捜査室、始動
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1.穂積 泪
警視庁に新しい部署が設けられるらしい、という噂は、かなり前から俺の耳にも入っていた。
誰が名付けたか、『緊急特命捜査室』。
今までよりも機動性と汎用性を高める為に、警察庁や、科警研などとも連携を強めた、実験的な部署だという。
まあ、俺には関係ない。
と、思っていた。
年末年始の特別警戒が解除された雪の朝、刑事部長に呼び出されて、異動の内示を受けるまでは。
呼び出された室内には、刑事部長と、もう一人、俺の現在の上司である警備部長とが待っていた。
テーブルの向こうで立ち上がった二人に、俺は、踵を揃えて敬礼した。
椅子が勧められ、俺が座るのを待って、刑事部長が口を開いた。
「穂積、刑事部に新設される緊急特命捜査室に、室長として赴任してくれないか」
……俺は、この二人を尊敬している。
警備部長は機敏で聡明。丹念な準備と訓練の厳しさで知られ、彼が着任してから、警備部の質は格段に上がったと言われている。
刑事部長は博識、冷静沈着で考えが深く、被害者を思いやり、容疑者の心の奥底までも読み取る事の出来る人物だ。
敏腕にして驕らず、上層部には信頼され、部下からは愛されている、どちらも俺にとっては理想の上司だった。
この人たちの元で警察官として働ける事に、その時の俺は満足していた。
だから、異動を告げられた時の俺の気持ちは、正直不満と、戸惑いで占められた。
なぜ、俺なのか。
「これは、私と警備部長の間で一致した意見なんだ」
俺は思わず上司の顔を見た。
その間も、刑事部長は穏やかな口調で、俺を諭すように、励ますように続ける。
「新しい捜査室は、あらゆる部署と連携し、雑多とさえ思える任務を担当する事になる。室長には、かなり高い水準での、総合的な能力が求められるだろう」
「部長、俺は、まだ」
俺は、情けない顔をしていたんだろう。
それまで黙っていた警備部長が、立ち上がり、俺の前に来て肩に手を置いてくれた。
「正直に言うとな、穂積。お前を管理職にする話は、以前から何度もあった。だが、お前を手離したくなくて、私が断っていたんだ」
「部長……」
「だが、お前は警察庁のキャリアだ。いつまでも、警視庁の一警備部員として過ごす事は出来ない。研修期間はもう、終わりだ」
警備部長を見つめていると、再び、刑事部長が話し始めた。
「我々は、きみを高く評価している。今回の室長人事に関しては、きみ以上の適任者はいないと思う」
確かに、目をかけてもらってきたという自覚はある。
刑事部長は、時々、ご自身が見込んだ若手を自宅に招いて、持論を語ったり、相談に乗ってくれたりする会を開いている。
俺もその何人かの若手の中に含まれていて、夫人の手料理をご馳走になったし、娘さんとの縁談を仄めかされたりもした事さえあったものだ。
「室長の経験は、きっときみの為にもなる。どうだ、穂積。引き受けてくれるか」
傍らで、警備部長も頷く。
この人には、警備のイロハを、心構えや警棒の持ち方から叩き込んでもらった。
厳しくも丁寧に教えられて身に付いた知識や技術が次々と脳裏に蘇り、俺の肩に置かれた部長の手の乾いた温かさに、目頭が熱くなった。
数々の恩がある二人にこうまで言われて、断る術を、俺は知らなかった。
そもそも、この異動は、上からの命令だ。
警察という縦社会の中で、命令に逆らう事は致命的だ。「行け」と言われれば、逆らう事は出来ない。
それなのに、二人の部長は、まだ30にも満たない俺なんかに、「頼む」と頭を下げてくれる。
さすがの俺も、まだ、この人たちを邪険にするほど、ひねくれてはいない。
「……謹んで拝命致します」
俺が敬礼すると、刑事部長は、ようやく安堵した顔をして、敬礼を返してくれた。
「……そうか、よく言ってくれた。期待しているぞ、穂積」
「ありがとうございます」
敬礼の姿勢のまま、俺は、警備部長を見た。
警備部長は涙をこらえて、頑張れよ、と頷いてくれた。
それからの俺は多忙を極めた。
なにしろ、警備部の引き継ぎをしながら、来年の夏を目処に、新しい部署を立ち上げなければならない。
正式な辞令が出るまでは、俺は警備部に籍がある。
だが警備部長は、全ての任務から俺を外した。
最初は驚いた同僚たちも、部長たちから事情を聞き、納得し、俺の出世を我が事のように喜んでくれた。
こうして大勢のいかつい仲間たちに励まされながら、俺は本格的に、『緊急特命捜査室』設立の為に走り回る事になった。
数日後の早朝、俺は、捜査室が置かれる予定の部屋に向かって歩いていた。
『緊急特命捜査室』と言うだけあって、そこに向かうには、階段にもエレベーターにも、厳しいセキュリティチェックが設けられている。
初めて使う『室長』のIDカードを翳しながらも、どこか他人事のような感じで、俺は進んだ。
暗証番号、掌紋、網膜、認証を受けると開く自動扉を何枚か抜けて、俺は、目的地の廊下に出た。
人気の無くなった廊下は冷え冷えとして、吐く息が白くなるほどだ。さらに進むと、ようやく、目的の扉が見えた。
『特命捜査準備室』
お役所仕事と言うか、律儀だなあ。どうせすぐ『緊急特命捜査室』になるのに。まあいい。
俺は一度立ち止まり、軽く背筋を伸ばしてみる。それから、おもむろに扉を開けた。
室内は、広々としていた。
左右の壁までの距離も、窓際までの奥行きも、天井の高さも、申し分無い。
これなら、長身の刑事たちが机を置いても、楽に動き回れるだろう。
現在の室内には、何も入っていない大きいキャビネットが一つ、ミーティングテーブル一つ、パーテーション二枚、ソファーセット一揃え、冷蔵庫一つ。どれも新しい。
そして、上座に、机と椅子が一組だけ。
あれが俺の席だろう。
普通より大きな机の上には電話とノートパソコンが一台ずつ。椅子は肘掛け付きで、黒の革張りだ。
俺はその椅子が、部長と同じものだと気付いた。
後で普通の椅子に替えてもらおうと思いながら、俺は、改めて室内を見渡した。
それにしても、閑散としている。せめて、いずれ来る部下の為に、机をもう二つ三つ用意しておいてくれてもいいと思うが。
早く何人か集めて、ここを『捜査室』らしくしなくては。
こんな広い部屋の中に俺一人で座っていたら、捜査室どころか、独房だ。
俺はひとつ身震いをして、部屋を出た。
『準備室』の看板が、俺を見送っている。
待ってろよ。
胸の内で低く呟いて、俺はエレベーターを呼んだ。
実際、部署ひとつ立ち上げるのに、これほど煩雑な手続きがあるとは知らなかった。
俺は一人きりの準備室で毎日毎日、ありとあらゆる書類に名前を書いて押印して、次から次へと提出し続けた。
それと並行して、捜査室に呼ぶメンバーを探す。
期待されている部署だけあって、上層部からは、庁内にいる警察官の中で気に入った奴を誰でも連れて来ていい、と言われていた。
しかし、そうは言っても、各部署のエース級をいきなり引き抜いては、後々遺恨が残るだろう。
だからといって、今の部署で居ても居なくてもいいと思われているような奴なら、悪いが俺も欲しくない。
そう考えると、俺の部署に引き抜いていい警察官など、一人もいないような気がしてきた。
その日も俺は人事課に行き、人事課の中でしか閲覧の許されない資料室のデータベースから、庁内の警察官の情報を漁っていた。
「穂積君、すまんね」
ノックの音とともに、資料室の扉をそっと開けて中を覗き込んで来たのは、見覚えのある中年の警察官だった。
少年事件課の課長だ。
「課長」
急いで立ち上がり、敬礼しようとした俺を制して、課長は、にこにこと笑いながら近付いてきた。
俺は静かに、ノートパソコンを閉める。
どうしようかと考えたが、とりあえず、人事課から出る事にした。
極秘資料のある部屋なので、課長も、すぐに同意してくれる。
俺は課長を誘って、廊下の一角に自販機と椅子が並んでいる、休憩スペースへと移動した。
「どうぞ、こちらへ」
近くの椅子を勧めると、課長は相変わらずにこにこしながら、そこへ座った。
「ありがとう、邪魔してすまんね。君も、座ってくれ」
「はい」
一礼し、俺が椅子に戻ると、課長は不意に笑顔を消した。
「すまんが頼みを聞いてくれるかね、穂積君」
……これは只事ではないな。
「おっしゃってください」
「すまんね」
まだ何も聞いていないうちから、課長はぺこりと頭を下げた。
少年事件課は、主に非行や、未成年者が関係した事件を取り扱う部署だ。
そのせいか、課長は実際の年齢より老けて見える。
未熟で将来のある若者の事件ばかり相手にしているのだから、きっと、俺には想像も出来ないようなご苦労があるのだろう。
「それで、私に何を」
「うん、忙しいのに、すまんね。手短に言うから」
そう言うと課長は、胸のポケットから、一枚の写真を取り出した。
「うちの課の、藤守賢史だ」
「ふじもり、けんじ」
俺は繰り返した。と同時に、霞ケ関の新卒キャリアの集まりで知り合った、よく似た顔と名前の男が脳裏に浮かんだ。
「藤守に兄はいますか?」
課長は、少し驚いた顔で、頷いた。
「うん、検事をしているお兄さんがいるはずだ。よく知ってるね」
「やはり、そうですか」
写真に視線を戻した俺に、課長は微笑んだ。
「ところで、例の『緊急特命捜査室』、順調かね?」
「そうですね、年内にはある程度、形にしたいと考えています」
課長はうん、うんと頷いた。
「……実はな、穂積君。すまんが、藤守を、その、君の新しい部署で預かって欲しい」
「預かる?」
課長は、俺の手にある藤守の写真を見て、目を細めた。
「藤守は、とても資質に恵まれた警察官なんだ。背も高いし運動神経抜群、性格は真面目で温厚だ」
「でしたら、何故?」
「……」
課長は、黙って目を伏せた。
「……実は、先月、連続婦女暴行事件で、三人の少年を逮捕した」
「知っています。最後の被害者が、そのまま警察に飛び込んで発覚した事件ですね」
目を伏せたまま、課長が頷く。
「そうだ。……実は、藤守は、以前、その三人を別の騒動で補導しながら、話を聞いて保護観察を付けただけで、処分せずに帰した事がある」
「……それは、軽微な少年犯罪なら、そういった対応も有り得るでしょう」
「居酒屋での傷害だよ。立件されてもおかしくない事件だった」
「……」
「だが、取り調べてみると、三人とも、かなり複雑な家庭環境だった。それを知った藤守は、彼らに同情してしまったんだ」
課長は目を上げて、俺を見た。
「しかし、まさにその少年たちが、今回、三人の女性を暴行したんだよ」
「……」
「藤守は悔やんだ。最初に補導した時、しっかりと処分しておけば、三人の女性は被害に遭わなかったはずだと」
「……なるほど」
「検事をしているお兄さんにも、随分ときつく叱られたようだ。それで藤守は自分を責め、自信喪失している」
「それで、捜査室に?」
「すまん、穂積君」
課長は、真剣な表情で俺に訴えた。
「しばらくの間でいい。少年事件を離れ、君の所で経験を積んで、自信を取り戻して欲しいんだ」
課長に膝を掴まれて、俺はもう一度、藤守の写真を見た。
おそらく、俺の弟と同じくらいの歳だ。
「穂積君…」
「……申し訳ありませんが、お預かりする事は出来ません」
俺の名を呼ぶ課長の顔を見ながら、わざと冷ややかに笑ってみせた。
俺は立ち上がってポケットから財布を出し、自販機に100円を入れた。
「課長、コーヒーでいいですか?」
「え?ああ、すまんね」
ガシャン、と音を立てて出てきた缶コーヒーを、俺は、課長に手渡した。
「藤守と交換です。ですから、気に入ったら返しませんよ」
「…!」
缶コーヒーを握り締めた課長の表情が、ぱあっと明るくなった。
藤守は幸せな奴だ。
こんなに親身になってくれる上司がいるのだから。
「すまん、ありがとう、穂積君」
「異動の手続きはお願いします。明日からでも、準備室に寄越して下さい」
「それが……すまん」
言葉を濁した課長の様子に、嫌な予感がよぎる。
「藤守は今、神経性胃炎で入院中だ」
そしてその予感は的中した。
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