水ナス検事奮戦記
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穂積
「……あら、この件で来たんじゃなかった?」
顔をこちらに向けて俺の反応を見ていた穂積が、首を傾げる。
俺は慌てて、首を左右に振った。
藤守兄
「いや、違わない。これだ」
俺は顔を引き締めた。
《老人ホームグリーンヒルズにおける高齢者殺傷事件》
これは現在、俺と、櫻井判事が担当している裁判だった。
『グリーンヒルズ』というのは、都内にある老人ホーム。
そこで、88歳の金子という男が、95歳の村松という男を殴り殺したのだ。
被害にあった村松は、戦争当時、金子の上官だった。
金子の証言によれば、殺害動機は『もうろくした村松が、大日本帝国時代の重要機密を漏らしそうになったから』だと言う。
この平成の世に時代錯誤も甚だしい話だが、金子に殴られた村松が、倒れた弾みでコンクリートブロックに側頭部を打ち付け、それが致命傷になったのは間違いない。
その時、現場には、職員二人と、入居者五人も居合わせていて、事件を目撃していた。
金子はその場で逮捕された。
目撃者全員の証言に食い違いは無く、現場の状況も、証言と一致している。
捜査にあたった警視庁捜査一課からは、老人どうしの口論に端を発した傷害致死事件として、検察庁に送られてきた。
動機はともかく、単純な構造の事件だと思われた。
だが……。
送検されては来たものの、実は、この事件は、そう単純なものではなかったのだ。
穂積
「問題は、金子の方はボケてない、ってところよねえ」
ずばり、と、穂積が核心を突いた。
穂積
「金子が認知症を患っていれば、不可解な動機でもそのまま老人の妄言で済み、罪は軽減される」
藤守兄
「うむ」
穂積
「けれど、金子が認知症でない事は施設の職員たちが認めているし、金子本人も、自分はまともだ、罰を与えろと言い張っている」
藤守兄
「……うむ」
これには俺も唸るしかない。
藤守兄
「その通りだ。しかし、金子が正気で、しかも明らかな殺意を持って行動したとすれば、検察側は、罪を償わせる代わりに、その動機を証明しなければならない」
穂積
「そうなるわね」
藤守兄
「しかし、金子は88歳で、身寄りも無い、財産も無い、身体は癌に蝕まれて弱っている。村松の遺族も、裁判の長期化を望んでいない……」
穂積は俺の話を聞きながら、手にした扇子で、とんとんと自分のもう一方の手を叩いている。
穂積
「そうね」
藤守兄
「普通なら、検察側からは殺意や動機が不明確なままであれば加重過失致死、明確であれば傷害致死を求刑する案件だ。……だが、正直、俺は、弁護側が主張する、心神喪失で無罪でもいいと考えている」
穂積の口元が、微かに緩んだ。
しまった、喋りすぎたか。
藤守兄
「こ、高齢のしかも病人だからな!罰金刑で済ますか、施設で保護監察をつける方が妥当ではないかと思うだけだ!」
穂積は俺の手から、静かにファイルを抜き取った。
藤守兄
「おい、穂積……」
穂積
「この事件の捜査は、一課からウチが引き継いだと言ったでしょ。いずれにしても、曖昧なままでは終わらせないわ」
今度ははっきりと、穂積は綺麗な笑みを浮かべた。
穂積
「任せて頂戴」
その表情を見て、俺はハッとする。
藤守兄
「穂積、もしかして、裁判が停滞しているのを憂いて、判事が直接、お前に」
穂積
「アニ」
穂積が、唇に人指し指をあてて見せた。
穂積
「迂闊な事を言うものじゃないわ」
ぐ、と、俺は、言葉の続きを飲み込んだ。
穂積
「今回引き受けたのは、ワタシがこの事件に関心をもったからよ。正義の秤を持つ判事からも、六法全書を抱える検察官からも、何も頼まれてはいない。でしょう?」
藤守兄
「あ」
穂積
「強いて言うなら、櫻井の為ね。事件の真相を明らかにして、父親と恋人の窮地を救えたなら、一人前の刑事に近づいた証になるでしょう」
一人前、という言葉に、やはり判事の存在を感じた。
だが、穂積の配慮に敬意を表して、それはもう口に出さない。
恩に着る、という言葉も、飲み込んだ。
藤守兄
「……穂積」
穂積
「否定しないのね」
藤守兄
「は?」
穂積
「今、ワタシ、アンタの事を『櫻井の恋人』だと言ったつもりなんだけど」
藤守兄
「はっ!」
しまった。
穂積は盛大に噴き出し、一頻り笑ってから、立ち上がった。
穂積
「安心したわ」
藤守兄
「?」
穂積
「アンタが、アンタから見たら虫けらみたいな老人の言動や人生でも、大事に考えられる男だと改めて知る事が出来て」
藤守兄
「お、俺はただ検察官としての自らの正義をだな!」
穂積
「はいはい」
穂積がひらひらと手を振る。
穂積
「さあて、グリーンヒルズの再調査に、来日するトルキアの王女の護衛。週明けからは捜査室も忙しくなるわ。前払いで一杯おごってもらいましょうか、アニ?」
藤守兄
「ぐぬぬぬ」
俺は、あっという間に穂積の術中に落ちた事を悟った。
判事の事も、盆栽の事も、聞きそびれた。
だが、穂積に肩を抱かれて居酒屋に引きずって行かれながら、何ともいえない安心感に包まれたのもまた、事実だった……。