紅一点、走る
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
2.紅一点、悩む
~翼vision~
交通課での引き継ぎを終えた私は、今朝からは私服のスーツを着て、新しい部署に向かった。
警視庁特命捜査準備室。
指定されたエレベーターの両脇には、背が高くてガッチリした二人の警察官が、直立不動で立っていた。
恐る恐る、「おはようございます」、と挨拶してみたら、ビシッとすごい速さで敬礼してくれて、すぐにまた、ビシッとすごい速さで直立不動の姿勢に戻った。
私みたいな下っ端に、そこまでしてくれなくていいのに。
エレベーターが到着した。
私はドキドキしながらも、拳をぎゅっと握り、大きく息を吸い込むと、気合いを入れて、足を踏み出した。
数日前、穂積室長からは、交通課の課長を経由して、私に小さな箱が届いた。
その中には、今日の服装の指示から始まる注意事項の一覧表と、IDカードや認証装置の説明、暗証番号のメモなどが入っていた。
指示通り登録に行くと、そこは拳銃を携帯した警察官が警備をする部屋で、私は指紋や顔など、数項目を大手警備会社の認証装置に登録させられた。
静かな部屋で、係官は、終始無言で作業する。私は警備の警察官に睨まれたまま。
事務的な係官の冷たい顔を思い出すだけで、今でも胃が痛くなりそうだった。
IDカードを翳すと、扉が開いた。
あらかじめ登録されているのが分かっていても、無人で扉が開くたび、何だか恐い。
ここは警視庁なのだから、大勢の職員がいるはずなのに。
実際、玄関から入ってエレベーターに乗るまでは、大勢の人達がいたのに。
交通課とはまるで違う。
こんなに警戒が厳重な、重要な場所で、私、本当にやっていけるんだろうか。
「うう……帰りたい……」
私は早くも途方に暮れた。
たった一人で、もう泣きたくなった頃、ついに廊下に出た。
「櫻井」
次の瞬間、男の人の声が、私を出迎えてくれた。
「待ってたわよ」
それは、穂積室長だった。
窓からの光を受けて、金色の髪が輝いている。
穂積室長が、もたれていた壁から長身を起こした。
こちらに向かって両手を広げ、微笑んでくれた室長の顔を見た時、私は、神様の存在を信じた。
「おはよう、櫻井」
ここに、私を待っててくれた人がいた。
思えばこの瞬間から、私は穂積室長を信頼するようになったのだと思う。
後に、鬼だ悪魔だ妖怪だと呼ばれる室長だけど、この時の彼は、間違いなく、私の為だけにそこに居てくれたのだから。
「よく来てくれたわね。ありがとう」
室長は笑顔で、私を促した。すぐ先の部屋の扉に、『特命捜査準備室』と書かれている。
数歩歩いた所で足を停めた室長は、自らその扉を開いて、私を中に入れてくれた。
「さ、入って」
通された部屋は、とても広かった。
一番奥に室長の席らしい大きな机、手前には、二個向かい合わせに置かれた机が、三列。
室長はまず、私をロッカーに案内してくれた。
他の人たちのとは離れた、キャビネットの陰に一つ、私の物だというロッカーが置かれていた。
ここなら、パーテーションを置けば、安心して着替えられる。
「机は、ここよ」
ロッカーに荷物を置いた後は、机を教えてくれた。私の机は、一番入り口に近い場所。
机の上には、電話とノートパソコン。引き出しには、簡単な筆記具以外、まだ何も入っていない。
「必要な物は、遠慮なく申請してね」
「はい」
ようやく返事をする元気が出てきた私に、室長は優しく微笑んだ。
「男ばかりの部署だから、慣れるまでは大変だとは思うけど。どう?やれそう?」
私は両手に力を入れて、拳をぎゅっと握った。
「はい、頑張ります」
「いい子ね」
室長は私が握った拳を見て、微笑んでくれた。
「でも、最初は辛い事もあるわよ。覚悟しておいてね」
「はい」
「困った事があれば、すぐに相談するのよ」
「はい」
室長の眼差しは優しくて、私は本当に安心した。
「あの、室長。給湯室はどこでしょうか?」
「ん?部屋を出た廊下の向かい側にあるわよ」
私は、室長が指し示した方を見て、頷いた。
「私、皆さんが来るまでに、お茶の用意をしておきたいんです」
「ありがとう、感心ね。道具は揃ってるはずだけど、使った事がないの。大丈夫かしら」
「はい。やってみます」
「よろしい。でも、頑張りすぎは駄目よ」
「はい」
私は給湯室に入ってみた。
確かに、使われた形跡は無い。
でも、カップは消毒済みのビニールに入っているし、緑茶は茶筒の封さえ切られていない。
湯呑みやコップの数もあるし、これなら何とかなりそう。
私は気合いを入れて、まずはお掃除を始めた。
積もっていた埃を綺麗に拭いて流して、カップやお盆を洗い直し、お湯も沸かしてポットに入れた。
これでいつでもお茶を淹れられる、そう思って、私は準備室に戻ってきた。
部屋に入ろうとした時、廊下に人影が現れた。
この廊下に来る人は、準備室に用のある人だけだ。
私は立ち止まって、その人が近付いて来るのを待った。
「おはようございます」
私が挨拶をすると、その人は足を停め、軽く会釈してくれた。
「おはよう」
「あの、私、今日からこちらでお世話になります櫻井です。よろしくお願いします!」
「そうか、明智だ、よろしく」
それだけ言うと、明智さんはスッと準備室に入ってしまった。
明智さん、って、確か、女性署員に凄く人気のある人よね。クールで男らしいって。
背は高いし、確かに格好いいと思うけど。ちょっととっつきにくいのかな。
……でも、初対面だもの、こんなものよね。うん。
私は沈みそうになった気持ちを、気合いで持ち上げた。
思い切って、準備室に入る。
「櫻井、紹介するからこっち来て」
唯一、安心出来る室長の声に呼ばれて、私はそちらに駆け寄った。
「明智と小笠原よ」
室長が手の平で示した先には、さっき会った明智さんと、眼鏡をかけた、もう少し若い人とがいた。
「ニ人とも、彼女が櫻井よ。今日から準備室に加わってもらうわ」
「よろしくお願いします」
私はペコリと頭を下げた。
明智さんは、さっきよりは表情が柔かい。でももう一人、小笠原さんという人は、明らかに私を無視していた。
「おはようございまーす!」
私が小笠原さんに改めて声を掛けようかどうしようか迷っていた時、扉が開いて、また背の高い人が入ってきた。
「お?」
私を見て立ち止まったその人に、私はまたペコリと頭を下げた。
「櫻井翼です。よろしくお願いします」
「櫻井か、よろしくな。俺は、藤守」
私がホッとした、その刹那。
「でも、ここは、女の子には無理だと思う。早目に交通課に帰った方がいいんじゃないか?」
藤守さんはさっさと、自分の席に着いてしまった。
立ち尽くしていると、今度は明るい声がした。
「おっはよーございまーす!」
「おはよう、如月」
如月さんは、すぐに興味深く私を見た。
「あっ、室長、この子、もしかして」
「如月さん、櫻井翼です。よろしくお願いします」
「やったー!」
如月さんは私の手を握って、ぶんぶん振った。
「翼ちゃんだね!うわー嬉しいな!よろしくね!」
さっきまでの人たちの冷たい態度に張り詰めていた私の気持ちは、如月さんの熱で、涙になって零れそうだった。
「あれっ?泣きそう?大丈夫?」
「だ、大丈夫です。私、お茶を淹れて来ます」
頭を下げて、私は準備室を飛び出した。
給湯室で一人になると、泣いてしまいそうだった。
私はお湯呑みを温め、かつお湯を適温にする為、器の一つ一つにお湯を注いだ。
お盆を拭いて、数を数えていると、突然横から腕が伸びて、お盆に一つ湯呑みが追加された。
「!」
「ごめん、驚かせちゃったかな?」
振り向いたそこにいたのは、白衣を着た、室長に負けないくらいきれいな男の人だった。
少し長めの赤い髪、表情はにこやかだ。
彼が動くと、柑橘系の爽やかな香りがした。
「ふうん、君が捜査室の紅一点か。ずいぶん若くて可愛いね」
「……」
「穂積も何考えてるんだか」
口を開いてみたものの、びっくりして言葉が出ない。
品定めするように私を見下ろしていたその人は、ふと、笑顔になった。
「俺は、小野瀬葵。鑑識官だよ」
「お、小野瀬さん、ですね。初めまして、私、櫻井翼です」
「まあ、頑張ってね」
ありがとうございます、と言いながら、私は震える手でお茶を淹れた。
私がお盆を持つと、小野瀬さんは先に立ち、スマートに扉を開いてくれた。
「はい、どうぞ」
私は小野瀬さんにお礼を言い、ドキドキしながら中に入った。
「あの、お茶を、淹れてきました」
「ありがとう」
室長は笑顔で受け取ってくれた。
次は誰だろう。目上の人から出すものだけど、私には分からない。
「あの、すみません…」
「次は、明智くん」
小野瀬さんが囁いてくれた。
「明智さん、どうぞ」
「……ありがとう」
藤守さん、小笠原さん、如月さんと置いたところで、小野瀬さんは、私の分を私の机に置いてくれた。
「最後に、これが、俺の」
そう言ってソファーに座り、私に向かってウインクした。
「あ、ありがとうございました」
お茶を届けただけなのに、私はもうヘトヘトになってしまった。
しかも、全員が無言でお茶を口にしているので、もう生きた心地がしない。
「……」
「……」
「……」
「……」
「うん、美味しいね」
「櫻井、おかわり。濃い目でお願い」
小野瀬さんと室長が口火を切ってくれて、その場は一気に和んだ。
「ありがとう、翼ちゃん。すごく美味しいよ!」
如月さん。
良かった、一つお役に立てたみたい。
今は、お茶汲みでもいい。
まずはみんなの為に、美味しいお茶を淹れてあげられるようになろう。
いつかみんなに信頼してもらえるよう、一歩ずつ、少しずつ。
おかわりを淹れるために給湯室に戻りながら、私は、滲んだ涙をぐいと拭った。