だいじにさせてよ!



 果ての宙の絶望を退けて、世界がまた明日へ向かって進み始めた頃。
 大きな混乱が生じなかった第一世界の暮らしに劇的な変化はなく、リーンはその日も、いつも通りの今日が来てくれたことへの感謝を噛みしめながらカーテンを開けた。朝方の陽射しはすっきりとした明るさで、寝起きのリーンの瞳にも眩し過ぎない。窓を開ければ清らかな空気が舞い込んできて、それを胸いっぱいに吸い込んでから「よし」と小さく声を上げる。
 今日は、原初世界に暮らすリーンの恋人――カムイルがまた、第一世界に戻ってきてくれる日なのだ。
 表向きには解体された暁での活動がなくなり終末終息後の事後処理を終えたカムイルは、また次の冒険へと声がかけられるまでの余暇期間を、リーンが暮らす第一世界で過ごしてくれるようになった。元々原初世界の住人なので向こうでの用事があるときは戻ってしまうものの、それ以外はペンダント居住館に用意された彼の部屋で過ごしてくれているので、リーンも気兼ねなく彼の部屋へと通うことが当たり前になっていた。
 はれて恋人同士になり交際が始まったとはいえ、カムイルは未成年のリーンに優しく接してくれているため、二人の関係に大きな進展はない。もちろん、男女の情を交わすような状況にもならないため、部屋に遊びには行くが毎回日帰りになる。時には部屋で振る舞われるディナーの席にガイアも招待して、夜遅くなってもリーンが帰りやすいように気を遣ってくれているくらいだ。そうやって大事にされているのだと気付くたびにカムイルの細やかな優しさを感じて、自分は愛されているのだという実感が、じんわりとリーンの胸をあたたかくしてくれる。だが、
「…………」
 ここ数日――カムイルが所用を済ませるために原初世界へ戻ったタイミングを境に、カムイルの紳士的な態度にじれったさを感じるようにもなってきてしまったのだ。

 愛されていることも、大切に扱われていることも、わかっている。その上でカムイルには体の触れ合いへのトラウマもあることから、リーンを不用意に傷つけないようにと慎重になってくれていることも重々承知している。
 それでも年頃の乙女心というものは如何様にも抑えがたく、ましてや想い人と気持ちが通じ合っているとわかってしまった今、その人と触れ合いたいという憧れは、リーンが止めようにも溢れて止まらないのだ。
 なにも、一線を越えたいというわけではない。でも、その手前のステップとして、手を繋いだり、抱き合ったり、頭や頬を撫でてもらったり…――欲を言えば、唇同士でキスを交わしたり。そういうことをしてみたいという想いは、当たり前のようにある。まだ大人ではないとはいえ何も知らない子供というわけでもないのだから、そういう願望を胸に抱くことくらい許してほしい。
「はあ……でも、言ってもカムイルを困らせるだけだよね」
 ガイアには「アイツは信じられないくらい奥手だからリーンから押さないとダメ」なんて言われてしまったが、言えば絶対に彼を困らせてしまうこともわかっている。鏡を見ながらトレードマークのリボンの編み込みをしていたリーンは、きゅっとリボンを引き結んだその指を自身の両頬に当てて、ふにっ、と柔らかな肌を突いてみた。
「私って、そんなに子供っぽいのかな…」
 華やかな顔立ちのガイアやエルフ族特有の美しい容姿をしていたアリゼーと比べられると確かに幼い顔立ちかもしれないが、それでも年相応の成長はしていると思うのだが。それらしい素振りをまったく見せないカムイルのことを思い返すと、もしかしたら自分の見た目が幼すぎて、彼自身がそういう気持ちにまだなれないのではないかとも考えられる。
年齢差があることも、リーンの歳が適齢期に追いつくまでゆっくり関係を深めていくことも、すべて飲み込んで彼と愛を確かめ合っていこうと決めたはずなのに。どうして鏡に映っている自分の顔は、こんなにも不満で淋しそうな表情なのだろうか。
「……ううん。今日からまた一緒に過ごせるんだから、気持ちを切り替えなきゃ!」
 曇った顔をしていたら、カムイルに要らない気を回させてしまう。リーンは表情を揉みほぐすように両頬を何度かマッサージして、それから笑顔の練習をしてから足早に自室を飛び出していった。


 部屋の合鍵は受け取っているものの、リーンは必ずノックと共に声をかけて、中にいるカムイルに訪問を知らせてから扉を開けている。いつもなら「どうぞ」や「入って」と入室を促す返事がすぐ聞こえてくるのだが、今日は珍しく「ちょっと待ってて」と声が返ってきた。朝型のカムイルなので起床してから時間は十分経っていると思ったのだが、間が悪かっただろうか。
 リーンが少しそわそわしながら待っていると、扉の向こうから隠さず近づいてくる足音と、それからすぐに扉が開いて白衣姿のカムイルが顔を見せてくれた。数日会えなかっただけだが、その顔を見ると会えなかった時間の淋しさとこうしてまた一緒に過ごせる喜びの両方が胸の奥から同時に沸き上がってくる。そのどちらもが入り混じって感極まった表情になってしまうリーンを見下ろして、カムイルは苦笑を漏らしつつ、入室を促すように扉から半歩身を引いた。
「ごめんね。ちょっと薬品をいじってたから、いきなり部屋に入ってくると匂いがキツいと思って」
「薬品?」
「うん。あっ、だからこれつけて」
 これ、とカムイルが手に持っていた耳掛けのマスクをリーンへ差し出す。
「体や髪を洗うときのソープを考案してて…それの香りを何パターンか試してるんだ。俺はもうずっと作業してて鼻が少しバカになっちゃってるけど、いろんな匂いが混ざってるから、リーンはマスクしないと気持ち悪くなっちゃうと思って」
「もしかして、ご実家のお手伝いですか?」
「うーん…まあ、そんな感じ」
 マスクをつけながら事情を察して訊ねるリーンに、カムイルは少し困った表情になって肩を竦める。
「友好部族との調停問題とか帝国との戦争とか、目の前に迫っていた武力的な問題がいくつか解決したからね。戦時用の薬品をいつまでもメインの稼ぎ頭にはできない、ってさ。これからは日用品として消費されるものを市場に流していきたいから、何か興味あるものがあれば試作品をつくってみろって、兄上達に言われちゃって」
 愚痴混じりに話の続きを語って聞かせながら、カムイルは居室にある大きな窓を開けて空気の入れ替えをする。外気が入り込んでくると締め切った室内にこもっていた匂いがふわりと風に乗って、マスク越しのリーンでも何種類も折り重なったような香りに鼻腔を擽られる。カムイルが言っていたような不快感はなく、最近になってユールモアにオープンした香水店の前を通ったときに心惹かれる香りが誘うように漂ってきた感覚を思い出した。
 部屋の奥へと踏み込むと馴染みのペンダント居住館の内装は少し様変わりしていて、ダイニングテーブルのあったスペースには錬金術に使うと思われる道具や素材を揃えた棚が並んでいて、作業台の大きな木製テーブルの上には試供品と思われる石鹸が固形、液状問わずいくつか置いてある。いい香りがするので思わず近くで見たくなってしまうが、危険な薬品もあるかもしれないと思うと、リーンは好奇心をぐっと抑えて部屋の奥にあるベッドの上へと腰を落ちつけた
 リーンが見守る前でカムイルは簡単に作業台の上や薬品棚を整理して、調合用にまとっていた白衣を脱いでからリーンの隣に腰を下ろす。
「匂い大丈夫そう?気分悪くなりそうだったらしばらく外に出ようと思うから、我慢しなくていいんだよ」
「平気です。香水屋さんや化粧品が並んだ棚の近くにいるときみたいで、なんだかすごくわくわくします」
「本当に?リーンぐらいの年頃の女の子が興味もってくれる香りなら、よかった」
 カムイルが手に持っていたノートを広げて見せてくれたので、リーンも少し身を寄せてその中身を覗き込む。書いてあることの詳細まではわからないが、調合用のレシピと商品化された際のパッケージ案のイラストが描かれたアイディア帳のようだった。
「すごい…これ、カムイルが考えて描いたんですか?」
「全部自力じゃなくて、アリゼーちゃんとか、ヤ・シュトラとか……知り合いの女性陣の意見も参考にしつつだけどね。香りのイメージとかも書いてあるから、好きに見て気になるものがあれば教えて」
「わあっ、ありがとうございます…!」
 夢のようなノートを手渡され、受け取ったリーンは興奮を抑えきれずにページを捲った。

 最近になってクリスタリウムもユールモアも日常生活に余裕が出てきたせいか、様々な店舗がカタログやパンフレットを用意して配ってくれるようになった。リーンはその手のものを眺めるのが大好きで、ついついガイアを捕まえては、しばらく買う予定もない化粧品の一覧を眺めたり、行きつけのカフェで新しく提供されるケーキの中のどれから食べようかと相談したりするのが楽しくて仕方ないのだ。
 ましてや、大好きな恋人であり職人としても尊敬しているカムイル直筆のアイディア帳ともなれば、舞い上がるなと言われても気持ちの抑えようがない。次々と捲るページの先には価格帯もデザインも様々な種類のものがあって、リーンの目と好奇心を飽きさせない。中にはハンドクリームやリップバームのアイディアもあって、リーンは隣に座るカムイルが優しい眼差しを向けていることにも気づかず、感嘆の声を上げながら夢中になってノートのページというページを何度も往復した。
「お気に入りのやつは、見つかった?」
「こんなにたくさんあるのに、一つなんて絞り込めませんよ……あっ、でも」
 全部のアイディアが魅力的ではあったが、その中でも自分が普段使いするのなら――という観点で見て気になったものはあった。無意識に指を栞にして挟んでいたそのページを開いて、隣のカムイルにも見やすいように広げる。
「この、シャンプーとトリートメントとボディソープが、一緒になっているシリーズのやつ。髪と体の両方で使うことで香りが重なるっていうのが気になって……ボトルのデザインもかわいいから、シャワールームに置いておくのもいいな、って思って」
 ピンクゴールドとオフホワイトの柔らかな色使いながら、縦長でシンプルな形状のボトルデザインで甘すぎない印象のパッケージ案が描かれたソープのセット。近頃ではミーン工芸館などからもボディケア用品のセットが提供されているのを見かけるようになったが、それぞれの香りを重ねるというアイディアで売り出しているものは珍しい気がしたのだ。
 普段使いで香水をつけるのはまだ気が引けるが、髪や体を毎日洗うソープから香りの印象づくりができるなら興味がある。そんなわけでリーンが気になったアイディアだったのだが、妙に反応が鈍くなったカムイルの顔をリーンが見上げると、カムイルはレンズ越しの視線を明後日の方向に逸らしながら「あー…」とばつが悪そうな表情を浮かべていた。
「カムイル…?」
「えーっ、と……さすがに一発でバレるとは思わなくて、恥ずかしいというか…」
「……?」
 要領を得ないカムイルの言葉に、リーンは見上げたままの角度で首を傾げる。その反応を横目でちらりと見下ろしたカムイルは、一つ大きく深呼吸してから観念したように口を開いた。
「あの、ね……そのアイディアは、なんというか……正直に白状すると、その…リーンのことをイメージして、考えたやつで……」
「…………」
「だ、だから…っ、リーンが使ってくれたら嬉しいな、と思って考えてたやつを、本人が気になるって言ってくれて……嬉しいけど、なんか、俺の考えがバレバレだったみたいで物凄く恥ずかしいというか……」
 しどろもどろに白状したカムイルの顔がじわじわと赤くなり、カムイルの言わんとすることを理解したリーンも遅れて、かぁ…っと頬を赤くする。
 だって、こんなに幸せなことがあるだろうか。カムイルがリーンのことを想いながら考えてくれたアイディアがあって、それが、自分が意図せず直感的に選んでしまうほど好みに合致したものだったなんて。スキンシップの触れ合いが増えないことへの淋しさなんて吹き飛んでしまうくらい嬉しくて、思わず瞳が潤んでしまう。カムイルはカムイルでリーンが真っ先に選んでくれるとは思ってなかったようで、頭を抱えて「あー」「うー」と堪えきれない唸り声を上げている。
「カムイル、あの…っ」
「な、なに…!?」
 もしこの三点セットの試供品が今ここにあるのなら、ぜひとも使わせてほしい。そんな思いでずい、と身を乗り出すリーンに、顔を上げたカムイルは驚いた様子で詰められた分だけ上体を仰け反らせながら応える。
「このシャンプーとコンディショナーとボディソープのセット、もし試供品があるなら使わせてもらいたいです…!私の髪質と肌との相性にはなってしまいますけど、使ってみた印象や気になったところもしっかりとレビューします!」
「う…うん…!あるにはあるけど…ッ」
 高揚している分だけ思わず前のめりになるリーンに、その分だけ仰け反るカムイルの上体がベッドへ倒れそうになる。肘をついてそれを寸でのところで堪えたカムイルは、迫るリーンから逃げ出すようにベッドから腰を上げた。いそいそと作業台の端に並べてあるサンプルの中からまだ調合用の瓶に入ったままのものをピックアップして、それを少量使い切りサイズの容器に移し替えてから再びベッドに戻ってきてくれる。隣に座ってサンプル入りの紙袋を渡すその表情は幾分か落ちついた様子だが、まだ恥ずかしさが引かないのか、視線がなかなかリーンと合わない。
「じゃあ、これ…たぶん十日分くらい。どのボトルに何が入っているかラベル貼ってあるから、確認しながら使ってみて」
「ありがとうございます」
「髪や肌に合わなかったら、無理に使い切らずすぐ俺に教えてね。あと、その手のトラブルがなかったとしても、香りの相性が悪くて気になるようだったら途中でもやめて大丈夫だから」
「はい。カムイルを心配させるようなことはしないから、安心して下さい」
「……うん、ありがと」
 最後にようやく視線が重なって、カムイルが穏やかな微笑みを見せてくれた。リーンも淡い笑みでそれに応え、膝の上に抱えていた紙袋をベッドサイドのテーブルの上に置く。
「私、いつか香水もつけてみたいと思うんですけど、匂いの印象って人によって違うから…自分にどんな香りが合うのかもわからないし、難しくて」
「自分が身につけていてリラックスできるものが一番だと俺は思うよ。さっき渡したやつはあまり強い香りが残らないけど、髪が揺れたりしたときにほんのり香ると思うから、それでどんな感じか確かめてみて」
「そういえば……カムイルは、今日は香水をつけていないんですか…?」
 そもそもリーンが香水に興味を持ったきっかけは、カムイルがつけていたからだ。常に主張するような強く濃いものではないが、近くで動いたときに、ほんの少しだけ、淡く温かみを感じるような香りがすることがある。だが今日は隣で立ち座りの動きをしてもそれが目立たないので訊ねてみると、「そりゃあね、」と肩を竦められた。
「香りの調整してるのに自分がつけてる香水の匂いまでしたら、感覚鈍っちゃうから。嗅覚をリセットできる点鼻薬を使いながら作業してたんだけど、それでも誤魔化しきかなくなってきたし……ちょうど、リーンが来たタイミングで休憩しようと思ってたんだ」
「そっか…でも、お仕事の邪魔にならないタイミングだったならよかったです」
「ん。そういうわけで部屋の換気にもまだ時間がかかりそうだし、早めのランチがてら外に出かけよっか」
「はいっ!」


 ベランダ側の窓は開け放ったまま部屋の入口には施錠をして、念のために管理人にもその旨を伝えてから、すっかり常連客に逆戻りした彷徨う階段亭へと向かう。以前より生活が安定して利用者が多くなったのか席数がまた増えていて、奥の方でサイエラが新人らしいウエイターをフォローしながら忙しそうにしている姿が見えた。
「なんだか、俺がこっちに来るたびにお客さん増えてるね」
「はい。最近はミーン工芸館で働く職人の数が増えたから、その人達が休憩で利用する機会が増えているみたいなんです」
「へえ、」
 カムイルが以前に顔を出した際、カットリスは日常生活を支える物資の需要や提供が増えてきていると話してくれた。罪喰いやヴァウスリー治世下のユールモア軍のような武力による脅威が落ちついた今の第一世界やクリスタリウムにおいては、当然の流れだろう。その日を生きることが精一杯だった人々が手に職をつけて新たな暮らしを始められていることは、ひいては国や都市の復興、成長にも繋がっていく。今の第一世界に起こっている暮らしの変化は、きっと、これからエオルゼア諸国やラザハン――そしてガレマルドにもやがて訪れることになるだろう。原初世界の未来の姿を見ているようで、カムイルは感慨深くなってじっと辺りの様子を見つめてしまう。
「…キャメさん、注文はどうしますか?」
「ん?……ああ、ごめんね」
 メニュー表を差し出してくれているリーンにようやく気付き、受け取って内容を確認する。カムイルの思った通り、前に利用したときよりも提供品のバリエーションが増えていた。中には工芸館イチオシの新作メニューなんて宣伝文句まで添えられているものもあって、クリスタリウムがさらに活気づいてきている証がこんなところにも垣間見える。
「メニューたくさん増えたんだね。こっち来ても自炊ばっかりしちゃうから、久々に食べにくるとびっくりするよ」
「キャメさんはきっと、新作のパイシチューが好きだと思いますよ。中にごろごろ野菜がたくさん入っているんです」
「なにそれ、絶対においしいじゃん」
 リーンが自分の食の好みを覚えていてくれたことが嬉しくて、カムイルはおすすめされるがままパイシチューとサラダがセットになったランチメニューを注文することにした。混雑がピークになりつつある今の時間では提供にも時間がかかることは想像に難くないため、のんびりと注文を待つことにする。その間に何を話そうかと話題をいくつか探すカムイルより先に、リーンが少し心配そうな顔をしながら口を開いてくれた。
「もしかして、ご実家のお手伝いとかがあって疲れていませんか…?何も考えずに会いに来てしまって、すみません…」
「いや、そんなことないから謝らないで…!さっきはただ、お客さん多いなあ、って周りを眺めてただけだから…」
「本当に?」
「本当だよ、」
 腕を伸ばして、まだ少し不慣れでぎこちない仕草でリーンの頭をぽんぽんと撫でる。
「昨日まで向こうの世界に戻っていたのも、別に仕事や依頼があったわけじゃないから。終末の騒動が落ちついたついでにお酒飲める年齢になっちゃってたから飲酒解禁したんだけど、そしたら、いろんなところから祝賀会ついでの飲み会に誘われることが多くてさ」
「なんだか、それはそれで大変そう…」
「いや、そうでもないよ。もうおきゃめの影武者しなくていいから、行きたくない集まりならあいつのメンツ気にしないで断れちゃうし、周りの人達も俺のそういう性格に気付いてくれているみたいで、強引な誘われ方はしなくなったしね」
 強引な誘われ方はしなくなったものの、飲みの席に行ってもいいと思えるメンツで集まる席では必ず、リーンとの関係の進捗について突かれることにはなってしまったが。話している内にそのことを思い出して、カムイルはリーンの頭に添えたままにしていた手を戻した。
 こうしてたまに頭や髪を撫でることはあるし、抱きしめ合ったこともある。だがきっと、その頻度はかなり少ない方なのだろう。実際、酒の席のつまみに交際の状況について聞かれてありのままを白状すると、「健全すぎて逆に不健全」「不安にさせてそう」「キスくらいしてやれよ」と友人知人に呆れた顔をされている。昨日の飲みの席でもそうだった。
 カムイル自身とて、別に、まったくその気がないわけではないのだ。リーンは未成年とはいえ分別があって男女の情愛に関する知識も少しずつ知り始めている年頃であろうし、アログリフだった記憶を取り戻したガイアが傍にいるなら尚更だし、きっとモーションをかけることを求められているのだろうな、という期待を感じる瞬間もある。
だが、しかし――

「(――絶対に、俺が我慢できなくなるから無理)」

 そう胸の中で叫び、カムイルは膝の上へ戻した手をテーブルの下でぐっと握りしめた。
 もしこのままリーンとの交際が順調に続くなら、もちろん、将来的には想いを遂げたいとは考えている。リーンもきっとそう思ってくれているし、お互いそれをわかった上で、リーンが適齢期になるまではゆっくり関係を深めていこうと誓い合ったのだ。
 ならば一線を越える手前のスキンシップくらいしてやれというツッコミの嵐に見舞われるところまですっかりお約束になってしまったカムイルだが、不肖童貞かつ不本意ながら非処女の身、じゃれ合いのつもりがうっかりそういう雰囲気になり…――という危険性が十分存在することもわかっている。これはカムイル自身がリーンに無理を強いるつもりの有無の問題ではなく、ニ十歳青年という盛りの肉体を持て余している状況でどれだけのリスクマネジメントができるかの問題なのだ。
 そんなカムイルの悶々とした苦悩を知ってか知らずか、目の前のリーンは、久々に頭を撫でてもらえただけでも嬉しそうに笑顔を振りまいてくれている。頭を撫でただけでこれだけ喜んでくれる相手だぞ。カムイル自身も、リーンの柔らかな髪や小さな頭のかたちに触れただけでかなりドキドキしてしまっている。手を繋げば手の感触がわかってしまうし、抱きしめれば肌の感触だけでなくボディラインに意識が行ってしまうだろうし、そこまで考えが及んでしまえばもう、その先を考えるなという方に無理がある。そのつもりがなくても肉体が反応してしまうのは男の性であるし、そうなってしまうような状況を回避するのは、カムイルにとっては当たり前のことだった。
 確かにリーンには淋しい想いをさせているのかもしれないが、スキンシップで伝えられない愛情は、こうして一緒に過ごす時間をつくったり、カムイルの趣味である料理を振る舞ったり、先程のように、料理以外にも自分の手でつくったものをプレゼントしてみたり――元来が尽くしたがりである性分も相まって、リーンの日々の生活をそれなりに侵食する程度にはあれこれと身の回りの世話を焼かせてもらっている。
「(まあ……俺が世話を焼いてるっていうよりは、世話を焼きたい俺の我儘をリーンが受け入れてくれているんだけど…)」
 身の回りの何から何まで自分の手で与えてあげたいなんて、人の考え方によっては、肌の触れ合い以上に嫌悪されてもおかしくないのに。カムイルが服を仕立てれば喜んで着てくれるし、家具を新調してあげたいと言えばオーダーを考えてくれるし、直接口に入れてやがて血肉になる料理も、いつもおいしそうに食べてくれる。全部カムイルがやりたくてやっていることで、それを受け入れて、喜んでくれて、感謝までしてくれるリーンのことを、これ以上ない程に大事にしてあげたいのだ。

「――…お待たせしました、ランチセットのパイシチューとポポトグラタンです」
 ちょうどいいタイミングでそれぞれ注文したセットが届いてくれた。リーンは熱々のグラタンを小皿に取り分けて、少し冷ます間にセットのサラダへ手を伸ばす。カムイルもパイをさくさくとシチューへ落とすように崩しながら、昨日の飲みの席で「淋しくさせているのでは」とやんわり指摘してくれた友人の言葉が引っかかって、顔を上げて思わずリーンへ声をかけた。
「ねえ、リーン」
「……?」
 食事が届いたこのタイミングで話しかけられると思わなかったのか、リーンがきょとんとカムイルへ視線を返す。それを見て間が悪かったことに気付いて、だがここで黙ってしまっても変な空気になってしまうので、「ごめん」と小さく謝ってから話を続ける。
「いや、その……こっち戻ってきたの久々だし、今日は、リーンのリクエストが何かあればそれに応えようと思って…」
「リクエスト……」
 サラダの小皿とフォークを手にしていたリーンが、さく、と瑞々しいレタスをフォークで刺したそのまま動かなくなってしまった。そんなに考え込ませてしまうような質問だっただろうかとカムイルがそわそわしながら様子を見守っていると、リーンはわざと視線を逸らすように伏し目になって、それからじんわりと赤らみ始めた顔色を誤魔化すようにサラダを一口食べる。その反応はもしや……と内心焦り始めたカムイルが見守る前で、ゆっくりとサラダを咀嚼して飲み込んだリーンは、消え入るような声でこう答えた。
「……部屋に戻ってから、相談させて下さい」




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