瀕死の白鳥
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小野瀬
「穂積が言った事の意味……、俺には分かる気がするよ」
翼
「えっ、本当?」
箱根から帰って来たこの日も、私は終業後、小野瀬さんの家に来ていた。
二日前に来たばかりだけど、どちらかが休みになる前の日には、私がこうしてお泊まりに来ることが、いつの間にか約束になっている。
今度は私が深夜勤務明けで明日は休み、小野瀬さんは休み明けで働いてきて明日も勤務、という夜。
シチューを作りながら箱根での話をしていた私に、小野瀬さんは、隣でサラダに入れるトマトを切りながら、相槌を打ってくれていた。
そのうち、私が室長のした「悲鳴」と「白鳥」の話を出した時に、小野瀬さんは静かに頷いたのだ。
翼
「私の話だけで分かるなんて、葵はやっぱり凄い。ねえ、室長はどういう意味で言ったのか、教えて?」
けれど、私が尋ねると、小野瀬さんは、あの時の室長と同じ表情をして、目を細めた。
小野瀬
「説明は出来ないんだよ」
翼
「どうして?」
てっきり、小野瀬さんならいつものように整然と説明してくれると思った私は、その言葉を聞いてがっかりする。
小野瀬
「多分、穂積自身にも説明出来ないんだと思うよ」
小野瀬さんはトマトを切り終えて、お皿に盛り付けながら言った。
小野瀬
「物事に共感する力というのは、経験値によって差が出るからね。その差によって、同じ音が穂積には叫びや白鳥の声に聴こえ、翼たちにはただの雑音に聴こえる」
翼
「……」
小野瀬
「翼や藤守くんに、バイクを改造する連中や穂積の感覚が分からないというのは、幸せな事なんだよ。だから、穂積は、あえて答えなかったんだと思う」
翼
「……」
やっぱり、よく分からない。
けれど、つまり、室長や小野瀬さんには、あの暴走族たちの行動や気持ちが理解出来るという事なのかしら。
小野瀬
「俺もまあ、ガキだった頃には似たような事をしていたからね」
小野瀬さんはちょっと恥ずかしそうに笑った。
そういえば、小野瀬さんは中学から高校にかけて、ご両親の離婚が原因で、一時期、荒れた事があると話してくれた事があったっけ。
その後ご両親はそれぞれ再婚なさったけど、お母さんは遠くへ行き、小野瀬さんはお父さんとも新しいお母さんとも馴染めなくて、それでご実家を離れたのだと。
咲季ちゃんの事件や、紗弓ママの実父の松下さんの事件、そして、私との婚約を通して、今では小野瀬さんもご両親の本当の気持ちを理解して、長年のわだかまりもすっかり解けたようだけど……。
当時はやっぱり深く傷付いていたんだなあと思うと、小野瀬さんが愛おしくなる。
与えられたものだけでは満足できない、納得出来ない。
そんな中で、同じような心情の仲間たちと共鳴して、バイクを改造してみたり、深夜の峠道や繁華街を大音声で走り回ってみたり。
時には仲間同士で、時には警察さえ相手にして、怒鳴ってみたり、殴りあったり。
彼らはそうしてそれぞれの不満を発散している、という事なのだろうか。
小野瀬さんが、ご両親への反発を、荒れる事で紛らしたように。
私にはそこまでの不満を感じた経験さえ無いから、本当の意味で理解する事は出来ないのかもしれないけれど。
翼
「ごめんね。やっぱり、よく分からないかも……でも、もし分からなくても、癒してあげる事は出来る?」
小野瀬
「え?」
私は手を洗っていた小野瀬さんに、背中からぎゅっと抱きついた。
小野瀬
「……もっと、強くぎゅっとして」
翼
「うん」
ぎゅううっ。
小野瀬さんは笑いながらタオルで手を拭くと、私を背中にくっつけたまま、サラダを入れたお皿を持って、リビングに移動した。
小野瀬
「はい、到着」
それを合図に私は離れる。
両手の空いた小野瀬さんが、向き直って私を抱き締めてくれた。
翼
「ね、私でも、葵を癒してあげる事が出来る?」
見上げる私に、小野瀬さんは微笑む。
小野瀬
「もちろん。それは、翼にしか出来ない事だよ」
その表情が切なくて、私は胸が痛くなった。
本当に、この人の何もかもを理解して包み込んであげられたらいいのに。
小野瀬さんが両手で私の頬を包み込んで、唇を重ねた。
小野瀬
「翼が傍にいてくれるだけで、俺は癒されてる」
小野瀬さんは、私の耳元でそう囁くと、膝をついて、私の胸に顔を埋めた。
小野瀬
「でも、まだ足りない。もっと欲しい。翼の全部で、俺の全部を満たして」
胸元から見上げられて、縋るように言われて。
小野瀬さんの頭を抱き締めると、ブラウスのボタンが外されていく。
私が黙っていたせいか、小野瀬さんは手を止めて、もう一度見上げてきた。
小野瀬
「……俺、鬱陶しい?それとも、欲張りすぎ?」
翼
「ううん」
私は首を横に振る。
翼
「違うの。私、葵の事を、もっと知りたいと思ってただけ」
小野瀬
「翼に何も隠すつもりはないよ。でも……、本当の俺を知ったら、翼に嫌われるんじゃないか、離れて行ってしまうんじゃないか……それが心配」
小野瀬さんはそう言って、また、私の身体を抱き締めた。
小野瀬
「今さら、翼のいない生活になんか戻れない」
翼
「葵……」
誰よりも沈着冷静で。
思いやりがあって大人で。
物腰も柔らかで、綺麗で穏やかで優しくて。
でも本当は、
誰よりも情熱的で。
わがままで子供みたいで。
寂しがり屋でやきもちやきで甘えんぼで。
でも、本当に。
翼
「全部、大好きだよ」
私は、小野瀬さんを抱き締めた。
翼
「私、葵から離れたら、きっと生きていけない」
小野瀬
「離さないよ」
小野瀬さんは、思いがけず真剣な顔で答えてくれる。
小野瀬
「何があっても」
私は頷いて、小野瀬さんの束ね髪をほどいた。
手の中に、小野瀬さんの長い髪がさらさらと流れ落ちる。
この髪に捕らわれてしまいたい。
私たちは何度も擦れ違い、互いに傷つけあってきた。
だから、怖い。
どんなに近くにいても、小野瀬さんはいつもどこか遠くて。
だから、欲しい。
小野瀬さんがボタンを外し終えて、私のブラウスが床に落ちる。
私の身体が震えているのが分かると、小野瀬さんは自分も服を脱ぎ捨てた。
小野瀬
「おいで」
膝をついて、小野瀬さんの胸に顔を埋めると、私の頬を涙が伝った。
小野瀬さんがそれを唇で掬いとってくれる。
こんなに大切にされているのに、こんなに不安になるのは、きっと、小野瀬さんが今までに抱いた女の人の数を思ってしまうから。
その人たちが手に入れられなかった小野瀬さんの心を、自分なら掴めるという自信が持てないから。
その人たちが辿り着けなかった小野瀬さんの心の深奥に、自分なら迎え入れてもらえるという自信が持てないから。
信じたい。
甘い言葉でも優しい愛撫でもなく、もっと赤裸々に愛して欲しい。
信じて欲しい。
この先何があっても、私が小野瀬さんを求める気持ちは変わらない事を。
だから、『本当の俺』で接して欲しい。
翼
「葵、抱き締めて。葵の全部で、私を満たして」
けれど、小野瀬さんはいつものように上手な笑顔を浮かべて私を抱く。
私を傷つけないように、私に嫌われないように、慎重に紳士的に。
小野瀬
「全部、あげるよ」
その言葉も眼差しも、きっと本当なのに。
私は不安でたまらない。
好きで好きで仕方ないのに。
翼
「葵っ……」
身体だけじゃなく、心もひとつになれればいいのに。
このまま、溶け合ってしまえればいいのに。
どうすればいいのか分からない。
私は胸の奥に冷たい風を感じながら、小野瀬さんの背中に爪を立てた。