穂積の受難
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~小野瀬vision~
穂積の受難が半月余りも続いた、ある日の事。
俺は、深夜の休憩室に、ぽつんと一人で座っている穂積を見付けた。
その端正な容姿は憔悴ですっかり翳り、そっと近付いて様子を見ると、穂積が、小さな溜め息をついたのが分かった。
いつも前を向いて煌めいている印象的な双眸からは光が消え、そればかりか、ほとんど泣きそうな表情で、穂積は俯いていた。
警備部のフロアの明かりも小さくなっている。
みんな帰ったのに、穂積はひとり残っているようだ。
「穂積」
俺が声を掛けると、穂積は目線だけ上げて俺を見た。
「……小野瀬……」
聞き取れないぐらいの声で、穂積は応えた。
俺は、穂積の隣に腰掛けた。
「……大丈夫か?顔色が悪いぞ」
奥さんに付きまとわれているからと言って、本来の職務が減るはずがない。
穂積は逃げ回りながらも、職務には支障が出ないよう頑張っていた。
少なくとも昼間は。
「……」
穂積はしばらく黙っていたが、不意に俺の方を向いて、呟いた。
「……小野瀬」
「ん?」
「……短い付き合いだったな。合コン付き合ってやらなくて、ごめんな……」
真顔で、しかも潤んだ目で見つめられて、俺はぞくりとした。
「どうしたんだ、穂積」
急に、何を言い出すんだ、こいつは。
「何があった?」
「……」
ただならぬ様子の穂積を見つめ返した俺に、穂積は、ポケットから何かを取り出して、差し出した。
「?」
それは、小さく四つ折りにされた、一枚の紙だった。
「何だ、これ?」
開けてみろ、というように、穂積が小さく頷く。
「……」
穂積の表情を窺いながら、俺は、仕方なく、それを開いた。
「!!」
そこに女の文字で書かれていたのは、明日の日時と高級ホテルの名前、そしてルームナンバー。
穂積宛のそのメモの、差出人の名前は、あの奥さんだ。
これの意味が分からないほど、穂積も俺も子供じゃない。
「小野瀬……」
俯いた穂積が、両手で顔を覆った。
「……俺は、もう、終わりだ」
声を震わせた穂積の姿を目の当たりにして、俺は、目の前が暗くなるほどの罪悪感に襲われた。
自分の身を守る為に軽い気持ちでした事が、こいつを追い詰めてしまったのだ。
俺は今さらながら、自分が引き起こした事態の深刻さに、言葉を失った。
穂積が、あの人妻に、ホテルの部屋に誘われている!
穂積が誘いに乗らず、ホテルに行かなければ、奥さんを振ったのと同じで、彼女に恥をかかせる事になる。
怒った彼女が、穂積のはるか上司でもあるお偉い旦那に、「穂積にホテルに誘われた」とでも言いつければ、妻を溺愛している旦那は激怒するだろう。
そうなれば、出世の道を絶たれるどころか、どこか僻地に飛ばされて、もう二度と帰って来られないかもしれない。
逆に、誘いに乗ってホテルに行き、彼女と関係を持ってしまったら、それこそ身の破滅だ。
好きでもない人妻と、いつまでも関係を続ける事は出来ない。隠し通せるとも思えない。
彼女の夫に不倫がバレれば、警視庁に足を踏み入れる事も出来なくなるのはもちろん、最悪の場合、誘拐や暴行で訴えられるかもしれない。
どちらを選んでも、警察官としての穂積の人生は終わりだ。
俺のせいだ。
もう、誰も傷付けずに済ませられるような事態ではない。
あの時、穂積を巻き込むんじゃなかった。
たとえばこれが俺だったら、もっと早い段階で、彼女から上手く離れる為の口実を考えられたかもしれない。
相手も自分も傷付けずに。
……だが、穂積に、そういう狡猾さは無い。
その結果がこれだ。
「……ねえ、穂積」
「何だ」
穂積が力無く顔を上げた。
「俺、一緒に行ってやろうか?」
「……………はあ?」
意外な提案だったのか、穂積が身体を起こした。
「何で?」
責任を感じてるから。
「だって、面白そうだから」
作り笑顔で言うと、穂積は厭そうに顔をしかめた。
「……」
穂積はその顔のまま、睨むように俺をじっと見つめていたが、やがて、ふと唇を歪ませると、ぽつりと言った。
「……お前まで来る事は無い」
ああ、穂積には、俺が心配している事が分かるんだな。
「まだ時間はあるよ。どうすればいいか、二人で考えよう」
俺が本音で言うと、穂積は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「ありがとう」
礼なんて言わなくていい。俺には、穂積に礼を言われる資格はない。
その夜、そして次の日も、朝から時間の許す限り、俺たちは話し合った。
だが、とうとう妙案の浮かばないまま退庁時間になり、結局は無策のまま、ホテルのロビーに到着してしまった。
思ったより、穂積は落ち着いていた。
いざとなると開き直るタイプなのか、警備で修羅場をくぐってきたからなのか、それは分からない。
穂積はほとんど無表情で、エレベーターのボタンを押した。
こうして並んで立つと、穂積の方が5cm以上背が高い。
俺は穂積の顔を見上げた。
相変わらずきれいな顔だが、目の下に、うっすら隈が出来ている。
「穂積、大丈夫か?」
穂積は考え事をしていたようで、ぴくんと肩が揺れた。
穂積は反射的に俺の顔を見たが、一瞬の後、何も言わずに視線を前に戻した。
……何だろう、今の沈黙。
同時にエレベーターが目的の階に着き、俺たちは廊下に出た。
「……」
そして、指定された部屋の前に立つと、穂積は俺の方がびっくりするほど、あっさり、インターフォンを押した。
内側で待ち構えていたのか、扉は、すぐに勢い良く開いた。
「待ってたわ、泪クン!さあ、入って入って!」
声と同時に、露出の多いピンクのドレスを身に付けた奥さんが、部屋から飛び出して来た。
る、泪クン?
すかさず穂積の手を握った彼女に俺はぎょっとしたが、穂積は表情を変えない。
いや、心なしか、頬を緩めてさえいる。
「あら?小野瀬さんも一緒?」
奥さんが、穂積の数歩後ろにいた俺に気付いた。
きょとんとしながら、奥さんは答えを求めるように、穂積に視線を戻す。
すると穂積は奥さんの手を優しくほどいてから、数歩下がって頭を下げた。
「奥様、今日はお誘い頂いて、ありがとうございました」
礼儀正しく挨拶をする穂積に、奥さんは苦笑を浮かべた。
「泪クンたら、いつまでも他人行儀ね。もう、顔を上げて?」
そう、穂積はまだ、頭を下げていた。
「駄目なんです、ワタシ」
……ん?
……今、何か違和感を感じたのは気のせい?
「どうしたの、泪クン?もう、部屋の中に入りましょう?」
奥さんも、違和感を感じたらしい。
だが穂積は、奥さんに手招きをされても、俺の傍らから離れない。
「泪クン?」
ようやく顔を上げた穂積は、不意に、俺を見た。
「奥様、ゴメンナサイ!」
次の瞬間。
ぐい、と腕を引かれたと思ったら、俺の唇は穂積に奪われていた。
「!」
突然のキスに、俺の思考は反応出来なかった。
身体は咄嗟に離れようとしたが、穂積の方が力が強い。
奥さんの悲鳴が遠く聴こえる。
目の前、至近距離に穂積の顔がある。
角度を変えて、濃厚なキスが続けられる。
穂積の唇の柔らかさに、頭がおかしくなりそうだ。
唇が僅かに離れ、また重なる。
その刹那に穂積が、「合わせろ」と低く囁いたので、俺は我に返った。
力を抜いて、穂積に身を任せる。
唇が離れると、穂積は俺を抱き締めた。
「ワタシ、実はオカマで、コッチの人なの!だから、ゴメンナサイ!」
穂積が裏声で叫んだのを最後に、その場がしん、と静まり返る。
俺と穂積は、奥さんに視線を戻した。
彼女も、固まったまま、俺と穂積を見つめている。
……と。
「ぷ!」
突然、奥さんが噴き出した。
「ぷーっ!ふっ、あっははははーっ!」
笑いながらドンドンと壁を叩き、ジタバタと足を踏み鳴らす。
やがて、彼女は腹を抱え、涙を流してひーひー言いながら、大笑いし始めた。
いつまでもゲラゲラ笑っているので、俺は心配になってきたほどだ。
「あの…奥様…」
すると、奥さんは笑い過ぎて真っ赤になった顔を上げ、止まらない涙を手の甲で拭いながら、ぜいぜいと言葉を繋いだ。
「もう!やっだー!それならそうと、早く言ってよー!いやーん、男同士のキス、私、初めて見ちゃったわ!」
苦しそうにそれだけ言ったものの、まだ興奮がおさまらず、しかも笑いのツボに入ってて、抜けられないらしい。
「へっ、変だと、思ったのよ!泪クンって、全然、私に触れてこないし!」
奥さんはまた、さっきの穂積を思い出したように笑っている。
「でも、よりによって、小野瀬さんの事が好きだったなんて……小野瀬さんも気付いてなかったんでしょ?……ぷー!…し、仕方ないわね、許してあげるわ!」
奥さんはまだ肩を震わせて笑いながら、指先で涙を拭いた。
「泪クンみたいにキレイな人って、やっぱりソッチが多いのね……」
笑顔でしみじみ呟いたかと思うと、突然、奥さんは踵を返して部屋の中に飛び込み、すぐに、上着とバッグを抱えて出て来た。
「小野瀬さん、泪クンを幸せにしてあげてね。お願い。私、もう帰る。帰って……」
俺たちが乗って来たエレベーターに乗り込んだ奥さんの言葉の最後は聞き取れなかったが、こちらを向いた彼女の声は、はっきりしていた。
「泪クン、いえ穂積さん、そうとは知らず、長い間付きまとって、ゴメンなさいね!バーイ!」
閉じたエレベーターの扉の向こうから、再び大笑いが聴こえてきた。
徐々に遠ざかって行くその声を聞きながら、俺と穂積は、へなへなと廊下にへたり込んだ。