穂積の受難
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~穂積vision~
俺と小野瀬はしばらく放心した後、廊下から、這うようにして、部屋に入った。
普通の都市型リゾートホテルのはずなのに、この部屋は壁と天井が鏡張り、風呂場はガラス張り。まるでラブホだ。
俺は身震いした。
俺たちは十分ほどその部屋の床に転がってから、どちらからともなく、ぐずぐずと上半身を起こした。
情けないが腰が抜けたらしい。
「……」
「……」
「く」
「ふふ」
「くくっ、ははははは!」
俺はひとしきり、ようやく心置き無く笑ってから、きちんと正座に座り直して、小野瀬に頭を下げた。
「ありがとう、小野瀬。お前のお陰だ。それで……その、悪かったな」
思い出すと赤面する。
しかし、小野瀬は、穏やかな表情で首を横に振った。
「どういたしまして。でも、本当に良かったよ、成功して」
あんな事をされて怒りもしないなんて、小野瀬は人間が出来てるな。
逆の立場なら、俺は小野瀬をぶん殴っていたと思うのだが。
「穂積」
「ん?」
小野瀬は急に姿勢を正して、俺に頭を下げた。
「ごめん!」
そして、深く息を吸い込むと、一息に喋った。
「お前があの奥さんに追い掛けられる羽目になったのは、俺のせいだ。懇親会の日、奥さんに口説かれた俺は、自分が災難から逃れようとして、穂積が奥さんを好きみたいだ、って、口から出任せを言った」
「……は?」
「俺は、お前を、売った。でも、お前に警察を辞めさせるつもりなんか無かった。それは本当だ。だから、今日、ここまで一緒に付いてきたんだ」
「……」
……災難から逃れようとして?
……口から出任せ?
……俺を、売った?
「……ふざけるな!」
そんな事のせいで、俺はこんなに肝を冷やしたのか?
「……穂積、もっと怒れよ。今回の俺は最低だ。いっそ殴れ。俺を殴ってくれ!」
本当に最低だ。
それなのに、俺は、小野瀬を本気で怒る気にはなれない。
俺は小野瀬に背を向けて、再びごろんと床に転がった。
「穂積?」
小野瀬の声が懇願に変わる。
だが俺は、小野瀬のそんな声は聞きたくない。
「足が痺れた」
「……はあ?こんな短時間で痺れるわけないだろ!それより」
「うるせえ!」
俺は振り返って怒鳴り、いきおい立ち上がった。
「俺は、誰にも言えずにいた時にお前が声を掛けてくれて、嬉しかった。お前が俺を心配してくれて、嬉しかったんだ!」
くそう。
こんな事言うつもりじゃなかったのに。
「殴れ殴れって、メロスかよ。殴れるわけがないだろうが、馬鹿!!」
「穂積……」
俺は、ふん、と鼻を鳴らした。
「何だよ。殴らないぞ。殴ったら、お前の気が済んじまうだろ。それは許さん」
小野瀬はしばらく黙っていたが、やがて、俺に向かって、改めて深々と頭を下げた。
「やめろ、気持ち悪い」
顔を上げた小野瀬は、クスッと笑った。
「分かった。……じゃあ、話題を変える」
小野瀬は床に手をつき、猫のような姿勢で、俺に擦り寄ってきた。
「穂積って、キス巧いよね」
「はあ?」
俺は、自分の顔がかあっと赤くなるのが分かった。
「蒸し返すな!」
小野瀬は、ふふ、と笑った。
「もしかしたら経験豊富なの?オトコとの、キ・ス」
「てめえっ!」
「あっ痛!何だよ、殴らないって言ったばかりだろ?」
俺はふふんと笑った。
「お前の目は節穴か?殴ったんじゃない。蹴ったんだよう」
「小学生か!」
俺と小野瀬はしばらく低レベルな口喧嘩をした後、部屋から出てホテルを後にした。
歩いて警視庁に帰ると、驚いた事に、小野瀬はまだ仕事が残っていると言う。
本当に心配してくれたのかと思うと、少し胸が熱くなった。
そして、鑑識に戻る小野瀬に別れを告げて、俺は自分の車で家に帰った。
翌日、俺は休みだった。
だから奥さんは、昨夜、俺をホテルに誘ったようだ。ただ、どうして彼女が俺の休みを知っていたのかは考えたくない。
数ヶ月振りの平日有給休暇、俺は携帯の電源も落とし、夜まで何も食べないで、丸一日を寝て過ごした。
それはようやく人妻の脅威から解放された、至福の休日だった。
休み明け、警視庁に出勤すると、俺は何となく違和感を感じた。
何だろう。
空気がいつもと違うと言うか、周囲の俺を見る目が違うと言うか。
その原因は、間もなく明らかになった。
警備部のある階に着いた途端、俺を待ち構えていたらしい小野瀬が、廊下の向こうからすっ飛んで来たからだ。
「バレてる」
俺を鑑識室に引っ張り込んで、小野瀬は声を潜めた。
「何が?」
俺は暢気に問い掛けて、ハッとした。
「まさか、あの奥さん、旦那に?」
血の気が引きかけたが、小野瀬が苦笑して首を振るので、違うと分かった。
「たとえそうでも、お前は何もしてないだろ。必要なら証言でもDNA鑑定でもしてやる。……そっちじゃない」
そっちじゃない?
「じゃあ、何がだ?」
俺が言った時、鑑識室の扉が開いた。
「あっ、失礼しました!」
入って来たのは、小野瀬の鑑識の後輩だった。
両手にファイルを抱えているので、ノックしないで扉を開けたのだろう。
そいつは、俺と小野瀬が膝を付き合わせて話をしていたのを見て、真っ赤になっている。
「構わないよ、どうぞ」
「は、はい」
小野瀬に迎え入れられて、後輩は気まずそうに、ファイルを棚に片付けていく。
その作業の合間にも、こちらをちらちら見るので、俺はそいつが気になって声を掛けてみた。
「何か?」
後輩は飛び上がった。
「すすすすみません!あの、僕、さっき噂を聞いちゃったばかりで」
「噂?」
「穂積さん、オカマなのをカミングアウトしたって……」
「な」
「女性職員はショックで泣いてるし、他のみんなも驚いてて、もう大変な騒ぎですよ」
俺は小野瀬を振り返った。
小野瀬は肩を竦めてみせた。
「そういう事。あ、もういいよ」
ファイルを片付け終えた後輩が、泣きそうな顔で、ペコペコしながら部屋を出ていく。
扉が閉まるのを待って、俺は小野瀬に噛みついた。
「どういう事だ!!」
「だからそういう事だって」
小野瀬はわざとらしく、手で耳を塞いだ。
「あの奥さん、昨日も警視庁に来たんだ。それで、穂積に告白したけど断られた、って、朝から言いふらして廻ってた」
「はあ?何考えてるんだ!」
「あの時、奥さんが呟いたのは、『帰って、誰かに話さなきゃ』だったんだね」
小野瀬はニヤリと笑った。
「しかも、面白かったからって、自分が振られた場面を、あちこちで実演つきで再現したんだよ。それが大いにウケて、あっという間に噂が広まったというわけ」
「……実演……」
「『奥様、ゴメンナサイ!ワタシ、実はオカマでコッチの人なの!』」
「あの女ー!!」
「よう穂積。お前、オカマだったんだってな」
警備部に戻ると、さっそく先輩たちにからかわれた。
だが、警備部、特に同じ課の先輩たちは、俺が奥さんに追い掛け回されていた事を、よく知っている。
だから、実はオカマの振りをして逃げたのだ、と打ち明けたら、すぐに事情を察してくれた。
「お前も大変だな。分かった。そういう事なら、話を合わせてやる」
「だが、課の外ではオカマで通せよ。あの奥さんに、嘘がバレないようにな」
「ありがとうございます」
こんな事で泣きそうになってしまった。
警備の仲間は、仕事柄、口が堅い。
警視庁の中に、本当の事を知っている人たちがいてくれると思うだけで、オカマ演技もやり通せそうな気がしてきた。
俺は前向きなんだか後ろ向きなんだか分からない決意を固めながら、廊下に出た。
それから一ヶ月。
小野瀬が、鑑識のサイフォンからコーヒーを注いでくれる。
「で、どう?オカマは慣れた?」
「まあな」
慣れてみると、オカマも悪くなかった。
以前は数日おきに女から好きだの付き合ってくれだのと告白されたが、それがめっきり減った。
いちいち断るのも面倒だったので、これは具合がいい。
「穂積、今度、合コン付き合ってよ」
「はあ?」
「いいでしょ?俺たちキスした仲じゃない」
逆に不便になった事は、小野瀬がこんな風に、二言目にはキスした仲、と言って俺を脅すことだ。
やっぱり根に持ってるのかもしれない。
俺だって、したくてした訳じゃないのだが。
「……分かった、今度な」
「やったー。先輩たちに、穂積を誘えって頼まれて困ってたんだよね」
小野瀬が笑った。
あの奥さん、俺にとっては魔女のような悪女だが、一つだけ感謝してもいい事がある。
彼女の悪ふざけのお陰で、俺は、何でも遠慮なく言い合える、貴重な相手を手に入れたのだから。
小野瀬には言うなよ。
~END~