瀕死の白鳥
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穂積
「はい、小野瀬のせいですっかり長引いちゃったけどー。質問が無ければ、今朝のミーティングは以上よ」
明智さんと如月さんに露出狂の取り調べ、小笠原さんにデータ整理、私と藤守さんに下着泥棒の聞き込みを命じた後、室長は、手にしたファイルをパチンと閉じた。
ミーティングが終了し、全員が解散する中で、室長は私と藤守さんに声を掛ける。
穂積
「藤守と櫻井には、今夜は暴走族の取り締まりへの協力で、深夜勤務になると伝えてあるわよね」
藤守
「はい」
翼
「はい……」
それは昨日のうちに言われていた事で、もちろん私も承知している。
承知してはいたけれど、昨夜は、鑑識で何日も徹夜続きだった小野瀬さんが久し振りに自宅に帰るというので、誘われるまま行って、その……してしまった。
そんな理由で眠くてたまらないなんて、恥ずかしくて顔が上げられない。
反省と自己嫌悪で泣きたくなる。
赤い顔を隠すために下を向いていると、室長が、小さく溜め息をついた。
穂積
「櫻井、寝不足なら、午前中に仮眠をとっておきなさい。聞き込みには、ワタシが藤守と行くから。それでも無理なら、暴走族の取り締まりは如月に交替させるわ」
ハッとして顔を上げた時、室長はもう私に背中を向けていた。
翼
「し、室長!」
室長がゆっくりと振り返る。
穂積
「何?」
翼
「すみませんでした!私、大丈夫ですから!如月さんにも、ご迷惑をお掛けするわけにはいきませんから!」
室長より先に、如月さんが笑う。
如月
「翼ちゃん、気にしなくていいよ。深夜勤務ぐらい、俺ならへーきだからさ」
翼
「いえ、その……私が、たるんでました。寝不足でも、任務には支障の無いようにしますから!頑張りますから!外さないで下さい!」
室長と如月さんに向かって、私は繰り返し頭を下げた。
如月
「真面目だなぁ。一回遅刻したぐらいで。翼ちゃんがそんなに気にしてたら、小笠原さんなんかどうするのさ」
小笠原
「……」
遠くで小笠原さんが地味にむくれてるけど、私は必死で頼み続けた。
室長に溜め息をつかせてしまった。
それに、さっきは小野瀬さんに遅刻を庇ってもらったばかり。
叱られて、明智さんや藤守さんたちに励ましてもらったばかり。
この上、室長や如月さんに仕事を代わってもらって、自分は昼寝をするなんて、出来るはずがない。
いくら寝ぼけてる頭でも、今、自分が室長に試されているのは分かる。
室長が昼寝を命じたのは、嫌みではなく、寝不足のまま深夜勤務に向かう私の身体と仕事への集中力を心配してくれているのだという事も、分かっている。
だけど、いつまでも室長や皆に甘やかされてフォローしてもらって、それに慣れてしまいたくはない。
私は、両方の手をぎゅっと握り締めた。
室長は如月さんの肩に手を置いてから、私に向き直って、にやりと笑った。
穂積
「ワタシの可愛いベイビーちゃん。どうやら、ようやく目が覚めてきたようね」
言い方は意地悪だけど、その眼差しはいつものように温かい。
穂積
「自分で言ったんだから、覚悟しておきなさい。今夜は寝かさないわよ」
翼
「はい!」
微笑を浮かべて席に戻る室長を見送り、「良かったね」と口を動かしてくれる如月さんに「ありがとうございます」とガッツポーズを返してから、私は、改めて気合いを入れ直した。
暦の上では春だけど、箱根峠の夜は氷点下を超える。
車内にいても震えるような冷気の中で、寒風を浴びながら取り締まりを行う静岡、神奈川両県警の対策班の方々の努力には、本当に頭が下がる思い。
ここ、峠の頂きでは複数のパトカーやバリケードで通行を制限し、暴走車両を囲い込んで、主に二輪車の不正改造や違法運転を一気に取り締まる。
同時に別の場所ではローリング族やスピード違反などの取り締まりも行われる、箱根一帯を対象にした一大作戦だ。
私たち捜査室は人海戦術の一角として、また、検挙者が出た場合の協力要員として作戦に参加している。
キャリアの室長と元少年課の藤守さんはともかく、元交通課でも経験の浅い私に関しては、研修の意味もあってここに加えられているのだ。
私は、世田谷にある警視庁交通安全教育センターでの訓練に参加した事もあるけど、実際の暴走族取り締まりに参加するのはこれが初めて。
だから、いよいよ、暴走バイクの集団が甲高いエンジンの音や派手なクラクションの音を峠道に響かせて近付いて来た時には、思わず身体が竦んでしまった。
藤守
「そしたら櫻井。俺も、外の応援に行って来るからな」
運転席にいた藤守さんが、そう言って、エンジンをかけたまま、車を降りて行く。
私は暖房の効いた車内にいていいと言われていたけど、一人では逆に怖い。
心細くて窓を開けると、ずっと外で対策班の人たちと話をしていた室長が、藤守さんからの合図を受けて、車の傍に戻って来てくれた。
暗闇に、吐く息が白い。
翼
「凄い騒音ですね!」
穂積
「え、何?」
周りはバイクの撒き散らす排気音とクラクション、誘導する警察官たちの大声と、怒鳴り返す少年たちの罵声が飛び交っている。
私の声が聴き取れなかったのか、室長が長身を屈めて、びっくりするほど近くに顔を寄せてきた。
さらさらの髪と、形の良い耳が、すぐ目の前にある。
翼
「凄い、騒音、ですね!」
私は自分の口に手を添えて、室長の耳元で言った。
今度は聴こえたらしく、室長が頷く。
室長は後部座席のドアを開けると、私の隣に乗り込んで来た。
穂積
「この騒音は、あいつらの悲鳴よ」
ひやりとした外気をまとった室長の言葉は、なぜか痛みを伴って、私の耳に届いた。
どういう意味だろう。
翼
「私には、ただ迷惑なだけの大音量の騒音にしか聞こえませんけど……」
私が正直にそう言うと、室長は笑って頭を撫でてくれたけれど、それ以上の説明はしてくれなかった。
穂積
「先頭の方で、警官隊との小競り合いが起きてるようね。そっちでも検挙者が出るかもしれないわよ」
インカムからの連絡を受けて、室長はまた出て行ってしまった。
結局、私は、一晩中、バイクのライトと赤色灯が交錯する騒然とした現場で、室長の言葉の意味を考えていた。
けれど、納得のいく答えの出ないまま、とうとう夜明けを迎えたのだった。
藤守
「バイクを不正改造する奴らの気持ちが、よお分からん」
帰り道、警視庁に戻るために車を運転しながら、藤守さんが独り言のように呟いた。
藤守
「だって、改造なんかしない方が絶対速いし、快適やん。それをなぜ、わざわざあんな騒々しいバイクにせなあかんのやろ」
私にはバイクの知識は無いけれど、藤守さんの言葉には共感出来た。
だって、間近で接してみると分かるけれど、とにかく物凄い音なのだ。
翼
「室長は、『あの騒音はあいつらの悲鳴だ』って言いましたよね」
話題がバイクの音の話になったので、私は、後部座席から身を乗り出して、昨夜の室長の言葉の意味を尋ねてみた。
助手席をリクライニングさせて、冷えて強張った身体を伸ばすストレッチをしていた室長が、私の顔を見上げて苦笑する。
穂積
「ワタシにはそう聴こえるだけよ」
藤守さんは私と室長のやり取りを聞いて少し考えた後、やっぱり、私と同じように首を傾げた。
藤守
「あれが悲鳴、ですか?こっちが悲鳴を上げたくなるような雑音ですやん」
穂積
「……」
室長は、藤守さんと私の顔を見比べ、それから、何故か、少し嬉しそうに目を細めた。
穂積
「いいのよ、アンタたちには分からなくても」
翼
「そんな。気になります」
私が食い下がろうとすると、室長は助手席のシートを起こしてしまった。
穂積
「櫻井、白鳥の声って聞いた事がある?」
翼
「へ?」
白鳥?
いきなり予想外の言葉が出てきて、私は間抜けな声を出してしまった。
穂積
「今度、聞いてごらんなさい。昨夜の、あいつらの音にそっくりだから」
翼
「……はあ……」
白鳥って、あの、白くて綺麗な鳥だよね?
その声が、あの暴走族の騒音と同じだと言われても、すぐにはピンと来ない。
穂積
「白鳥の声だと思って聞けば、少なくとも、ただの雑音ではなくなると思わない?」
翼
「……」
ますます分からない。
私が藤守さんと顔を見合わせて途方に暮れていると、室長が振り向いて、また笑った。
穂積
「いいのよ、分からなくて。ごめんね」
室長はさっきと同じ言葉を繰り返すと、腕を伸ばして、温かくなった手で、私の頬を撫でてくれた。