～小野瀬vision～



小野瀬
「また切られた！」

　何度試みても再び繋がる気配の無い携帯に業を煮やし、俺は、握り締めたそれを床に叩きつけそうになっていた。

藤守
「わあっ！小野瀬さん、落ち着いてください！」

　屈辱的なセリフだった。

　腕を掴んで止めてくれたのが藤守くんでなければ、俺はさらに逆上していただろう。

　たった今電話で聞いたばかりの諏訪野と翼の言葉は、それほど俺を混乱させていた。


　警察官だと諏訪野に明かした？

　翼が知りたがっている事を教える？

　可愛いお嬢さんだね。

　一緒に行くって。

　心配しないでください。

　警告したよ。


　……考えれば考えるほど、考えがまとまらない。

　翼が、今、俺ではない男と一緒にいる。

　そう思うだけで。

　その行動は、翼自身の意思によるものだ。

　そう言われただけで。

　もう、俺の思考は、鑑識の作業をしている時のように冷静には働かない。

小野瀬
「どういうつもりだ！」

　翼も。

　諏訪野も。

　苛立ちばかりが募って、ついに声が出てしまった。

藤守
「小野瀬さん、とにかく、落ち着きましょ。ねっ。今は、小笠原からの連絡を待ちましょ」

　冷静にならなければいけないのは分かってる。

　穂積が、捜査室のみんなが、全力で諏訪野と翼を探してくれているという事も。

　今の俺に出来るのは、ただ待つだけだという事も。

小野瀬
「でも、こうしている間にも、彼女は……！」

　言い合っているそばから、今度は、藤守くんの携帯が着信した。

藤守
「あっ！ほら！小笠原から電話ですよ！きっと、櫻井の居場所が分かったんや！」

　小笠原くんは、確か、穂積に命じられ、俺と藤守くんに先んじて、如月くんと二人で翼の行方を追っていたはず。

　そして、さっき翼が電話してきた時、短い時間ではあったものの、彼女の携帯からは位置情報を含む電波が発信されたはずだ。

　今どこにいるのか知らないが、発信を待ち構えていたであろうネットワーク解析のプロフェッショナルである小笠原くんが、それを見逃すわけがない。

藤守
「小笠原か、どやった？」

　俺はもどかしい思いで、通話に出る藤守くんの携帯に、反対側から耳を近付けた。

　藤守くんが驚いて離れようとするが、俺はさらに近付く。

　間に携帯を挟んではいるものの、俺は藤守くんとほとんど頬をくっつけて、耳を澄ませた。

小笠原
『彼女は鎌倉市内にいる』

　小笠原くんの声には、おそらく彼らが走らせている車のものだろう、緊急走行用のサイレンの音が混じっていた。

　こんな精神状態の時には聞きたくない、ひやりとする音だ。

　俺は思わず身を強張らせた。

藤守
「具体的な位置は掴めたんか？」

　おそらく無意識にだろうが、相手の声の聞き取り辛さに、藤守くんの声も大きくなる。

藤守
「すぐに行くで。どこや？！」

小野瀬
「諏訪野は車だ。ぐずぐずしてたら逃げられてしまう！」

　思わず横から口を挟んでしまったけれど、小笠原くんは冷静だった。

小笠原
『長谷だよ』

小野瀬
「長谷？」

　俺の脳裏に、今日の昼間歩いたばかりの街並みが浮かんだ。

小笠原
『彼女の携帯電話の電源は小野瀬さんのいるオーベルジュで一旦切れ、数十分後、つまり約七分前、長谷で再び電波を発信している』

　諏訪野の住所は藤沢だが、ずっと地元で暮らしていて、湘南一帯は庭のようなものだ。

　もちろん鎌倉市内にも詳しかった。

　株で成功した諏訪野が、長谷にも拠点を持っていたとしても、何もおかしくない。

　俺とのように互いに寝泊まりしていた友人の家もたくさんあるし、馴染みの店も多い。

　さらに学校の同級生や先輩後輩、剣道の仲間、暴走族時代の舎弟までを加えたら、諏訪野の知人はどれほどの数になるのか。

　あれから十年以上経つ。

　諏訪野の人脈は、おそらく俺の想像を超える数になっているはずだった。

　だが、さっき諏訪野は「行く」という言葉を使った。

　つまり、まだ、諏訪野と翼の二人は、諏訪野の言う目的地には着いていない。


　着いてからでは間に合わない。


如月
『長谷に入ります』

小野瀬
「えっ？！」

　考え事をしているうちに、小笠原くんの声の後ろで聞こえていたサイレンの音が消え、同時に、電話の声が如月くんに替わった。

藤守
「思ったより早かったな」

如月
『警視庁からずっとサイレン鳴らして車を飛ばして来ましたからね。携帯の電波を受信した地域内に入りましたから、ここからは対象範囲を絞り込んで、直接の聞き込みを開始します』

　如月くんが淡々と報告を続けるのを聞きながら、俺は、徐々に頭が冷えてくるのを感じた。

　さっき俺が穂積と電話で話した時、彼らはまだ捜査室にいたはずだ。

　いくら捜査車両で緊急走行して来たと言っても、直行しなければ、到底、これだけの時間で長谷に着く事は出来ない。

小野瀬
「……ちょっと待って。きみたち、最初から彼女が長谷にいるって知ってたの？」

如月
『長谷にドイツ料理店があるんですよ』

小野瀬
「…………ドイツ料理店？」

如月
『はい。諏訪野が翼ちゃんに食事をさせるなら、オーベルジュで食べ損ねたドイツ料理じゃないかって、室長が』

小野瀬
「穂積が……」

　それは、薬物の売人に誘拐された刑事を探す発想ではなかった。



　穂積は今回、諏訪野が俺の友人だと推測した上で、俺に、翼との神奈川行きを打診してきた。

　翼にはその理由を教えずにいたけど、穂積は、いつまでも過去にこだわってぐずぐずしている俺に、翼に全てを打ち明ける機会を作ってくれたのだと思う。

　実際、一緒にいる間に、その機会は何度もあった。

　それなのに結局、俺には、彼女に自分の荒れてた過去や、乱れてた生活の全てをさらけ出す事が出来なかった。

　付き合い始めてから今まで、彼女が俺を理解してくれようとしてずっと苦しんでいるのを知っていながら。

　今でも俺の中にある暴力的な部分。

　あの頃、諏訪野が垣間見せた狂気。

　穂積が話した白鳥と悲鳴の比喩の意味。

　少しでも話して聞かせてやっていたら、聡明な彼女なら、もっと警戒したはずだ。

　俺は、その努力を怠った。

　彼女に嫌われたくなかった。

　その結果が、これだ。

　彼女は迷ったあげく、答えを出してくれそうな諏訪野と行く事を選んだ。

　自分の身を危険にさらしてまで。

　勝手な行動はするなと何度も言った、穂積の命令に逆らってまで。

　……俺の為に。

小野瀬
「翼……」

　ダメだ、また落ち込んできた。

藤守
「小野瀬さん、もうすぐ着きますよ」

　助手席で自己嫌悪の迷宮に入り込んでいた俺の耳に、運転席から藤守くんの声が届いた。




　着いたのは長谷の街。

　いつもは賑やかな場所だが、この時間になるとさすがにもうどの店の扉も軒並み閉ざされていて、石畳を照らす街灯だけが明るい。

　その一角に停められた車の傍らに、小笠原くんと如月くんが立っていた。

　藤守くんと俺の乗った車をドイツ料理店の駐車場に誘導してから、如月くんが駆け寄って来る。

如月
「小野瀬さん、お疲れ様です……って、うわ。ひどい顔ですよ」

　如月くんが驚くのも無理はない。

　さっきちらりとバックミラーに映った自分の顔を見たけど、目の下にはくっきり隈が出来ているし、顔色は土色。

　今の俺は、ほとんどゾンビみたいな顔をしていた。

　だが、俺の事なんかどうでもいい。

小野瀬
「諏訪野と翼……櫻井さんは？」

　俺は如月くんたちの背後、まだ店内に明かりの残っているドイツ料理店の窓を見ながら聞いた。

　翼をあえて名字で呼んだのは、少しでも冷静になるため。

　いや、自分が冷静だ、と、自分自身に言い聞かせるため、だ。

如月
「それが」

小笠原
「今夜、それらしい男女はここには来ていない、って」

　穂積の勘が外れたという事か。

小野瀬
「……」

　俺はがっかりする一方で、何故か、如月くんと小笠原くんが腑に落ちない表情をしているのに気付いた。

小野瀬
「どうしたの？……残念だけど、ここじゃないなら、急いで他を探そう」

如月
「ええ……でも、何か、引っ掛かるんですよ」

藤守
「何か、てなんや」

　如月くんが、薄暗くなった店内で閉店作業をしているらしい従業員たちの影を目の端に捉えながら、声を潜めた。

如月
「みんな、何かを隠してるような」

小笠原
「そして」

　小笠原くんが続けた。

小笠原
「誰かを庇っているような、ね」