瀕死の白鳥
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~翼vision~
室内に入った瞬間、窓際に置かれていた背の高い植物を見て、私はどきりとした。
翼
「…………」
鉢植えを見つめたまま足が止まった私に、けれど、諏訪野は微笑んでみせた。
諏訪野
「よく勉強してるね。でも、違うよ」
言いながら近付いて、切り込みの入った葉っぱを手で弄ぶ。
諏訪野
「まだ小さいけど、これは洋麻。ケナフ、って聞いたこと無いかな。小学校の授業でも植えたりする。安全な植物だよ」
大麻ではないと言われて、私はようやく、おずおずと鉢植えと、その傍らに立つ諏訪野に歩み寄った。
……諏訪野は不思議な人物だ。
さっきまであんなに怖かったのに、体温を感じるほど傍にいて、話をしていると、だんだん落ち着いてくる。
どうしてだろうかと考えて、私は、彼が、その思惑は別として、常に真摯に私に接してくれているからではないかと気付いた。
だから、離れているほど怖く、分からなくなる。
それとも、逃げられないと覚悟を決めたから、なおさら、見える場所に相手がいてくれる事に安堵するのだろうか。
こんな風に感じる事自体、私は既に彼の罠に嵌まってしまっているのかもしれないけれど。
どちらにしても、少なくとも、今の私は、さっきまでよりはずっと、落ち着きを取り戻していた。
諏訪野
「油断しちゃ駄目だよ。棘があるから」
諏訪野の声に、私はハッとした。
考え事をしながら、知らず知らず目の前の植物に手を伸ばしていたらしい。
慌てて手を引っ込めたら、諏訪野が、ふふ、と笑った。
諏訪野
「本当に可愛いお嬢さんだ」
諏訪野の笑顔を見て、洋麻の茎にある棘を見ながら、私は、思い浮かんだ疑問を、そのまま言葉にしてみた。
翼
「……諏訪野さんはどうして、大麻を育てているんですか?」
見上げた私に真顔のまま、諏訪野は数回の瞬きだけを返した。
それから一拍置いて、ふ、と笑う。
諏訪野
「麻は成長が早い。毎日伸びていくのを見るのは楽しいよ」
これは認めた事になるのか、ならないのか……。
翼
「ご自身はマリファナを吸ってないですよね?」
諏訪野はゆったりとした動きで窓際から離れると私にソファーを勧め、自分は、ローテーブルを挟んで向かい合うソファーに腰を下ろした。
翼
「私、付け焼き刃の知識しか無いですけど、常習者からは独特の強い匂いがすると聞いてます。諏訪野さんにはそれがありません」
諏訪野
「だろうね。俺はやらないから」
背筋を伸ばし、身を乗り出した私に、諏訪野は平然と答えた。
翼
「……失礼ですけど、お金に困ってらっしゃるようには見えません。それなのに、なぜ、薬師寺にマリファナを売ったんですか?」
私は、思い切って聞いてみた。
怒り出すか、笑い飛ばすか。
どちらにしても、マリファナと薬師寺の名前を出せば、何らかの感情を表すだろうと思っていた私の予想は、空振りに終わった。
諏訪野は、ほんの少し首を傾げただけだったのだ。
諏訪野
「俺は、マリファナを売った事は無い」
翼
「えっ?!」
驚いてしまったのは、私の方だった。
諏訪野
「本当だよ」
私は混乱した。
私は、薬師寺とは直接会っていない。
でも、薬師寺を取り調べ、諏訪野という人物からマリファナを買った、という供述を引き出したのは、室長と明智さんだ。
あの二人が取り調べたのだからと、私は、今まで薬師寺の供述を疑った事は無かった。
諏訪野
「信じてもらえないかな」
諏訪野は戸惑いを隠せない私を見て小さく溜め息をつくと、悲しそうな顔をして、ソファーに背中を預けた。
翼
「ごめんなさい、あの……」
目を閉じてしまった諏訪野に、かける言葉を探していると。
諏訪野
「……ねえ、小野瀬の写真を見せてあげようか」
それは、思いがけない言葉だった。
諏訪野
「高校の頃の」
翼
「み、見たいです」
小野瀬さんは、ほとんど昔の写真を見せてくれた事が無い。
最初はあまり見せたくない、次には、ほとんど実家に置いてきてしまったから、大学以降の写真しか無いという理由で。
私が見たいと言うと、諏訪野はソファーから立ち上がって、部屋に備え付けられている、豪華なキャビネットの引き出しを開けた。
諏訪野
「と言っても、たくさんは無いよ。俺も小野瀬も、それほど写真が好きじゃないし」
戻って来た諏訪野が私に差し出したのは、白い洋封筒。
開いた中には数枚の写真が入っていて、引き出してみると、そこには、眩しいような美少年が二人、並んで写っていた。
翼
「……うわあ」
場所は、体育館のロビーだろうか。
紺色の剣道着姿で、控え目にトロフィーを掲げている小野瀬さんは、前に本人も言っていた通り、今よりも髪が短い。
綺麗だけれども仕事やつれしている今と違って、当たり前だけど若いし、顔立ちも幼い。
それに、いつも浮かべているあの笑みが無いだけでも、ずいぶん雰囲気が違う。
写真の中の小野瀬さんは、表彰されたばかりのはずなのに、何故か怒っているようにさえ見えた。
十年以上前だから、諏訪野も、もちろん今より若い。
けれど、端正な美貌は既に完成していて、小野瀬さんの隣にいても全く見劣りしない。
髪も肌も真っ白で、白い剣道着を着た諏訪野。
竹刀を持つ彼の足元に置かれたトロフィーは、小野瀬さんのものよりも大きかった。
翼
「県大会の時ですね。諏訪野さんが優勝した。話には聞いたことがあります」
写真とはいえ、久し振りに小野瀬さんの姿を見て、私は、つい弾んだ声を出してしまった。
諏訪野は、そんな私に目を細める。
諏訪野
「小野瀬とは僅差だったんだよ」
翼
「それはご謙遜です。小野瀬さんは、当時の諏訪野さんは全国でも一、二を争う剣士だったって言ってましたから」
諏訪野
「じゃあ、『神奈川県大会の決勝の相手が一番手強かった』と言っておく」
翼
「うふふ」
私が笑うと、諏訪野も微笑んだ。
諏訪野
「良かった、笑ってくれて」
穏やかな笑顔を向けられて、私はどきりとした。
慌てて手元に視線を戻し、今の写真を一番奥に送って、次に手前に来た写真を見る。
翼
「……!……」
そのまま、私は固まってしまった。
それは、写真のフレームに収まりきらないほどの人数の、いわゆる「ヤンキー」な人たちの集合写真だった。
様々に意匠を凝らした派手な服装の人たちが、幾重にも並んで、思い思いのポーズを決めている。
その手前で、白い「特攻服」を着た小野瀬さんが、振り向きかけたのだろうか、半身になってこちらを睨んでいた。
翼
「もしかして……この人たちが、小野瀬さんの『舎弟』ですか?」
人数が多すぎて個々の顔を見分けるのは難しいけれど、私はその中に、長谷で見かけた人たちの面影を見出だしていた。
諏訪野
「全盛期には千人近くいたんじゃないかな」
諏訪野は事も無げに言ったけれど、「俺が立っていろと言えばいつまででも立っている」人が千人いる、って、凄い事じゃないだろうか。
でも、この写真……。
これは、きっと小野瀬さんが私に見せようとして見せられずにいた、過去の小野瀬さんの姿の一端。
いくら諏訪野が見せてくれたからといって、小野瀬さんが隠しているものを勝手に暴いてしまったような気がして、私の胸はざわめいた。
諏訪野
「小野瀬なら絶対に見せない写真だろうね」
考えていた事をそっくり見抜かれて、私は反射的に諏訪野の顔を見た。
諏訪野は静かに話し出す。
諏訪野
「でも、きみは、ありのままの小野瀬を全て受け入れようとしている。その気持ちは、こんな写真では揺るがないはずだ」
そこまで言って、諏訪野は、私の顔をじっと見つめた。
諏訪野
「それなのに、小野瀬はその事を理解してくれない。違う?」
私は息を飲んだ。
神奈川に来る前から、私が感じていた小野瀬さんとの距離。
今、諏訪野が指摘したのは、まさにそれだった。
翼
「どうして……そんなこと……」
諏訪野
「きみが俺について来たのが証拠じゃないかな」
諏訪野は膝の上に肘を乗せるようにして私の方に前傾になり、両手を組んだ。
諏訪野
「……でも、分かってやってほしい。俺の知る限り、あいつは本気で女を好きになった事が無い。質の悪い事に、相手もそうだと思い込んでいる。だから、きみに出会って、愛されていると知って、戸惑っているんだ」
翼
「……」
私は、自分の手の中にある、ちょっと怒っているような小野瀬さんの顔を見つめ直した。
諏訪野
「俺がその写真を選んだのは、それが、小野瀬の本当の顔だからだよ」
諏訪野の静かな声が耳に入ってくる。
諏訪野
「大人になって、綺麗な仮面を被る事を覚えたかもしれない。でも、本質は変わらないはずだ。子供のように意地っ張りで、嫉妬深くて、寂しがりやで」
私が顔を上げると、同じ写真を見つめていた諏訪野も顔を上げて、「素直じゃない」と付け足してから、微笑んだ。
思わず私もくすりと笑ってしまう。
諏訪野
「きみは今のままでいい。小野瀬は面倒臭いやつだけど、頼むよ」
翼
「……はい」
諏訪野にハンカチを差し出されて、私は、自分が涙ぐんでいる事に気付いた。
翼
「あっ……」
大切な思い出を涙で汚してはいけないと思い、私は、急いで、持っていた写真を封筒に戻した。
翼
「すみません。これ、ありがとうございました」
見せてくれたお礼を言って返そうとすると、諏訪野は、私が差し出した封筒を、そっと押し返してきた。
諏訪野
「きみにあげる」
翼
「え、でも、大切な写真なのに」
諏訪野は写真が好きじゃないと言った。
だとしたら、これは焼き増ししたものじゃないだろう。
諏訪野は頷いた。
諏訪野
「大切なものだよ。だから、きみに、あげる」
翼
「……」
その声に、その眼差しに、私は思った。
麻薬の売人である諏訪野の企みは分からない。
でも、今、目の前にいる、小野瀬さんの親友としての諏訪野を、私は信じられる。
私が小野瀬さんと出会った事に意味があるように、諏訪野と私が出会った事にも、きっと、意味があるに違いない、と。