瀕死の白鳥
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~翼vision~
いつの間にか、うとうとしてしまっていたらしい。
翼
「!」
跳ね起きた私は、見慣れないベッドの上で辺りを見回し、そこが、ホテルの一室だと気付いた。
そして、なぜ自分がそんな場所に一人で寝ているのか、眠ってしまう前の記憶を手繰り寄せ、思い出していた……。
諏訪野
「……さあ、今夜はもう遅い。話はまた明日にしよう」
私に写真をくれた後、話を切った諏訪野はそう言ってソファーから立ち上がると、広い部屋をゆっくりと横切って、隣室への扉を開けた。
諏訪野につられるようにして立ち上がった私は、促されて入った薄暗い室内にベッドが二つ置かれている事に気付いて、思わず身体を固くしてしまった。
けれど諏訪野はそんな私に構わずに部屋の明かりを点けると、さっき買った私の服を、紙袋のまま、寝室に全部運び入れた。
諏訪野
「俺は隣の部屋で寝る。こちらへは来ないから、ベッドも冷蔵庫の中身も、好きに使っていいよ」
翼
「え、でも」
諏訪野
「シャワーは先に使わせてもらったし、トイレは外にもあるしね。それとも、一緒にソファーで寝たい?」
私はどきりとして、慌ててぶんぶんと首を横に振った。
諏訪野
「残念」
諏訪野はふふ、と笑ってから、私を残して寝室を出て、扉に手をかけた。
諏訪野
「ゆっくりおやすみ……と言いたいところだけど、明日は朝早くここを出るよ。いつでも出られるように、荷物はまとめておいてくれる?」
翼
「はい」
私が頷くと、諏訪野も微笑んで頷いた。
諏訪野
「おやすみ」
静かに、私と諏訪野を隔てる扉が閉まった。
私は諏訪野に言われた通り、買い揃えてもらった荷物をひとつにまとめると、思い切ってシャワーを浴び、下着も替えた。
それから少し考えた後、ホテルの室内着ではなく、外出着を身に付けた。
いつでも出られるように。
一人になると、たちまち不安で胸が押し潰されそうになる。
だからこそ、明日に備えて元気出さなきゃ。
きっともうすぐ、室長やみんなが見つけてくれる。
明日はきっと小野瀬さんに会える。
私はそう自分に言い聞かせながら、ツインのベッドのひとつに突っ伏し、枕に顔を埋めた……。
……うたた寝していた時間はほんの僅かだったらしく、窓の外はまだ真っ暗。
私は寝返りをうった。
一人でベッドに横たわっていると、どうしても、小野瀬さんを思い出してしまう。
会いたい。
オーベルジュにいる間、と言うより、神奈川に来てからずっと、小野瀬さんは自分の考え事にとらわれていて、私の事なんか目に映っていないみたいだった。
何を言っても私の言葉は小野瀬さんに響かなくて、私はそれが心細くて、悲しくて悲しくてたまらなかった。
諏訪野に誘われた時、その心細さが無かったら、私は迷わず小野瀬さんと残る道を選んだだろう。
小野瀬さんに電話をかけた時、あの悲しみが癒えていたら、私はきっと「今すぐ迎えに来て」という言葉を選んだだろう。
私が諏訪野を選んだ事で、小野瀬さんがどんな気持ちになるかなんて、あの時は考える事が出来なかった。
……ううん……。
本当は、分かっていたのかもしれない。
あの時、私は、小野瀬さんの事を知りたいと思った以上に、小野瀬さんが私の事をどう思ってくれているのか知りたくて、だから、諏訪野に付いてきたのかもしれない。
確かめたくて、だなんて。
……怒ってるだろうか。
心配してくれてるだろうか。
それとも、嫌われてしまっただろうか……。
怒られてもいい、嫌われてもいい。
小野瀬さんに会いたい。
小野瀬さん、諏訪野は今でも、小野瀬さんを大切な友達だと思っているよ。
小野瀬さんの写真も見せてもらったの。
私、神奈川に来て、諏訪野に会って、前よりも少し、小野瀬さんに近付けた気がする。
小野瀬さん、小野瀬さん、小野瀬さん……。
会いたい。
「……」
その時、小野瀬さんの声が聞こえたような気がして、私の心臓はどきりと跳ねた。
優しく静かに語りかけるような、男の人の低い声。
じっと耳を澄ませば、その声は、扉を隔てた隣の部屋から聞こえてくるのだと分かった。
……諏訪野の声。
私は落胆と、安堵の入り雑じった溜め息をついた。
冷静に考えれば、このスイートルームに諏訪野と私しかいないのは、分かりきった事なのに……。
……なのに……諏訪野は、誰と話をしているの……?
翼
「……」
私は跳ね上がった鼓動を深呼吸で鎮めながら、ベッドを下り、裸足で床を歩いて、扉の隙間に耳を近付けた。
諏訪野
「……」
隣の部屋で眠っている私を気遣ってか、いつも穏やかに話す諏訪野の声はさらに潜められて、聞き取り辛い。
それでも息を詰めて聞き耳を立てていると、やがて、会話が聞き取れるようになってきた。
諏訪野
「……そう……思ったより………たな…」
諏訪野は相槌を打っているようなのに、相手の声が聞こえない。
どうやら、電話で話をしているのかもしれない。
諏訪野
「……くげぬま……お前ら……ない……」
私に話す時とは、微妙に言葉遣いが違う。
もしかして、「舎弟」の誰かと話しているのだろうか。
その通話が切れた後も、ホテルの部屋に備え付けの電話は幽かな音で何度も鳴った。
諏訪野はそのたびに呼び出しに応えて短いやりとりを返していたけれど、やがて、深い溜め息がひとつ、聞こえた。
間もなく、ソファーから諏訪野が立ち上がる気配がして、私のいる部屋の扉がノックされた。
諏訪野
「櫻井さん、ごめんね。起きてくれる?」
この時私は、まだ、扉のすぐそばにいた。
でも、いきなり返事をしたら、立ち聞きしていた事を見抜かれてしまうかもしれない。
私は少しだけ間を置いてから、扉をそっと開けた。
背中の方から照明を受けて、逆光になった諏訪野がそこに立っている。
諏訪野
「起こしてごめん」
私は、首を横に振った。
翼
「……どうかなさったんですか?」
思わず尋ねてしまったのは、諏訪野が、とても悲しそうな顔をしていたからだ。
諏訪野
「藤沢に戻らなきゃならないようだ」
翼
「藤沢……諏訪野さんのご自宅ですか?」
諏訪野
「そう。警察が動き出しているらしくてね」
翼
「警察が……」
きっと室長だ。
私は、無意識に一歩、明かりの下に踏み出していた。
諏訪野
「でも、まだ、約束したものをきみに見せていないよね。だから……」
言いかけて、諏訪野は、ふと、私を見つめた。
諏訪野
「きみ、泣いてたの?」
私はハッとして、急いで涙を拭った。
諏訪野
「……」
諏訪野にはきっと、私が小野瀬さんの事を考えていたのなんかお見通しだろう。
けれど、彼はそれ以上私の涙の理由には触れず、静かに話を続けた。
諏訪野
「次の場所に着いたら、解放してあげるよ。約束する」
本当ですか、と口に出しそうになって、私はその言葉を飲み込んだ。
今まで、諏訪野は私と交わした約束を破った事が無い。
それは、いい意味でも、悪い意味でも。
だから、彼が「解放してあげる」と言ったら、間違いなくそれは実行されるだろう。
私は、胸いっぱいに安堵感が広がるのを感じていた。
翼
「すぐ、支度します」
私はそう言うと諏訪野に背を向け、身支度をする為に急いで寝室に戻った。
だから、この時、諏訪野がどんな表情をしていたのか、私は見ていない。
ただ、私が身支度を整えて寝室を出た時には、諏訪野は、もう、いつものように涼やかな笑みを浮かべて、私を待っていた。
諏訪野の車に乗って着いた所は、耳を澄ませば夜の波の音が聞こえてくるような、海沿いの高台にある一軒家だった。
車のヘッドライトに照らし出されたのは、芝生の庭に三角屋根、二階建ての建物の周りを白い鉄柵で低く囲った、瀟洒な洋館。
諏訪野は門扉をくぐって敷地内の駐車場に車を入れ、無造作にエンジンを切ると、トランクから私の荷物を持って車を降りた。
諏訪野
「おいで」
私について来るよう促して石畳の上を渡り、諏訪野は、鍵のかかっていた玄関の扉を開ける。
するとその直後、今使ったその鍵を投げてよこしたので、私はびっくりした。
諏訪野
「持っているといい。証拠品だ」
証拠品、って……
言葉の意味をはかりかねている私をよそに、諏訪野は屋内の電気を点け、先に立って進んでゆく。
大理石張りの廊下を靴のまま、広い歩幅で歩く諏訪野に早足でついてゆくと、アーチ型の壁をくぐって広いリビングルームに出た。
品のいい調度品が置かれた、けれど、生活感のあまり感じられない美しい部屋。
どこかでお香でも焚いた後なのか、なんともいえない香りが鼻をくすぐる。
諏訪野
「ここは、母の住んでいた家だ」
諏訪野の言葉にどことなく引っ掛かるものを感じながらも、私は納得した。
壁の絵だとか、アンティークらしい陶器の人形とか、猫足の家具とか、そこかしこに女性らしいセンスが窺えると思っていたからだ。
でも、「住んでいた」って……
どういう事だろう。
小野瀬さんの話では、諏訪野の両親は互いに愛人がいて、高校生の頃には既に、母親は家を出てしまっていたと聞いている。
ではここが、その母親が、愛人と暮らしていた家なのだろうか。
翼
「あの、今夜、お母様は……?」
諏訪野
「いないよ」
諏訪野は楕円形の白いテーブルの上に、提げてきた私の荷物を下ろした。
諏訪野
「俺の母は、もう、ここにはいない」
初めて聞く、氷のような声だった。
きっと、私は今、悪い事を聞いてしまったのに違いない。
そう思い、謝ろうと唇を開いた私を制して、諏訪野が私を手招きした。
諏訪野
「二階に上がるよ。ついて来て」
その表情も口調も、もう、元通りの穏やかな諏訪野だ。
私はほっとしながら、諏訪野が置いた荷物をそのままに、彼について階段を上がって行った。
一階も広かったけど、二階も広い。
いくつかの扉の前を素通りし、一番奥の部屋に着いた諏訪野は、ドアノブに手をかけると、
……ノックをした。
翼
「えっ?」
諏訪野は、さっき、ここは母親が住んでいた家だ、と言った。
今はもういない、とも。
だから誰もいないと思い込んでいた私は、諏訪野の行動に戦慄した。
戸惑う私をそのままに、諏訪野は、向こうからの返事を待たず、扉を開ける。
諏訪野
「こんばんは」
同時に、さっき感じた得体の知れない香りが、一気に強くなった。
翼
「……!……」
けれど、それよりも私を驚かせたのは、室内の中央で眠るようにして揺り椅子に揺られていた、長い黒髪の美しい女性の姿だった。