水ナス検事奮戦記
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~藤守兄vision~
いつのまにか春が去り、季節は夏になろうとしている。
春の次に夏が来るのは、この国では当たり前。
去年までの俺なら、去り行く春にも、夏の到来にも、何の感慨も抱かなかっただろう。
だが、今年。
その、当たり前に過ぎてゆく日々の美しさを、大切さを、俺は、初めて出来た恋人に教えられて知った。
二人で肩を並べて歩きながら、俺は、すっかり緑一色になった葉桜の並木を、黒い傘越しに見上げる。
藤守兄
「このところ雨続きで、だるくてかなわんな」
翼
「あのね、雨の時にだるいのはね、気圧が低くなると、副交感神経が優位になって、リラックスし過ぎてしまうからなんですって」
藤守兄
「ほう。物知りだな。それとも、お前のところのメガネの受け売りか?」
視線を戻しながら、少し意地悪な切り返しをしてしまったかな、と一瞬思ったが、彼女は、にっこりと笑った顔で俺を見上げてきた。
翼
「えへへ。当たりです」
……くっ、可愛い。
俺とした事が、迂闊にも、つられて頬を緩めてしまいそうだ。
彼女の名前は、櫻井翼。
警視庁刑事部の雑用……緊急特命捜査室に所属する、捜査員の一人だ。
彼女と俺とは、まだこの桜の蕾が硬かった頃に、一人の、アフロヘアーの男の失踪をきっかけに知り合った。
白井という名前のその男は、俺の勤務先である検察庁での、上司の、奥さんの、姉の、夫の、従弟。
俺の上司の、奥さんの、姉の、夫の、従弟だ。
俺は、この男の行方を探して欲しいと上司から頼まれた。
もちろん一度は断ったが、上役から再三手を合わせて頼まれれば、頷かざるをえない。
警察同様、検察もまた縦社会なのだ。
しかし、俺は、大学在学中に司法試験に受かってしまったほどの、自他共に認める筋金入りの頭脳派だ。
一週間ぐらいは、仕事の合間に白井の近所で聞き込みをしたり、行方不明になってからの足取りを辿ってみたりと、俺なりに努力してはみた。
しかし、畑違いの人探しには自ずから限界があり、俺の煌めく才能をもってしても、それは一向にはかどらない。
どころか、そちらに無駄な時間と労力を費やされて、本業に差し支える寸前の状態にまで陥ってしまったのだった。
捜索が行き詰まった時、俺は、穂積の存在を思い出した。
穂積は、俺と同期に霞ヶ関入りした警察庁のキャリアで、現在は警視庁の刑事だ。
普段、特に親密な付き合いはしていないが、同期とはいえ、俺が一年海外留学していたために、相手は年下。
しかも、年下なのに、同期だからいいはずだとでも考えているのか、この俺に対して、遠慮の無い物言いをしてくる。
穂積は、俺にとっては数少ない何でも言い合える友…いや、恥を忍んで相談したとしても自尊心に傷が付かない、貴重な相手であった。
穂積なら捜索は本職だし、噂ではそこそこ有能らしいし、直属の部下には、俺の愚弟の賢史もいる。
何も事件になっていない人探しは警察の仕事ではないという事を、俺は知っている。
知っていながらも手伝ってもらいたい、と思うのは、理不尽な要求だ。
理不尽だという事は百も承知で、それでも、背に腹は変えられず、俺は、穂積が室長を務める、雑よ……警視庁、緊急特命捜査室に向かった。
そして、彼女に出会ったのだ。
どうしても素直に下手に出て頼み事の出来ない俺の性格も災いして、予想通り、穂積をはじめ捜査室の反応は「成人の家出は捜査の対象外」というものだった。
そのなかで、彼女だけが、協力を引き受けてくれた。
……まあ、「お前のこぼした紅茶のせいでスーツに染みがついた」と因縁をつけ、「弁償する代わりに協力しろ」と引き受けさせたのだから、多少強引だったのは否定しないし、穂積が黙認してくれたふしもある。
だが、何はともあれ、その白井の捜索をきっかけに、俺は櫻井と密に連絡を取り合い、頻繁に会うようになったのだった。
俺が彼女に惹かれるようになるまでに、時間はかからなかった。
ただ若くて可愛いだけの新入りだと思った第一印象は、一緒に白井の行方を捜し始めるやいなや、たちまち覆された。
彼女は、捜査員として、素晴らしいセンスを持っていた。
まず、記憶力が神がかっている。
以前、一瞬しか見なかったはずの写真に写りこんでいた小さな看板を彼女が記憶していた事に驚かされた、と鑑識の小野瀬が言っていたが、納得出来た。
彼女は、一度見知ったもの、特に、出会った人間の顔や名前を忘れない。
それは相手が痩せようが太ろうが、年をとろうが、意図的に変装していようが、関係無い。
白井も、アフロヘアーを短く刈ろうと、浮浪者に身をやつそうと、彼女の目から逃れる事は出来なかった。
あの実力主義の穂積にスカウトされて捜査室に入ったというのは、伊達ではなかったのだ。
しかも、彼女は、自分で言うのも何だが気難しく、厄介な性格のこの俺を信頼し、公私に渡って、けなげに尽くしてくれた。
素直で思いやりがあるうえに、鷹揚で我慢強く、かつ優しかった。
料理はまだ勉強中だと言いながらも、彼女の作るスコーンやサンドイッチは美味かった。
やがて白井の失踪が事件性を帯び、捜査室の協力が得られるようになった事も、俺に幸いした。
俺は何だかんだと口実をつけては彼女を呼び出し、共に過ごす時間を楽しみにするようになり、会えば別れを惜しむようになっていった。
だが、事件が解決すれば、彼女との繋がりが切れてしまえば、どんなに会いたいと思っても、会えなくなってしまう。
自分から誰かを好きになった経験の乏しい俺は、そんな心細い気持ちのやり場を知らなかった。
それでも、繋ぎ止めたかった。
だから、別人に化けていた白井がついに見つかり、さらに、白井が隠していた高価な茶碗も見つかって、いよいよ事件の終わりが近付いた頃、俺は、思い切って、真正面から頭を下げた。
藤守兄
「俺と交際してください」
駄目で元々だと思っていた。
それまでの俺にとって、交際というのは常に相手から申し込まれるもので、自ら心を動かされて挑むものではなかった。
本来、俺ぐらいの年齢の男であれば、想いを伝えるのには、まずそれなりの雰囲気がある場所を選び、さらには歯の浮くような気の利いたセリフを用意して、かなりの勝算を持ってから、事に臨むものであろう。
そう、小野瀬や穂積であれば。
だが、俺は恋愛に関する方程式を知らなかった。
当然、勝算を弾き出す術も持っていなかった。
まして、相手がうっとりするような高度な技など使えるはずもなかった。
俺にあったのは、ただ、彼女と過ごせる時間を引き延ばしたい、その思いだけだったのだ。
俺は、場所もあろうに警視庁で、高校時代に女子から交際を申し込まれた方法そのままに、彼女の前で頭を下げた。
交際を申し込むのも初めてなら、年下の女に頭を下げて頼み事をしたのも初めてだ。
単刀直入、手練も手管もあったものではない。
そもそも交際というものがよく分かっていない。
ところが。
俺のそんな不器用な告白に、彼女は、なんとその場で、こちらこそよろしくお願いします、と返事をくれたのだった。
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