とある鑑識官の分析
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
検出した試料を装置に放り込み、どうにか終わりが見えてきたところでやっと、ひと息つく。
装置が分析する間、穂積が置いていった、やけに重い袋を開いて中を見れば、俺一人では食べきれない数量のおにぎりやお茶が入っていた。
……こんなに気を遣って。
あいつだって、キャリア採用とはいえ、まだ、俺と大して変わらない安月給のはずなのに。
……けれど、それより。
袋いっぱいに詰め込まれた経口補水液や、疲労回復の栄養ドリンクなどに紛れて、のど飴や、風邪薬の箱が何種類も入っている事に驚かされる。
小野瀬
「……風邪」
風邪……。
俺ははっとした。
小野瀬
「風邪か」
だから俺、このところ何となく体調が悪かったのか。
気持ちに余裕が無くなっているのも、そのせいか。
だから、穂積は今夜、遊びに来いよと俺を誘ったのか。
帰る為の口実が無ければ、俺はまた休日返上で働いてしまうから。
俺を休ませる為に。
さっき、穂積は普段着だった。
当たり前じゃないか。
あいつは休みだった。
あいつこそ休むべきだったのに。
小野瀬
「……」
俺ってやつは、どれだけ鈍感で自分勝手で意地っ張りなんだろう。
……ああ、熱が上がってきた気がする。
仕事の優先度、先輩たちの作り笑い、穂積の後ろ姿。
頭痛の間隔が短くなってきた。
自己嫌悪を紛らす為に、穂積のくれた風邪薬を飲むと、心なしか手足が重たくなってくる。
正直、もう仕事どころじゃなかったけれど、それでも、頭痛が和らいだおかげで書類の作成は捗り、どうにか、さっき穂積と交わした二時間の約束を守れるところまでこぎつけた。
≪最終確認をお願いします≫
きちんとまとめた分析結果の書類にメモを付け、上司の机の上に置いて、長く白い息を吐く。
そうだ。
開放感から、俺はついでに、明後日の病気欠勤届けも出しておこうと思いついた。
二月の夜に残業したんだ、不自然はないし、俺を置いて帰った先輩たちにも不在だった上司にも、誰にも文句は言えないはずさ。
何より、穂積が俺は風邪だと言っている。
明日と明後日、休めばきっと今よりは良くなる。
小野瀬
「『風邪によると思われる咽頭の痛み、節々の痛み、倦怠感及び発熱の為』……と」
開き直ったことで何となく気分は軽くなったけれど、ペンを置いた途端にどっと身体の重さが増したように感じたのは、きっと気のせいじゃない。
ぐずぐずと再び帰り支度をし、コートを羽織って、俺は廊下に出た。
警視庁の建物の中にはまだ膨大な数の職員がいるはずなのに、薄暗い廊下はひどく静かだ。
小野瀬
「……」
誰もいない、誰も俺を見ていない。
ふと、俺が頑張ろうと頑張るまいと、この巨大な組織の中ではたいした意味は無いんじゃないのか、なんて思ったりもする。
実際にはそんな事は無い。
俺の今夜の頑張りは、明日の捜査の助けになるはずだ。
そうでなきゃ、やってられない。そうだろう?
不毛な考えを浮かべたり自分で揉み消したりしながらラボの扉を施錠し、鍵を所定の位置に戻した俺は、コートを羽織って歩き出した。
建物を出ると、風邪のウィルスと戦うために上がってきた熱のせいか、暗闇に吹く夜風のせいか、寒気と孤独を強く感じる。
なんだか人恋しい。
いつもなら適当な女の子に電話するところだけど、今日はそんな気分にもなれない。
ほう、と息を吐き、背中を丸めて辿り着いた駐車場に、当たり前だけどすでに穂積の車は無かった。
小野瀬
(そりゃ、いないよね……)
ホッとした反面、少しだけ拍子抜けしたようで、はあ、と白い息を吐き出した時。
穂積
「おい、小野瀬」
街灯の明かりに浮かび上がった金色のシルエットに、俺は、目を見開いた。
車は停まっていなかった。
代わりに、穂積本人がそこに立っていた。
足踏みをしながら、せわしなく白い息を吐いて。
穂積
「終わったのか?」
小野瀬
「穂積!何で……?」
俺は思わず、小走りに穂積に駆け寄った。
が、穂積は逆に、駐車している俺の車に向かって歩き出す。
穂積
「うー寒!さっさと車のキー貸せよ」
小野瀬
「お前、自分の車は?」
穂積
「家に置いて来た」
小野瀬
「え?」
さっきコートのポケットに入れたキーを探りながら、俺は頓狂な声を出してしまった。
穂積
「最初からタクシーで来たんだよ。お前の車で帰るつもりだったからな」
小野瀬
「え、え?じゃあ……もしかして、あれからずっと待っててくれたの?!」
穂積
「あーもううるせえな。お前はネチっこいんだよ。女にも『早くして』って言われるんじゃねえの?それはそれで罪だぞ」
小野瀬
「言われるときもあるけどむしろ」
穂積
「お前の∞★※の時の♂%#が◆*▲だろうと●*▼だろうと興味はねえんだよ!早くしろ!」
小野瀬
「お前が話を振ったくせに。俺は◆*▲でも●*▼でもないし」
二人して品の無い言葉を応酬しながら、小走りに車に向かう。
穂積
「いいから早くキー貸せよ!俺まで風邪引いちまうだろうが!」
ぶっきらぼうに話を切った穂積は、俺の手から俺の車のキーを引ったくって、運転席に乗り込んだ。
照れ隠しとしか思えない。
穂積
「乗ったらさっさと横になれ。まったく、強情なんだから」
なおも文句を言ってくる穂積の態度に俺は笑いを噛み殺しながら、お言葉に甘えて助手席に乗り込み、のんびりと座席をリクライニングさせる。
小野瀬
「待っててくれたんだ」
穂積
「薬、飲んだんだろ。寝不足で。そんな奴に運転させられねえよ」
穂積が、脱いだばかりのコートを俺の方に乱暴に投げた。
小野瀬
「毛布代わりに掛けろ、って事だよね」
穂積
「勝手にしろ」
俺は穂積のロングコートに包まった。
まだ冷たい車内で、穂積の体温を蓄えたそれは、しみじみと暖かい。
冷えてささくれた心と身体に、穂積の温かさがじんわりと沁みてくる。
お礼を言おうと穂積を見れば、穂積は俺の車の運転席のシートを少し下げていた。
俺も足は長い方なんだけどな。
不意に、穂積の大きな手がこちらに伸びてきて、ぺたりと俺の視界を塞いだ。
ひんやりしていて気持ちいい。
穂積
「寝ろ」
小野瀬
「……穂積」
穂積
「何だ」
小野瀬
「……惚れそう」
穂積
「かなり熱あるな」
そうかもしれない。
冷たくて心地好かった穂積の手のひらが、俺の熱を吸って離れていくのが惜しい。
小野瀬
「ねえ、今夜は穂積の部屋に泊めて」
穂積
「あ?何言ってやがる、風邪っ引きの、しかも男なんか、お持ち帰りしたくねえよ」
そう言いながらも、穂積は交差点でウインカーを出し直す。
ふふ、本当に優しいんだな。
散らかってるから、かえって不健康になるんじゃねえか?なんて言いながら、穂積は、自宅に向かってハンドルを切った。
いいんだよ。
静かで清潔な俺の部屋よりも、冷たく整頓されたラボよりも、今は、がさつな穂積の脱ぎ散らかした衣類に埋もれたあの部屋で、穂積に怒鳴られながら眠りたい。
小野瀬
「一緒に寝てくれないかなあ」
穂積
「……大丈夫かお前、このまま夜間救急行くか?」
信号待ちで、穂積が俺を振り返る。
眼差しに込められた俺への心配が気持ちいいけど、それが恥ずかしくて、薄く開けていた目を閉じた。
小野瀬
「医者より穂積の方がいい」
穂積
「重症だな」
穂積の手が、今度は俺の首筋に触れる。
穂積
「……さっきよりは下がったような気がする」
小野瀬
「穂積のくれた薬が効いてきたのかも」
それでも、やっぱり穂積の手のひらの感触は心地好かった。
穂積
「そうか、じゃあ眠いだろ。寝ろ」
首筋から離れた手のひらが、ゆっくりと一度、俺の頭を撫でた。
穂積
「いい子にしてろ。きっと、すぐに良くなる」
子供に言い聞かせるように言って、俺から遠ざかった穂積の手は、アクセルを踏むのと同時にハンドルに戻されたんだろう。
……そういえば、弟が病弱だったって聞いたことがあるな。
……こいつ、結構いいお兄ちゃんだったのかもしれない。
……俺は穂積と同期で、俺の方が一ヶ月年上だけど。
穂積
「何か言ったか?」
小野瀬
「……眠くて死にそう」
欠伸混じりで答えると、ふっ、と穂積が笑ったのが分かった。
穂積
「だから、寝ろって。不本意だがお望み通り、俺の部屋に連れて帰ってやるからよ」
穂積の穏やかな声が耳に快い。
小野瀬
「穂積、一緒に寝てくれる?」
穂積
「それはお断りだけどな。まあ、朝までは一緒にいてやる」
小野瀬
「ふ、ははははっ」
穂積の返事に、俺は吹き出した。
穂積
「おい、おい大丈夫か?」
小野瀬
「あははははは!」
笑うと身体が軽くなる。
穂積
「大丈夫か小野瀬?」
目を開けば、本気で心配していそうな穂積の顔が見えてまた笑いたくなる。
微熱に浮かされたまま、俺は穂積のマンションに着くまでの車の中で、あれこれと気を揉む穂積をよそに笑い続けた。
なあ、穂積。
残業続きで帰宅出来なくて、
同僚に合コンに誘ってもらえなくて、
ひとり風邪を引いて。
仕事がきつくて寝不足続きで、
女の子たちには毎日のように失望させられて、
家族からは「物分かりのいい子だから」と突き放されて。
それならと意地を張るようになって、
本当は我儘な自分の姿をひた隠しにして、
顔には微笑を貼り付けて。
そんな俺でも、お前は、一度懐に入れたからには、見放したりしないんだな。
小野瀬
「……まあ、お前は俺にキスしたんだから、責任とってもらわなくちゃ……」
……ああ、本当にもう眠い。
何か言い返している穂積の声が遠くに聞こえる。
このまま本当に眠ってしまっても、こいつはきっと、自分のベッドまで運んでくれるだろう。
そうして俺は、きっとまた怒られるんだ。
しょうがねえ奴だなって。
でももう眠い。
久し振りに、よく眠れそうなんだ。
許してくれるよね、穂積?
穂積
「まったく、面倒臭え奴」
そう、口ではそう言いながら。
小野瀬
「おやすみ、穂積……」
穂積
「ああ。おやすみ、小野瀬」
ふふ。
朝まで一緒にいてくれる、だって。
まるで親友みたいだ。
~END~