瀕死の白鳥
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穂積
「小野瀬」
明智さん、藤守さん、如月さん、小笠原さんと順に帰ってゆき、室内に小野瀬さんと私だけが残ったところで、室長は、小野瀬さんを手招きした。
穂積
「櫻井も、ちょっと座ってちょうだい」
ソファーに向かう二人を見て席を外そうとしていた私もまた、室長に呼ばれて、小野瀬さんの隣に座らされた。
穂積
「さっき話した、薬師寺にマリファナを売っていた人物の捜査だけど。小野瀬にも協力してもらうわ」
室長は、ローテーブルを挟んで向かい合う一人掛けのソファーに腰を下ろすと、そう切り出した。
急に名指しされて、しかも、「協力してもらいたいの」でも「協力してくれるかしら」でもなく、「してもらうわ」という室長の言葉に、小野瀬さんは、手にしていたカップから、紅茶をごくりと飲み込む。
小野瀬
「俺?」
穂積
「そ」
室長は、小野瀬さんに、鑑定結果のファイルをかざして見せた。
穂積
「薬師寺が買って所持していたマリファナは、屋内で水耕栽培されたと思われる、純度の高いもの。そうよね?」
小野瀬
「そうだけど」
穂積
「こちらの取り調べで、その人物と薬師寺は二年の間に横浜市内で二度、鎌倉市内で三度、直接会ってマリファナの受け渡しを行い、薬師寺は、合計で約5kgを客に売り捌いた事が分かっているわ」
小野瀬
「……」
室長の話に、小野瀬さんは思慮深く頷いている。
でも、私には、まだ、それがどうして小野瀬さんの出動に結びつくのか、全然分からない。
穂積
「薬師寺の客は百人を超える。その状況で今まで一度もトラブルを起こしていないところを見ると、やはり、多少は、地元にコネクションを持っている人物じゃないかと思うの」
ぴく、と、小野瀬さんの眉が動いた。
穂積
「その人物が、取り引きの際に名乗った名前は『諏訪野』。薬師寺によれば、三十歳くらいの、垢抜けた男前だそうよ」
小野瀬
「……穂積」
穂積
「明智や藤守に行かせてもいいんだけどね。横浜、鎌倉と言えば、やっぱり小野瀬かしら?と思って」
室長の言う理由を聞いて、私はちょっと呆れてしまった。
翼
「あの、室長、差し出がましいかもしれませんが、それだけの理由で、多忙な小野瀬さんに捜査のお手伝いをお願いするのは……」
けれど、思わず身を乗り出した私を止めたのは、当の小野瀬さんだった。
小野瀬
「待って、櫻井さん」
翼
「でも……」
小野瀬さんは私を制して、じっと室長を見つめた。
室長もその視線を受け止めて、目を逸らさない。
しばらく見つめあった後、小野瀬さんは、不意に、納得したように頷いた。
小野瀬
「分かった、行くよ」
翼
「……えっ?」
小野瀬
「せっかく、櫻井さんを付けてくれるって言ってるし。ね、穂積」
微笑む小野瀬さんに、室長は、まだ言ってないわよ、と鼻白む。
穂積
「本当は、うちの娘をアンタなんかに預けたくないのよ。でも、アンタがヤッセンボだから」
ヤッセンボ、という言葉は、室長の故郷の方言で「弱虫」という意味だと聞いた事がある。
どうして、今その言葉が出てきたのか私には分からないけれど、小野瀬さんを見れば、何故か、嬉しそうに目を細めている。
小野瀬
「うん、ありがとう、穂積」
小野瀬さんから笑顔を向けられて、室長の顔が赤くなっていくように見えた。
穂積
「とにかく!」
室長が立ち上がった。
穂積
「明日から、櫻井は小野瀬と神奈川へ行ってもらうわ。櫻井、詳しい事は小野瀬に説明しておくから。今日はもう帰って、二、三泊する準備をしておきなさい」
私はびっくりした。
翼
「えっ、本当に、小野瀬さんと私、二人で行くんですか?」
穂積
「そうよ」
相変わらず、室長は必要最低限の事しか言わない。
小野瀬さんが、笑いながら補足してくれた。
小野瀬
「櫻井さん、明日は出勤しなくていいよ。朝9時頃、寮に直接迎えに行くからね」
翼
「え、は、はい」
穂積
「言っておくけど、仕事で行くのよ?」
室長が、私を見下ろして睨む。
気のせいか、室長の機嫌がどんどん悪くなっていくような。
穂積
「小野瀬と二人だからって、浮かれてたら承知しないわよ。毎日ワタシに報連相するのよ。旅行じゃないんだから、菓子なんか持って行くんじゃないわよ!」
翼
「はっ、はい」
小野瀬
「櫻井さん、アレは俺が持って行くから」
翼
「アレって何ですか?」
小野瀬さんが、指で丸を作る。
ビシッ、という音とともに、室長に額を弾かれた小野瀬さんがしゃがみこんだので、私はやっと「アレ」が何なのかを理解して、赤面した。
穂積
「分かったら、とっとと帰んなさい!」
翼
「はいぃっ!」
怒鳴られて、私は飛び上がった。
急いで席を立ち、帰り支度を済ませれば、室長が、まるで追い出すようにぐいぐいと私の背中を押す。
小野瀬
「じゃあね、櫻井さん。明日からの旅行、よろしく」
穂積
「旅行じゃないって言ってるでしょ!!」
ソファーから私に手を振っている小野瀬さんに怒鳴り返しながら、私を廊下に押し出す刹那、室長が、私だけに聞こえる声で囁いた。
穂積
「櫻井、小野瀬を頼む」
え、と振り向けば、室長は真顔だった。
穂積
「本気で用心しろ」
低い声と、碧色の真剣な眼差しに、私はぞくりとする。
翼
「……はい」
穂積
「寝坊するんじゃないわよ!」
最後だけ大声で言われ、押し出された私の背中で、捜査室の扉が閉まった。
室長が囁いた言葉に胸騒ぎを覚えながらも、その理由が分からない今は、小野瀬さんと出掛けられる事になった嬉しさがそれを上回ってしまう。
私はまだ実感がわかないまま、明日からの神奈川行きに備える為、足早に帰路についたのだった。