瀕死の白鳥
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諏訪野が去ってから、およそ十分ほどの時間が経った。
彼はもう部屋に入っただろうか……。
私は、コンシェルジュの女性が代わる代わる差し出してくれる服の中から急いで三着を選び、試着を切り上げた。
逃げるなら今しかない。
知りたい事を教えてくれる、という諏訪野の言葉を信じて、ここまで付いて来た。
諏訪野は、私が警察官で、自分の事を調べに来たと聞かされても、親友である小野瀬さんの恋人として、丁重に扱ってくれた。
信じられると思った。
でも。
あの時……諏訪野に名前を呼ばれた時、私の脳裏には突然、室長の声が蘇ったのだ。
本気で用心しろ。
正直に言って、今の私には、諏訪野の何が危険なのか分からない。
どうして逃げなければいけないと思うのか、分からない。
でも、私が室長の言葉を思い出したのには、きっと意味があるはず。
だから、とにかく逃げなければ。
小野瀬さんがいる場所に、戻らなければ。
でも、どうやって……靴を履きながら忙しく考えていると、有り難い事に、彼女の方から水を向けてくれた。
コンシェルジュ
「お疲れになりましたでしょう?お手洗いは大丈夫ですか?」
……お手洗い。
私は、頭の中で反芻した。
そうだ、女性用のお手洗いなら、諏訪野も入っては来られないはず。
そこで携帯電話を使って、小野瀬さんに迎えに来てもらおう。
ここがどこか私には分からないけど、ドイツ料理店と、そこからかかった時間を教えれば、土地勘のある小野瀬さんなら、きっと分かってくれる。
こんな立派なホテルなんだもの……
そこまで考えて、私はハッとした。
携帯電話!
急いでポケットを探ってみるけれど、あるのはやっぱり、ハンカチとティッシュだけ。
混乱する頭で、どこへ置いたか思い出そうとして、血の気が引いた。
私の携帯電話は、諏訪野が持っている!
コンシェルジュ
「どうかなさいましたか?ご気分でも?」
翼
「いえ……」
落ち着いて、落ち着いて。
私は鼓動の速くなる胸を押さえた。
翼
「気分……、そう、そうなんです。急に、気分が悪くなってしまって」
咄嗟に、とはいえ我ながら下手な演技だと思ったけれど、コンシェルジュの女性は、心配そうに、私の背中を擦ってくれた。
コンシェルジュ
「申し訳ありません。きっと、私がご無理をさせてしまったんですね。すぐ、諏訪野様のお部屋までお送りします。そこへ医師を手配致しますので……」
どくん、と心臓が跳ねた。
翼
「あの、諏訪野さんには申し訳ないんですけど、もう、帰りたいんです。タクシー乗り場を教えてください」
コンシェルジュ
「タクシー乗り場は玄関前にございます。でも、そんな状態のお客様を、お一人でタクシーにお乗せするわけには参りません」
翼
「大丈夫ですから」
私たちの言い合いに気付いたのか、フロントの方から、新たに別の従業員が来る気配がする。
騒ぎになるのは逆効果だ。
ここでいつまでも押し問答をしていたら、諏訪野まで戻って来てしまうかもしれない。
翼
「お願いします。タクシーに乗せて下さい」
タクシーに乗ってしまえば、小野瀬さんと泊まる予定だったあのオーベルジュへ戻れる。
今ならまだ、戻れる。
男性
「フロントマネージャーでございます。どうかなさいましたか」
フロントから来た、年配の男性従業員が、私の前に屈んで尋ねてくれる。
コンシェルジュ
「諏訪野様のお連れのお客様なのですが、ご気分がすぐれなくなってしまったので、お帰りになりたいとおっしゃって。今、タクシーは待機していますか?」
フロントマネージャーはすぐに事態を把握したらしく、キビキビ指示を出し始めた。
フロントマネージャー
「とにかく、きみはすぐに諏訪野様に、お連れ様のご容態をお伝えして。お客様は、どうぞこちらへ」
フロントマネージャーが私をロビーの椅子に案内してくれる一方で、コンシェルジュの女性は、はい、と頷いて立ち上がり、諏訪野に連絡する為にだろう、私の元を離れた。
やめて、諏訪野を呼ばないで。
フロントマネージャー
「お客様、実は、あいにくですが、先ほど、別の団体のお客様がお出掛けになったばかりで、タクシーは出払ってしまっております」
私はまた、フロントマネージャーの男性を振り返った。
言葉通り、彼の手の示す先に見えるロータリーはひっそりとしていた。
さっき、ショップに行く為にロビーを横切った時には、確かにそこには数台のタクシーが停まっていたのに。
翼
「では、他から呼んで頂けませんか?」
フロントマネージャー
「もちろん呼べますとも。ですが、お急ぎなら当館の車でお送りしましょうか?近くの営業所からタクシーを呼ぶより、その方が早いですから」
それは望むところだった。
翼
「お願いします!」
フロントマネージャー
「かしこまりました」
フロントマネージャーはカウンターの中へ入ると車のキーらしいものを取り出し、近くにいた別の男性従業員に何か声を掛けて、連れて来た。
フロントマネージャー
「この者の後に付いて行って下さい」
フロントマネージャーは、私の前で、その従業員に車のキーを手渡した。
キーを渡された若い男性従業員は礼儀正しく私に一礼すると、「こちらへどうぞ」と、先に立って歩き出した。
翼
「ありがとうございます」
私はフロントマネージャーと男性にそれぞれお礼を言って、社用車があるという地下駐車場に向かうエレベータに乗った。
これはさっき、諏訪野と乗ったのと同じエレベータだ。
だから今度は逆のコースを辿って、すぐに駐車場に着くはず。
フロントマネージャーが「お大事に」と頭を下げて見送ってくれたけれど、ホテルのロビーとを遮る扉が閉まった時には、思わず、安堵の息が漏れてしまった。
みんなどうしてるだろう。
室長はきっと怒ってる。
小野瀬さんは……心配してくれてるかな……
みんなに会ったら、迷惑をかけた事を素直に謝ろう。
未熟なくせに、軽率な行動をした私が悪かったんだから……。
間もなくエレベータが停まる気配がして、私は顔を上げた。
男性従業員
「お待たせしました、どうぞ」
エレベータの扉が開いて、男性がそれを手で押さえてくれる。
私はお礼を言ってエレベータを降り、一歩踏み出したところで……息を呑んだ。
明るい。
そこは、予想していた、薄暗い地下駐車場ではなかった。
そして……
諏訪野が立っていた。
翼
「!」
諏訪野
「大丈夫?」
翼
「……!」
送ってくれると言ったはずなのに。
男性従業員を振り返った私の目の前で、私を乗せてきたエレベータの扉が閉まった。
表示されている階は、三階。
首筋がちりりとする。
諏訪野
「体調を崩したと聞いて驚いたよ。部屋はこっちだ。手を貸そうか?」
諏訪野がこちらに手を差し伸べてくれる。
けれど、その手を取る気にはなれない。
翼
「お願いです……帰らせて下さい」
後ずさる私に、諏訪野は悲しそうな顔をした。
いや、もしかしたら、それは、憐れみの表情だったかもしれない。
諏訪野
「逃げられると思ったの?」
私は耳を疑った。
諏訪野
「約束したのに?」
翼
「……あ……」
諏訪野
「きみが知りたいって言ったんだよ?」
私は怖くなって踵を返し、エレベータのボタンを連打した。
けれど、エレベータは一階から上がって来ない。
諏訪野
「故障したみたいだね」
そんなはずはない。
たった今まで動いていたんだから。
私はそれに乗って来たんだから。
翼
「……まさか、あなたが……」
諏訪野
「おいで、馬鹿正直で可愛いお嬢さん。全部教えてあげるから」
微笑んで諏訪野が開いたのは、「ROYAL SUITE」と書かれた洋室の扉。
次に会う人は小野瀬さんだと思っていたのに、この先には私と諏訪野しかいない。
私は絶望を感じながら、諏訪野との夜の扉をくぐる。
部屋の中に、さっきコンシェルジュが選んでくれた服やバッグを入れた紙袋が並べて置かれているのを、私は見た。
自分の運命が、とうにこの相手の手の内にあったのだと、私は思い知らされていた。