瀕死の白鳥
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ハンカチをしまってお手洗いから出て、見上げた先のベンチに小野瀬さんの姿が無かった。
翼
「?」
どきりとして辺りを見回す。
幸い、小野瀬さんはすぐに見つかった。
少し離れた藤棚の下が日陰になってて、そこに立っていたのだ。
近くには自動販売機がある。
私はホッとして駆け寄ろうとした。
けれど、一歩踏み出しかけたところで、小野瀬さんが一人ではない事に気付いた。
こちらに背を向けている小野瀬さんの向こうに、ニ十代前半くらいの男性が二人、直立不動で立っている。
やがて、小野瀬さんとの短い会話が終わったのか、その男性たちは「ハイ」「失礼します」と返事をし、最敬礼をして走り去って行った。
翼
「……葵……」
私が近付いて行くと、小野瀬さんは悪戯を見つかったような顔で振り返って、苦笑いした。
小野瀬
「ああ、ごめんね。地元の後輩だよ。俺が二人連れで電車を降りたのを見てて、一人になるのを待って声をかけてきてくれたんだってさ」
私は驚いた。
長谷寺に入ってからでも、三十分近く経っている。
それなのに、小野瀬さんに挨拶するためだけに、機会を待っていたなんて。
私が黙り込んだのを見て、小野瀬さんは困ったような顔をした。
小野瀬
「ごめん、翼。覗かれてたみたいで気を悪くした?でも、誓って言うけど、俺たちの話を盗み聞きするような連中じゃないよ」
小野瀬さんの思い違いに気付いて、私は首を横に振った。
翼
「あ、ううん、そうじゃないの。あの人たちが私たちを見ていた事に、私、全然気付かなかった。刑事として、ちょっとショックだったの……それと」
小野瀬
「……それと?」
翼
「葵って、後輩からすごく慕われてるんだな、って思って。だって、あの人たち、邪魔しないように、話が途切れるまで、ずっと待っててくれたんでしょ」
小野瀬
「ああ……」
小野瀬さんは、さっきの二人が消えた方向にちらりと目をやってから、私の背中に手を当てて、促すようにして歩き出した。
そうして、考え考え、言葉を選びながら話し出す。
小野瀬
「……あいつらは、確かに、後輩なんだけど、その……俺の、弟分なんだ」
翼
「おとうとぶん?」
耳慣れない言葉に、私は聞き返した。
小野瀬
「舎弟って言ってね。実の兄弟じゃないけど、俺の事を兄貴と呼んで、俺の命令なら何でも聞く。この場で待ってろと立たせれば、一時間でも丸一日でも黙って立ってる」
私は、さっきの二人が直立不動で小野瀬さんに対峙していた事と、その後、最敬礼で走り去って行った事を思い出していた。
でも、そこから引き出せる答えと、目の前にいる、優雅な小野瀬さんの姿とを結び付けるのは難しくて。
翼
「……ええと……つまり、後輩だから気を遣ったんじゃなくて……、『兄貴』に絶対服従だから、葵の機嫌を損ねないようにしてた……って事?」
小野瀬
「うん、まあ……そういう事」
小野瀬さんは頷いた。
顔にかかる長い髪を何度も掻き上げるのは、少し苛々しているしるし。
小野瀬
「舎弟たちはいつも、俺が地元に帰って来たのを知ると、気を利かせて、ああして御用聞きに来てくれるんだ」
そうだったんだ……何か、すごい上下関係。
でも、小野瀬さんは嬉しそうでも自慢げでもなく、むしろ少し迷惑そうな顔をしている。
小野瀬さんが鎌倉を離れて何年も経つのに、いまだにそんな強い繋がりのある「兄貴」と「舎弟」って、なんだろう。
土地柄なのかな。それとももしかして、昔グレてたって言う事と関係があるのかな。
聞けばきっと教えてくれると思うけど、小野瀬さん、あまり詳しく話したくないみたいだし……。
そんな事を考えながら歩くうち、私たちは、再び、山門まで戻って来た。
その頃には、小野瀬さんの表情も、いつもの穏やかさを取り戻していた。
小野瀬
「少し遅くなったけど、お昼にしよう。鎌倉野菜の創作料理が食べられる店を予約したから」
翼
「うん」
まだ、色々聞いてみたい事はあったけど、私は小野瀬さんの提案に頷いて、差し出された手を握った。
でも、なんだか急に、周りにいる人たちの視線が気になり始めてしまう。
さっきまで、私はそれを、小野瀬さんが抜群に格好いいから注目されているのだと思っていた。
そして、すれ違う女の子たちの私に対する羨望の眼差しも、いつもの事だからと深く気にしないようにしていた。
だけど、ここは小野瀬さんの地元で、私の知らない小野瀬さんを知ってる人たちがいて……。
小野瀬
「あまり意識しなくても大丈夫だよ。もう、姿を見せる事は無いと思うし」
翼
「……うん」
小野瀬さんの手が、私の頭を撫でてくれた。
小野瀬
「ほら、翼、ジェラートのお店があるよ。食後に寄る?それとも、先に食べる?」
気を遣ってくれているのが痛いほど分かるから、私は心配事を頭から押し退けて、笑顔を作った。
翼
「先に食べたいな。えっと、バニラ」
小野瀬
「王道だね」
小野瀬さんは笑いながら、私の為にジェラートショップの自動ドアを開けてくれる。
小野瀬
「どうぞ」
その、綺麗な笑顔を見ながら私は思う。
小野瀬さんは、私に隠し事はしないと言ってくれた。
その言葉を信じよう。
どんな真実を突きつけられても、私の小野瀬さんへの想いは変わらないけれど。
お店の外のベンチで、お互いのジェラートをスプーンで差し出し合う頃には、私はもう、小野瀬さんを「兄貴」と呼ぶ人たちの事を考えないようにしていた。