瀕死の白鳥
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~小野瀬vision~
まもなく日付が変わる。
明智くんの運転で鎌倉の駅前交番に着いて、穂積はすぐさま、藤守くんと如月くんを呼び寄せた。
そして、彼らに集めさせておいた、鎌倉近辺のタクシー会社の配車表を手にすると、交番の応接机を借りて、凄い勢いでその内容を調べ始める。
各社が所有するそれぞれの営業車が、営業所を何時に出て、何時にどこで客を拾い、どこまで行って何時に戻ってきたか。
あるいは何時間営業所で待機していたか、駅の前や街の中で客を待っていたか、それとも、繁華街で客を探しながら走り回っていたのか。
時刻と場所、走行距離や無線の発着信。数字の並ぶ膨大なデータを精査する穂積の表情は真剣だ。
正直、この時点で穂積がなぜここまで鎌倉にこだわるのか、俺には分からない。
普通に考えれば、連絡の途絶えた長谷か、諏訪野の自宅がある藤沢の周辺を探す方が効率がいいように思える。
だが、穂積が、諏訪野と翼が鎌倉にいると推測している事は、疑いようが無かった。
穂積は、自分が配車表を見ている間、残った俺たち四人に交番の奥にある休憩室で仮眠をとるように言ってくれたが、そう言われたからといって、明智くんたちが、はいそうですかと頷くはずがない。
明智
「室長が働いているのに、自分たちが休むわけにはいきません。お手伝いしますから、命令して下さい」
穂積
「資料を集めてくれた藤守と如月には悪いけど、これは、無駄骨になるかもしれない作業よ。だから、ワタシ一人でじゅうぶん」
アンタたちには、また明日存分に働いてもらうわ。穂積にそう諭され、明智くんたちは、渋々、仮眠室に向かった。
だが、俺だけは、応接机で配車表を繰る穂積の傍らに座って、穂積の作業の成り行きを見つめていた。
翼の事が心配で、眠れるわけがない。
諏訪野と翼が、同じ場所で、おそらくは同じ部屋で、今、この夜を過ごしている。
俺にとって、それを考える事は、耐えがたい苦痛だった。
穂積
「てめえが、女とみればとりあえず試したくなるからだろ?だから心配になるんだ」
小野瀬
「うるさい」
穂積にせせら笑われて、言い返す声もつい尖ってしまう。
穂積は俺の反論にも唇の端を少し吊り上げただけで、目線を配車表から離さないまま、ぽつりと呟いた。
穂積
「……櫻井は大丈夫だ」
小野瀬
「え?」
他に誰もいない室内に、穂積がページを捲る音だけが響く。
穂積
「櫻井は大丈夫だ。少なくとも、今夜は」
穂積は、同じ言葉を繰り返した。
小野瀬
「……」
こいつに言われると本当に大丈夫な気がして来るから不思議だが、いったい、何を根拠に大丈夫だと言うのか、分からない。
小野瀬
「どうして、そう言い切れる?」
俺は神奈川に来て馬鹿になってしまったんだろうか。
何も見えず、何も考えられなくなっている気がする。
穂積には、俺の胸のうちなど、全部お見通しだというのに。
穂積
「信じてやれよ」
数字の羅列を辛抱強く追いながら、穂積の指先が紙の上を滑る。
穂積
「諏訪野の事も、櫻井の事もだ」
どういう意味だろう、と思った。
諏訪野が、薬師寺を介して、神奈川近郊で百人以上にマリファナを売り捌いていた売人だという事は、他ならぬ穂積本人が教えてくれた事じゃないか。
そして、その諏訪野は翼を俺の元から連れ出し、彼女が刑事だと知った上で、さらにどこかへ連れていこうとしている。
信じたいのは当然だ。
だが、もう十年以上も前に会わなくなったきりなのに、まだ友達だと言えるだろうか?
高校を出て以来、俺の方から連絡を絶ったのに、今でも友達だと思ってくれているだろうか?
しかも、あの時、電話口で諏訪野は言った。
「彼女が知りたいと言った」、と。
翼が知りたいと言ったもの。
それは、大麻の製造現場じゃないのか。
あるいは、暴力団との繋がりじゃないのか。
もしかしたら、彼女は、「諏訪野自身の事を、もっと知りたい」と言ったんじゃないのか……?
諏訪野は魅力的な男だ。
考えれば考えるほど、俺の不安は大きくなる。
穂積はどうして平気なんだ?
お前だって、本当は彼女の事を……
聞き返そうとしたその時、穂積の指先が、紙の上の一点で止まった。
穂積
「小野瀬、これ、どう思う」
小野瀬
「え?」
穂積が、配車表を俺に向けた。
穂積
「ここだ。……午後十時半過ぎ、ホテルの前で待機していたタクシーが三台、営業所からの指示の無い状態で発進し、約三十分後にまたホテルに戻っている。その間、何もしていない」
俺は、穂積の指し示す数字を読み、穂積の言葉の意味を考えてみた。
小野瀬
「……まず考えられるのは、ホテルに宿泊中の団体客が外出した、って可能性だけど。この、三台のタクシーが、ホテルに常駐するような専属契約になっていれば、いちいち営業所を通さずに動いた事もあり得る」
穂積
「確かにな。だが、どこへ行く?」
穂積は傍らのパソコンを開いて、問題のホテルのホームページを表示させた。
穂積
「お前なら、一泊の料金が最低でも三万円を超えるホテルに泊まって、夜、近所の居酒屋に繰り出すか?」
小野瀬
「……」
穂積は再び、配車表を見つめた。
穂積
「今夜、このホテルの近くで夜間のイベントは無い。料金メーターも動いてない。つまり、このタクシーは、空車で移動したんだ。だが、何の為に?」
穂積の目が、答えを促すように俺を見つめた。
小野瀬
「……そうか」
ようやく俺にも、少しずつ、状況が見えてきた。
小野瀬
「誰かを乗せるためではなかったとしたら……この時、タクシーがホテルの前にいては都合の悪い事態が起きていた、って事……か」
そして、それが、彼女に関わる事態だったとしたら……。
小野瀬
「たとえば、何らかの理由で櫻井さんが諏訪野から離れ、単独行動が可能になった。彼女は当然、逃げようとする……」
諏訪野に連れ去られた時、翼は、手にしていた携帯以外、財布も、バッグも、コートすらも持っていなかったはずだ。
だが、タクシーなら、たとえ所持金が無くても、俺のいたオーベルジュまで戻って来れば、そこで精算する事が出来る。
しかし……
小野瀬
「その時、ホテルの前に待機していたはずのタクシーはいなかった。……そして、新たにタクシーを呼んだ形跡も無い」
穂積
「そう。結論から言うと、櫻井は逃げられなかった事になる」
穂積は目頭を揉みながら、小さく息を吐いた。
小野瀬
「じゃあ……」
俺は、パソコンの画面を見つめた。
『鎌倉リーガルホテル』。
風格のある外観と近代的な設備を整えた、鎌倉でも一、二を争う老舗ホテルだ。
小野瀬
「諏訪野と櫻井さんは、まだ、このホテルに?」
穂積
「あくまでも推測だ」
そう言うと、穂積は腕時計を見た。
穂積
「リーガルホテルへは、俺と明智で確認しに行って来る」
穂積が立ち上がりかけたので、俺も急いで立ち上がった。
小野瀬
「俺も行く」
穂積
「言ったろ。無駄骨になる作業かもしれないって。あの二人が鎌倉にいると思う事自体、俺の勘に過ぎないんだから」
穂積は俺を振り返って、苦笑いした。
穂積
「ドイツ料理も空振りだっただろ?」
そう言ってコートを手にした穂積に、俺は、ずっと気になっていた事を聞いてみた。
小野瀬
「穂積……どうして、鎌倉なんだ?」
穂積
「……」
明智くんの車の鍵を手にした穂積が、俺から視線を外した。
小野瀬
「お前にはどうして、諏訪野の行動が読めるんだ?」
穂積
「読めねえから苦労してるんだろうが」
小野瀬
「ごまかすなよ。お前は、俺に、諏訪野を信じろって言った。だったら、お前は、どうして、諏訪野を信じられるんだよ?」
気付かないうちに、声が高くなっていたのかもしれない。
穂積の背後の通路から、明智くんと藤守くんがそろりと顔を出した。
起きてきた二人の気配に気付いたらしく、穂積は、逆に声を低くする。
穂積
「……分かるだろ」
小野瀬
「分からないよ。教えてくれよ」
穂積
「お前こそごまかすなよ」
食い下がる俺に、穂積も、徐々に苛立ちを見せて言い返してきた。
穂積
「そんな事、聞くまでもない事だろう……」
小野瀬
「穂積の口から聞きたいんだよ!」
俺はほとんど怒鳴っていた。
穂積だけじゃなく、明智くんと藤守くんも見ているが、構うものか。
俺は穂積のコートを掴んで、詰め寄った。
小野瀬
「どうして、会った事も無いのに、穂積には諏訪野の気持ちが分かるんだよ?!」
穂積
「俺は」
穂積の、ぎりっ、という歯軋りの音が聞こえたような気がした。
穂積
「……諏訪野は、お前の、親友だろうが!」
俺の腕を振り払って、叫んだ穂積の頬が赤い。
穂積
「鎌倉は、お前が住んでた場所じゃないのかよ!」
だから、と、穂積が吐息とともに声を吐き出した。
穂積
「俺が諏訪野だったら、櫻井を連れ出した後は、ちゃんとした飯を食わせて、服も小物も不自由なく揃えて、そして、必ず、鎌倉へ連れて来るはずだ!」
小野瀬
「じゃあ……、櫻井さんと、同じ部屋で一晩過ごしても大丈夫だ、って言ったのも……?」
穂積
「お前の女だ!」
穂積が怒鳴った。
穂積
「お前の女に、指一本触れるわけねえだろうが!」
穂積の降りおろした拳が、傍らのスチール机の上に叩きつけられて凄まじい音を立てた。
穂積
「…………畜生!」
穂積が大きく息を吸い込む。
穂積
「これで満足か、馬鹿野郎!」
小野瀬
「穂積……」
俺の視界の中で、穂積がぼやけた。
その時。
ピイイイィッ、という耳障りな音を立てて、俺たち全員のP-phoneが着信を告げた。