさんのライト、根元には液体の張られたボックス。気が遠くなりそうな強烈な匂い。
室長から教わった「水耕栽培」という言葉が蘇る。
ホテルで見た、洋麻とも違う。
今度こそ、間違いない。
これは……
大麻だ。
どきどきする胸と、肺を押さえながら、私は、諏訪野を振り返った。
諏訪野は私の傍らに立って、さっきまでと同じ、淡い色の静かな目で私を見ていた。
彼は最初から、マリファナとの関係を否定しなかった。
見せてくれる、そう言って、私をここへ連れてきた。
でも。
私は、どこかで、彼への容疑が間違いであってほしいと思っていた自分に気付いた。
刑事としては失格だけど、私は、心のどこかで、諏訪野はマリファナとは関係無い、そうであってほしいと願っていたのだ。
だって。
だって、この人は小野瀬さんの友達だから。
翼
「……何故ですか……?」
私は、迷いを振り切るように、首を横に振った。
翼
「なぜ、麻薬なんか」
諏訪野
「……元々は、母の愛人が始めた事だった」
諏訪野は静かに語り始めた。
諏訪野
「俺がまだ小学生の頃だった。……母は、生活に強いストレスを感じていた。それで家出をし、愛人と暮らすようになった」
私は、隣室にいる、儚げで美しい響子さんの姿を思い出していた。
諏訪野
「俺は、ずっと、母の行方を知らなかった。だが、高校に入って出来たバイク仲間や舎弟たちが母を探し、ついには居場所を突き止めてくれた。小野瀬と知り合った頃だ」
諏訪野もまた、脳裏に響子さんの姿を思い浮かべているのは、表情で分かった。
諏訪野
「……母は、俺に会おうとはしてくれなかった。それでも良かった。愛人と暮らしていようが、母が幸せなら、俺はそれで」
そこまで話すと、憂いを含んで回想に浸っていた諏訪野の眼差しが、大麻を見つめて、不意に険しくなった。
諏訪野
「だが、俺が高校を卒業した直後から、愛人は母とこの家を捨てて、他の女と、別の場所で暮らし始めた」
翼
「えっ……」
諏訪野
「母は海に飛び込んで自殺未遂を起こした。運ばれた病院で俺と再会した時、母は半狂乱だった」
諏訪野は唇を噛んだ。
諏訪野
「病院では、精神的なショックのせいだと診断された。……だが、違う。愛人が育て、作って吸わせたマリファナの中毒症状で、既に心身を蝕まれていたんだ」
少しずつ、話が見えてきた。
おそらく、退院後は諏訪野が引き取り、面倒をみてきたのだろう。
彼は、大学時代には自分のお金を持っていたと豪田さんが言っていた。
この家を買い取り、住んでいた当時の環境を維持し、そして……響子さんの為に大麻を育て、マリファナを与え続けてきた。
翼
「……許されない事です」
諏訪野
「分かってる」
諏訪野は頷いた。
諏訪野
「分かってる。でも、彼女には俺しかいなかった」
ちりっ、と、首筋に灼けるような痛みが走った。
私は、今、閃いた恐ろしい考えを、諏訪野に確かめなければならなかった。
翼
「諏訪野さん……、その……愛人の男性は……?」
諏訪野
「この湘南で、俺の母を廃人にして捨てたんだよ」
諏訪野は、さっきと同じ、氷のような声で答えた。
諏訪野
「どうなったかな。俺は知らない」
頭がぼうっとして、痛い。
痛くて、気持ち悪くて、吐きそう。
私は、こめかみを押さえてうずくまった。
諏訪野
「……きみは、俺の母に似ているところがあるよ」
床にへたりこんでしまった私の傍らに膝をついた諏訪野が、私の耳元で囁いた。
諏訪野
「世間知らずで、純粋で、何の罪も無いのに、辛い思いを強いられている」
穏やかで、胸に沁みる声。
諏訪野
「小野瀬は、愛されている事に鈍感だ。どんなに尽くしても、全てを捧げても、小野瀬はきみを心底受け入れてはくれない」
私を理解してくれる眼差しに、同情してくれる言葉に、涙が込み上げてきた。
諏訪野
「……辛いよね」
諏訪野は、優しい。
その優しさに、縋りついてしまいたくなる。
今、この人の胸を借りて、腕に抱かれて、そして、思い切り泣く事が出来たら、どんなに楽になれるだろうか。
諏訪野
「きみが望むなら、ここにいていいんだよ」
……ここに?
諏訪野
「何も不自由はさせない。小野瀬に愛される夢を見ながら、幸せな時間を過ごしていていいんだ」
立ち上がった諏訪野が、部屋の隅でか細い煙を立ち昇らせていたお香のようなものに、傍らにあった小さな蓋を被せた。
部屋に満ちているのは、あの香りだったんだろうか。
頭の奥が痺れるような、うっとりするような感覚が私を包み込んでゆく。
……居心地の良い場所。
……安らぎを与えてくれる相手。
……永遠に、裏切られることの無い夢。
いつのまにか頭痛はおさまり、眠気にも似た心地好さが私を支配していた。
なんだろう。
身体を動かすのが億劫になってきたみたい。
諏訪野
「辛い事は、全て忘れておしまい」
すぐ近くにいるのに、諏訪野の声が遠く聞こえる。
全て、忘れる。
何を?
諏訪野
「今までの辛い事も、きみを悲しませる相手の事も」
辛い事……
悲しい事……
辛い事って何……?
私を悲しませる相手って……?
…………誰だっけ。
私はその人がとても好きで……
…………本当に好きだった?
…………私は本当に愛されていた?
諏訪野
「きみは愛されていたよ」
ありがとう。
嬉しい。
ああ。
でも思い出せない。
思い出せない事が心地好い。
とても好きな人がいた。
その人と私は愛し合っていた。
それだけでいい。
そう思うだけで、自分を追い詰めていたしがらみから、ひとつずつ解放されてゆくような気がする。
少しずつ、身体が軽くなってゆくような気がする。
諏訪野
「……本当に、可愛いお嬢さんだ」
…………どこかで聞いた言葉。
諏訪野
「……眠ってしまう前に、聞いて。……この部屋の事は、俺と父しか知らない。……そして、薬師寺にマリファナを売ったのは俺じゃない。……もう、分かったね……?」
………薬師寺に………マリファナを……
諏訪野
「……さあ、きみに教える事は全部教えた。……俺は、行かなきゃならない」
自分の意思では動かせなくなった私の身体を、諏訪野が抱き上げて、柔らかなソファーに寝かせてくれた。
冷たい指先が髪を直してくれた時、私は、一番最初に私の手を握った時以来、彼が一度も私に触れていなかった事に気付いた。
諏訪野
「おやすみ。楽しかったよ」
唇に、一瞬、柔らかな唇を感じた。
触れただけなのに、引き寄せたくなるほど甘美な口付けの感触を私に残して、諏訪野が離れた。
諏訪野
「……さようなら、櫻井さん。小野瀬と幸せになれるよう、祈ってる」
……行ってしまう……。
……追いかけなきゃ……。
そう思ったけど、瞼が開かない。
身体に力が入らない。
……諏訪野……待って……
諏訪野が部屋を出て行く気配を感じて、私は身悶えした。
……小野瀬、さん……。
私は、ようやく思い出した小野瀬さんの名前を呼んだところで、朦朧として遠のいてゆく意識を手離してしまった……。