瀕死の白鳥
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~翼vision~
翼
「……ここは?」
ドイツ料理店を出た後、再び乗せられた諏訪野の車で夜道を走り、私は、見知らぬ建物の地下駐車場らしき場所に到着していた。
腕時計を確かめれば、車に乗っていた時間は三十分程度。
だから、そんなに遠くまで来たわけではないだろう。
もしかして、藤沢にあるという諏訪野の自宅マンションだろうか。
けれど、すでに時刻は午後九時を過ぎ、辺りは暗く、土地勘の無い私には、ここがどこなのか全く分からない。
地下駐車場に人気は無くひんやりとしていて、暖房の効いていた車を降りるなり、私は白い息を吐いた。
運転席を降りた諏訪野がすかさず近付いて来て、自分のコートを私に羽織らせてくれる。
そのコートは、さっきまで、車内の後部座席に置かれていたものだ。
諏訪野自身の温もりは無かったけれど、カシミヤのロングコートは、ふわりと私を包んで全身を冷気から遮ってくれた。
翼
「……あ、ありがとう」
私は、傍らに立った諏訪野を見上げて、お礼を言った。
こうして並んでみると、諏訪野は小野瀬さんより背が高い。
藤守さん、ううん、室長と同じくらいかも……。
諏訪野
「俺こそ、ごめんね。上着も羽織らせずに連れて来ちゃって」
諏訪野は車をロックすると、私を促して、地下駐車場から出るエレベーターに乗った。
諏訪野
「とりあえず身の回りの物を買おうか」
翼
「買う?」
どういう意味だろう。
もしかして、ここはデパートかショッピングモールの駐車場なのかしら。
諏訪野に聞き直そうとした時、目的の階に到着したらしく、エレベーターの扉が開いた。
翼
「!」
突然目の前に現れたきらびやかな景色に、私は驚きのあまり言葉を失った。
高い天井。
広大な空間を、豪華なシャンデリアが柔らかい橙色の光で満たしている。
壁に飾られた名画、重厚なソファー、足を踏み出すのを躊躇するような美しい絨毯。
そこは、どうみても、一流ホテルのロビーだった。
諏訪野
「お待たせ」
状況が把握出来ずに佇み、辺りを見回していると、いつの間にかフロントの前にいた諏訪野が、私の方に戻って来た。
しかも、きっちりと髪をまとめ、制服らしいスーツを着た女性を伴っている。
女性
「いらっしゃいませ。私、コンシェルジュでございます。ショップはこちらにございます」
翼
「ショップ?」
コンシェルジュ
「はい。ご宿泊に必要な物は、全て取り揃えてございます。どうぞ」
コンシェルジュ、つまり世話係だというその女性は、にっこり笑って、私を、広いロビーの一角にあるブティックに案内してくれた。
センスの良い服や靴の数々や小物、アクセサリーの品揃えは、こんな時なのに私の目と心を惹き付ける。
でも、「ご宿泊」って……
言葉の意味に戸惑って、思わず振り返ったけれど、諏訪野は少し離れた位置から、軽く微笑みを返しただけ。
私がよほど変な顔をしていたのか、目が合うとゆっくり近付いて来て、傍らのマネキンが着ているブラウスの袖を持ち上げた。
諏訪野
「きみならどれも似合うと思うけど……趣味に合わない?」
翼
「いえ、服はどれも素敵です!……そうじゃなくて、ご宿泊、って言われた事が、その」
少し焦って私が言うと、諏訪野はくっと噴き出し、声を立てて笑った。
それから、微笑みを絶やさないコンシェルジュの女性を横目で見ながら、聞こえよがしに小声で言う。
諏訪野
「外の店は、もう、みんな閉まってたよね。ここなら開いてるし、良い品物を扱ってるのを思い出したから来たんだよ。で、ついでにそのまま泊まろうかと思ったんだけど」
コンシェルジュ
「諏訪野様は時々こちらにお越し下さいますが、女性とお泊まりになるとおっしゃったのは初めてですわ」
コンシェルジュの女性も、私をリラックスさせるために機転を利かせたのか、いたずらっぽく付け足した。
それを聞いて諏訪野がまた笑う。
諏訪野
「二人ともお願いだから、俺にこれ以上恥をかかせないで」
苦笑いする諏訪野に笑うコンシェルジュの女性につられて、私も少し笑ってしまった。
すると諏訪野はホッとしたような表情で、私を見つめた。
諏訪野
「でも、どうしてもきみが嫌なら、買い物だけでここを出るよ?」
諏訪野が本当にそう考えている事は、眼差しで分かった。
「小野瀬の大切な人だから」と言った言葉を信じるなら、たとえ一晩一緒に過ごしても大丈夫なはずだ。
それに、少なくとも、ホテルなら従業員や、他のお客さんたちもいる。
諏訪野の自宅で二人きりになるよりは、ここにこのまま泊まる方が安全だという気がした。
諏訪野とホテルに泊まるだなんて、後で小野瀬さんが知ったらどう思うか気掛かりではあったけれど、彼ならきっと私を信じてくれる。
そう思うことにして、私は諏訪野に頷いた。
翼
「ここでいいです」
諏訪野
「良かった」
諏訪野はにっこり笑って、コンシェルジュの女性を振り返った。
諏訪野
「下着からジャケットまで三着ずつ頼むよ。コートとバッグ、靴も合わせて。女性に必要な小物や化粧品も忘れずにね」
コンシェルジュ
「かしこまりました」
コンシェルジュの女性が承知して頷くのを見届けて、諏訪野は私に向き直った。
諏訪野
「俺は先に部屋へ行っているから、ゆっくり選ぶといい。買い物が終わったら、彼女が案内してくれる」
翼
「……あの、せっかくのご厚意ですけど、お食事をご馳走になった上、服まで買って頂くわけにはいきません」
優しく言ってくれる諏訪野に逆らうのは気が引けたけれど、コンシェルジュの女性が服を見繕うために離れた隙に、私は小声で諏訪野に告げた。
翼
「でも、着替えが無いのは困るし……、だから、すみませんけど、下着を買う為のお金だけ貸してもらえせんか?」
諏訪野から笑顔が消え、眼鏡の奥の淡い色の目が、悲しげな色を湛えた。
諏訪野
「犯罪者に借りを作るのは嫌?」
私はどきりとした。
慌てて辺りを見るけれど、コンシェルジュの女性には諏訪野の声が聞こえなかったらしい。
女性は手際よく服を組み合わせ、店の中央にあるテーブルの上に、驚くほど私好みのコーディネートを次々と拵えている。
翼
「……ごめんなさい、そんなつもりじゃ……」
現時点で、諏訪野は私をオーベルジュから連れ出しただけだ。
麻薬取締法に関しては、マリファナを所持していた薬師寺が、『諏訪野という名の人物から買った』と言っただけで、それがここにいる諏訪野と同一人物だとする証拠はまだ無い。
翼
「そうじゃなくて……私は、ただ、初対面の人に、たくさんのお金を使わせるのが申し訳ないと思って……」
諏訪野
「確かにきみとは初対面かもしれないけど、俺は小野瀬の親友だよ。だから……」
そこまで言って、ふと、諏訪野は溜め息をついた。
諏訪野
「……いや、勝手に親近感を持ってしまった事が、きみにはかえって迷惑だったかもしれないな。ごめんね」
……悪い人だと先入観を持っていたから距離を保とうとしてきたけれど、もしかしたら私は、今まで、この人にとても失礼な態度をとってきたのではないだろうか。
本当に、ただ親切にしてくれていたのだとしたら、どれほど傷付けてしまったか知れない。
そう思うと、私は急速に、諏訪野に対して罪悪感を抱いてしまった。
翼
「……あの……ごめんなさい。やっぱり、お言葉に甘えます」
私が言うと、諏訪野の表情が明るくなった。
諏訪野
「ありがとう。……俺の気持ちを押し付けちゃってごめん。でも、嬉しいよ」
諏訪野は、本当に、嬉しそうな顔をした。
これが演技だったら、私はこの先、何を信じていいのか分からない。
諏訪野を見つめていると、コーディネートが完成したのか、コンシェルジュの女性が戻ってきた。
コンシェルジュ
「お待たせしました。とりあえず、雰囲気を変えて五着ほど、組み合わせの案を考えてみました。どうぞこちらへ」
翼
「あ……、はい」
女性に促されて試着室に向かおうとしたのを機に、諏訪野が私から離れた。
諏訪野
「櫻井さんの変身を見るのは、明日のお楽しみにさせてもらうよ。ゆっくり試着して、好きなのを選ぶといい」
翼
「はい」
諏訪野は私の返事を確かめると、満足そうに頷いてから、コンシェルジュの女性に囁いた。
諏訪野
「彼女をよろしく」
コンシェルジュ
「かしこまりました」
諏訪野
「じゃ、また後でね」
翼
「はい」
試着室のカーテンで店内と遮られた時、なんとなく不安がよぎったような気がしたものの、諏訪野が逃げるかもしれない、とは、私はもう思わなかった。
けれど、鏡の前でひとり、勧められた素敵な服に袖を通した瞬間、その不安は突然、現実になって私を襲った。
(……私は、いつ、諏訪野に名前を教えた?)
小野瀬さんから電話がかかってきた時、小野瀬さんは受話器の向こうで「翼」と叫んだ。
諏訪野はそれを聞いたかもしれない。
でも名字は?
教えていない。
でもさっき、諏訪野は間違いなく私の名字を呼んだ。
どうして?
どうして、諏訪野が私の名前を知っているの?
……まさか。
私は背中から冷水を浴びたように、身体が震えだすのを感じていた。