穂積の受難
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~小野瀬vision~
昨夜からの仕事が一区切りついたところで、俺は立ち上がって、身体を伸ばした。
「…うーん…」
時刻は午前3時。
立ち上がったついでに、休憩する事にする。
休憩スペースに歩いた俺は、金髪の男が自販機の前にいるのに気付いた。
先輩たちに頼まれたんだろう。何本も缶コーヒーを買って、ビニールの手提げ袋に入れている。
「穂積」
「おう」
俺の声に反応して振り向いたのは、俺と同期の穂積泪。
初対面以来、俺は、何度もこいつを合コンに誘い、その度に断られ続けている。
入庁から年が浅い俺たちはまだまだ下っ端で、俺は鑑識、穂積は警備で、お互い忙しい。
「お前も徹夜組か」
「本番直前だからな。いくら準備しても足りない」
穂積は、壁の時計をちらりと見上げた。
「鑑識も大変だな」
穂積は最後の缶コーヒーを取り出して袋に入れてから、俺に背を向けた。
「じゃあな」
両手にビニール袋を提げた穂積の背中に、俺は何となく声を掛けてみた。
「これが片付いたら、合コン行こ」
穂積が振り向く。
「行かねえって言ってるだろ!」
案の定、俺を睨んで怒鳴った。
深夜なので、小声で怒鳴るのが可笑しい。
笑っていると、穂積は不機嫌そうに俺に背中を向け、缶コーヒーの袋をガチャガチャ言わせながら、去って行った。
穂積が廊下の向こうに消えるのを見送ってから、俺は上機嫌で仕事に戻った。
さて、それから数日後。
穂積や俺を徹夜続きにさせた仕事もようやく解決し、懇親会が行われる事になった。
この会は年間予定に組み込まれているほど毎年恒例の行事で、警視庁内の親睦を目的としたものだ。
先に申し込めば参加者の家族も参加出来るため、かなりの人数が集まる。
今回は立食パーティーだった。
鑑識からも俺を含めて三十名ほどが加わり、会は和やかに進行していた。
俺の周りにはいつものようにたくさんの女の子、それから先輩たち。
俺は広い会場に穂積を探したが、見当たらない。
いつも組んでる先輩も何人かいないから、何か、急な用事が入ったのかもしれなかった。
会場を見渡していた俺は、一角に、何やら賑やかな場所があるのに気付いた。
そこは一際、談笑の声が大きい。盛り上がっているようだ。
離れた場所から眺めていると、その人々の合間に、某お偉いさんの姿が見えた。
今まであまり姿を見せなかった人だが、最近、庁内のあちこちで見掛けるようになった。
「あの人、最近、スッゴく若い女と結婚したらしいぜ」
俺の傍らから、先輩が囁いた。
「へえ」
反射的にちょっと覗きたくなったが、別の先輩が、ぐっと真剣な顔を寄せてきたので、やめた。
「俺、さっき見たよ。どう見ても二十代前半だ。しかも美人で、色っぽい」
「トロフィーワイフですか」
俺の言葉に頷いた彼は、さらに声を低くした。
「小野瀬、気を付けろよ。実はあの奥さん、若い男の人を漁るのが趣味らしいぞ」
「漁る?」
俺はぎょっとした。
「部外者なのに、庁内にもずかずか入って来るんですよー」
これは女の子たち。
「警察には若い男の人が多いから、獲物を探してるって噂です」
「実際、●●さんとか▲▲君とか、ちょっと格好いい人はすぐに捕まって、話し相手にさせられてましたよ」
冗談じゃない。
俺はようやく、状況を理解した。
「小野瀬なんて、真っ先に狙われそうだ。くれぐれも気を付けろよ」
「……ありがとうございます」
俺は改めて、会場を見回した。
状況は芳しくなかった。
ざっと見て、俺は一番若い層にいる。これはマズイ。
しかし、先輩たちからの情報で、とりあえず心の準備は出来た。
そんなに積極的な奥さんなら、遅かれ早かれ、俺の所にも来るに違いない。
俺は取り急ぎ身を隠そうと、一人で大ホールから出た。
そして、さりげなくロビーの端のソファーに腰掛け、対策を練り始めた。
どんな魅力的な女性であろうと、お偉いさんの奥さんなんかに関わりたくない。
万が一、二人きりになってしまった時に機嫌を損ねて、旦那にあること無いこと吹き込まれたら、もう一巻の終わりだ。
しかし、この限られた空間で、奥さんが俺の存在に気付くのは、もはや時間の問題に思われた。
下を向いてそんな事を考えていた俺の視界に、不意に、銀色のハイヒールがカツンと入って来た。
……まさかな。
顔を上げた瞬間、俺は、自分の考えが甘かった事を思い知らされた。
「小野瀬葵さん。お隣、よろしくて?」
この態度、この状況。
目の前で妖艶に微笑んだその美女は、噂の奥さんに間違いない。
俺の心臓が跳ねた。
俺は、まだひとつも逃げ道を見つけられないまま、内心の動揺を押し隠して、にっこりと微笑んだ。
「あなたと、ゆっくりお話ししてみたかったの」
「……光栄です」
奥さんは俺の左斜め前に座り、こちらに笑顔を向けた。
「声もステキだわ」
うわー。
俺が口説かれてる!
ちょっと新鮮!(バカ!)
自分でツッコミを入れながら、俺は奥さんの顔を見た。
近くで見ると、俺より一つか二つ、年上だろうか。
エレガントに波打つ髪、濃い眉、心なしか目尻の下がった二重の大きな目。艶やかな唇。
妖艶、という言葉の似合う、確かに美しい女性だ。
あのお偉いさんが、あちこちに連れて行って見せびらかしたくなるのも分かる気がした。
そんな事を考えながらぼんやりしていたら、奥さんはするりと俺の隣に座って、指を絡めてきた。
「葵、って呼んでもいいかしら?」
「どうぞ」
ヤバイヤバイヤバイ。
「キレイな髪の色ね。それに、目も、切れ長で、温かい色で、とってもステキ」
熱のこもった眼差しでうっとりと見つめられ、さらに大腿の上に手を載せられて、俺の思考回路はオーバーワーク寸前だ。
頭の中で、警報が鳴り続けている。
しかし、「髪の色がキレイ」と奥さんに言われたその瞬間、俺の脳裏に、突然、解決策が閃いた。
「奥様」
俺は、俺の髪を指先でいじり始めた奥さんの手を押し止めて立ち上がり、深々と頭を下げた。
「お許し下さい、奥様」
「え?」
奥さんの表情が曇った。その眉が吊り上がる前に、俺は片膝をついた。
「やっぱり、俺には、親友を裏切るような事は、出来ません」
「……何ですって?」
よし、気持ちが逸れた。
「実は、俺の親友が、奥様の事を好きなようです」
「え?」
奥さんの目がキラリと輝いたのを、俺は見逃さなかった。
「はっきり口に出したわけではありませんが、あいつの態度を見ていれば分かります」
「そんな……、小野瀬さんの親友って、どなたの事……?」
俺の呼び方が、「小野瀬さん」に戻った。
「ねえ、教えて。誰なの?どんな方なの?」
「あいつは、あなたとは叶わない恋だと知っています。だから、自分からは、あなたを好きだとは言わないでしょう」
「小野瀬さん」
奥さんが、また、俺にすがりついた。
けれどもう、さっきまでとは違う。
奥さんは、俺の語る「あいつ」に夢中だ。
「私も知っている方かしら。どの部署にいるの?」
実は、俺も、あいつの事はよく知らない。
じっくり話した事も無いし。
だから、ここであいつにこの奥さんを押し付けるのに、罪悪感が全く無いわけではない。
だが、今は、他に自分の身を守る方法が思い付かないのだ。
すまん、穂積。
「警備の、穂積です」
「嘘ーーーっ!!」
奥さんは、真っ赤になった自分の頬を、両手で押さえた。
「穂積さんが、私を好き?!本当なの、小野瀬さん?!」
キャーキャー言いながら、奥さんの笑顔はとろけそうだった。
「穂積さんて、あの背の高い、金髪の、超キレイな人よね!」
「ええ」
「警備の人って外回りばっかりだし、私の事なんか知らないと思ったわ。だから、今まで、あまり行かなかったのに……」
これからこの奥さんが穂積にどんな行動を仕掛けるか、俺にはだいたい想像できた。
さすがに少し胸が痛むが、初対面から気に障る奴だったし、まあ、いいか。
奥さんはあっという間に、穂積を探しに駆け出して行った。
俺は奥さんの背中を見送りながら、もう一度、心の中で穂積に手を合わせた。
それからというもの、穂積は毎日のように、あの奥さんに追い掛けられる羽目になった。
出勤時間に駐車場で待ち伏せしているのから始まって、デスクワークをすれば傍らに座ってうっとり眺め、肩を揉み、甘い吐息を吹き掛ける。
廊下に出れば追って来る。トイレに入れば覗かれる。無視していれば泣き出して、相手をすれば抱きついてくる。
奥さんは完全にターゲットを穂積一人に絞り、もはや穂積以外は見えないようだった。
穂積の方は困惑していて、なるべく離れようとするのだが、それは、奥さんからは「叶わぬ恋に身を引こうとする」ように見えているようだ。
穂積が逃げるので、奥さんはますます熱を上げて追い掛ける。
奥さんに迫られても、穂積には逃げるより他にない。
エンドレスだ。
日に日にやつれていく穂積を見掛けるたび、俺もさすがに、罪の意識が疼いた。