とある鑑識官の分析
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~小野瀬vision~
終業時刻を報せる、俺の腕時計のアラーム音が鳴り始めた時。
それを遮るほどのけたたましい音を立てて、鑑識ラボの扉がノックされた。
いや、正確には「ノックされた」というよりも、「拳でガンガンガンと叩かれた」という表現の方が合っている。
「おい鑑識!誰かこれ頼む!」
大きな声と共に扉を開けたのは、刑事一課の男性警察官だった。
「明日の朝までに、これの付着物成分解析して、劇物が出れば製造会社まで絞り込んで欲しいんだわ」
言いながら、傍らのステンレステーブルの上に、大きなポリ袋に入った依頼品をどさりと置く。
それは、帰り支度を始めていた俺たち鑑識課にとっては抗い難い言葉であり、同時に、徹夜になるかもしれない、長時間の残業を予感させる音でもあった。
最も入り口の近くにいた俺は思わず室内を振り返ったが、先輩たちは、誰も目を合わそうとさえしない。
こちらに顔も向けない、あまりにもあからさまな態度に片っ端から殴ってやりたくなったが、この中では入庁二年の俺が一番下っ端だから、ぐっと堪える。
小野瀬
「お預かりします」
「朝イチで取りに来るからな」
縦社会の理不尽さに内心で悪態をつきながら、俺は、外面的には笑顔を浮かべて、中年の刑事から、依頼品の説明である付属書類の束を受け取った。
どうやら、袋の中味は、現在一課が捜査を始めた、連続殺人未遂事件の現場に脱ぎ捨てられていた作業着らしい。
容疑者に繋がる物的証拠の一つだと思われる、重要な遺留品なのだろう。
作業着には得体の知れない様々な染みが大量に付着しているのが明らかで、袋を開ける前から気が重くなる。
中年刑事は俺にすべてを手渡してしまうと、「じゃあ」とだけ言い捨てて、忙しそうに大股でラボを出ていった。
まあ、実際忙しいんだろうけどさ。
「悪いなあ、小野瀬。せっかく今日は全員、定時で帰れると思ってたのにな」
騒々しい刑事が去った途端、背後から間延びした声が俺に掛けられた。
この野郎。
小野瀬
「構いませんよ」
俺は後輩らしく、屈託なく笑ってみせる。
「さすが、科警研から出向のエリートは違うね」
「実際、小野瀬は一番若いけど、一番仕事が出来るし」
「実は俺たち、この後合コンなんだよ。『警視庁の光源氏』で、女なんか選り取りみどりのお前と違って、こっちは、バレンタインを一緒に過ごしてくれる相手を探す為に、今から必死なんだ」
小野瀬
「気にしないでください。残業は、おかげさまで慣れてますから」
「本当にごめんな。お前の彼女にも、謝っておいてくれよな」
皮肉も通じないのかよ。
本気で悪いと思っているなら、少しでも手伝ってくれていいはずだと思う。
延々と続く弁解や愛想笑いに辟易し、俺はこっそりと溜め息を一つついてから、分析作業の準備を整えた。
小野瀬
「どうぞ、お先に」
もう顔も見たくない先輩達にそう言って帰宅を促した後、俺はさりげなくラボを抜け出して、休憩所のベンチに腰かけた。
スマホ画面で、筆頭に登録してあるアドレスに発信する。
通話はすぐに繋がった。
穂積
『よう、お疲れさん』
小野瀬
「穂積、悪い。やっぱり行けなくなった」
穂積
『はあ?……今から分析か?明日でもいい作業なんじゃねえの?真面目か、ってか馬鹿かよ』
受話器の向こうから、そう言う穂積は本日公休。
俺は明日が公休日。
だから今夜は久し振りに穂積の家で飲もう、と誘われていたのに、行けそうにないと説明するのは辛い。
穂積に呆れられたものの、俺にはもう、受けた仕事を早く片付けて終わらせる以外の選択肢は無い。
そして、今夜は遅くなるかラボに泊まるかしかないのも確定だ。
穂積
『新人にこそ息抜きは必要だぜ』
小野瀬
「分かってるよ、でも仕方ないだろ」
不意に、このまま喋り続けていたら、穂積の正直な物言いにつられて、抑え込んでいる内心の鬱屈をみんな吐き出してしまいそうな思いに襲われた。
いつも冷静沈着で温厚な小野瀬葵の、誰にも見られたくない一面を。
小野瀬
「……とにかく、そんなわけだから、悪い。また今度な」
穂積
『あ、おい小野瀬』
もう一度、ごめん、と謝ってから少し強引に電話を切り、ラボに戻って、さっき脱いだ白衣をまた羽織った。
穂積と話して弾みかけた鼓動が、仕事着を着た事ですうっと収まってくる。
けれど、既に帰宅するつもりになっていたせいか、依頼品を見直してみたら穂積の言う通り、どうしても今夜片付けなければならないほどの緊急性は無いと思える仕事だったせいか、集中力は一向に上がらない。
それどころか頭痛がしてきた。
薄暗い室内を振り返っても、要領の良い上司や合コンで良い席を取りたい先輩たちの姿はとっくに消え、ラボに残ったのは俺ひとりだけになっている。
聞こえるのは俺の呼吸音と、分析機が立てている低いモーター音だけ。
まあ、仕事に追われて帰宅しそびれるのはいつもの事だし。
帰宅したところで、待っているのは誰もいない部屋だけだし。
一人の方が煩わしくなくて良いさ。
そう考えて自分を納得させようとしながらも、何となくじわじわと苛立ってきた頃、再び、ドアにノックの音がした。