瀕死の白鳥
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平日の昼間、小野瀬さんと並んで江ノ電に乗っているなんて夢みたい。
通勤時間から外れた車内は比較的空いていて、窓の外では春の訪れを感じさせる海が、静かに煌めきを湛えている。
小野瀬
「鎌倉周辺には東慶寺とか名月院とか、花の名所が多いんだよ。今は桜も紫陽花も時期外れで、ちょっと残念だな。翼に見せてあげたかったのに」
規則的な揺れに身を任せながら、肩越しに見える景色のように穏やかな表情で、小野瀬さんが嬉しい事を言ってくれる。
私は、うん、と頷いてから、でも、と付け加えた。
翼
「ありがとう。でも、おかげで電車が空いてるもん。花もいいけど、葵の顔をゆっくり見ていられる方が、私は嬉しい」
小野瀬
「……翼って、時々、恥ずかしくなるような事を言うよね」
小野瀬さんは少し頬を染めてから、それを隠すように窓の外に視線を移した。
小野瀬
「不思議だな。翼と一緒だと、見慣れた風景なのに輝いて見えるよ」
その眼差しに複雑な想いが込められているように感じて、私は、小野瀬さんの視線を追いながら、彼の手にそっと、自分の手を重ねてみた。
眩しそうに目を細めた小野瀬さんが、私の手を握り返してくれる。
小野瀬
「……こんなに、美しい場所だったんだな、ここは」
電車はずっと海沿いの線路を、時に民家の軒先すれすれを掠めながら、緑の中を走ってゆく。
私は小野瀬さんと二人で見る景色を、繋いだ手の温もりとともに、心に焼きつけていた。
電車を降りたのは、長谷。
てっきり鎌倉まで行くと思っていた私は、ちょっと意外に感じたものの、慣れた様子で無人の改札を抜ける小野瀬さんにくっついて、駅のホームから出た。
私の右手は、電車の中からずっと、小野瀬さんの左手と繋ぎあっている。
その手を、小野瀬さんは、自分の着ているキャメルのミリタリーコートのポケットに入れてくれた。
翼
「あったかい」
小野瀬
「ふふ」
ポケットの中で手を繋いだまま、私たちは、道の両側に炭や鎌倉彫などの老舗も並ぶ、雰囲気のある石畳の歩道をのんびりと歩き始める。
小野瀬
「翼には、俺、高校が鎌倉だったって話をした事があると思うんだけど」
翼
「うん。その頃は髪も短くて、剣道部では県大会で準優勝した事もあるって。……でも、それ以外には、あまり、高校時代の話をしてくれた事は無いかな」
小野瀬さんは苦笑い。
小野瀬
「まあ、翼にだから言うけど、我ながら、自慢できるような高校生活ではなかったから」
成績はともかく素行がね、と付け足す小野瀬さんに、私も思わず笑ってしまった。
翼
「女子マネージャーを侍らせて、試合の時には相手校の女の子を口説いて、そこのヤンキーと喧嘩になって、の繰り返し?」
私は、以前、室長がそう言って小野瀬さんをからかっていたのを思い出して、真似してみた。
小野瀬
「穂積の奴、その頃は鹿児島にいて、俺の高校での生活なんか知らないはずなのになあ」
翼
「当たってるんだ」
小野瀬
「黙秘します」
小野瀬さんと私は、声を立てて笑った。
目を引かれた雑貨やオルゴールの店を冷やかしながらさらに歩いてゆくと、やがて、大きな山門が見えてきた。
小野瀬
「長谷寺だよ」
入口で拝観料を払って、山門をくぐる。
小野瀬さんの言う通りまだ桜には早くて、紫陽花の時期には入場制限されるほどの賑わいを見せるという広い境内にも、人影はまばらだった。
小野瀬
「……高校時代の話に戻るけど、俺が準優勝したその大会で優勝したのが、諏訪野なんだ」
翼
「えっ」
私は驚いて、隣を歩く小野瀬さんを見上げた。
諏訪野。
それは、薬師寺にマリファナを売った人物の名前。
その人物の行動範囲が小野瀬さんの地元だからと言って、室長は私たちを神奈川に派遣した。
でもまさか、諏訪野と小野瀬さんが知り合いだったなんて。
私が戸惑っていると、小野瀬さんは私を誘って、少し高台にある東屋のベンチに腰掛けた。
静かに差し込む穏やかな日の光と繋いだ手のおかげで、寒さはそれほど感じない。
けれど、諏訪野の名を聞いた途端、何となく背中がひやりとしたような気がして、私は一度だけ小さく身体を震わせた。
それに気付いたのか、小野瀬さんがポケットの中で繋いでいた手をほどいて、私の肩を抱いてくれる。
小野瀬
「諏訪野は、藤沢にある進学校の剣道部員でね。当時、神奈川で、いや、関東で、あいつに敵う剣士はいなかった」
小野瀬さんは眼下に広がる鎌倉の景色を見ながら、思い出を手繰るように話し始めた。
小野瀬
「剣道だけじゃなく成績も抜群だったらしいし、すっきり整ったきれいな顔をしていた。薬師寺は諏訪野を『垢抜けた男前』と言ったそうだけど、おそらくその通りだと思うよ」
頭がよくて剣道が強くて、小野瀬さんも認めるほどの美形だったというなら、きっと人気者だったんだろうな。
こんな時に不謹慎だけど、二人の試合、ちょっと見てみたかった気がする……。
小野瀬
「……でも、実は、俺と諏訪野は、剣道を通じて知り合ったんじゃないんだ」
翼
「え?」
剣道の県大会で対戦した、諏訪野と小野瀬さん。
袴姿の二人が、終了後に互いの健闘を称えあう光景を思い描きかけていた私は、慌ててそれを打ち消した。
部活動でないのなら、学校の違う二人が、どこで知り合ったというのだろう。
私は小野瀬さんの横顔を見上げて、話の続きを待った。