暁の声





 五年の歳月が流れた。
 研究書を解読する間にわかったことは、ところどころに挟まれていたメモは初代当主である曽祖父がこの妖異の封印を解く際に苦心した研究の成果の一端で、後日掘り出した曽祖父の手記によれば、彼は本の解読と封印解除の準備に十年の歳月を費やしたらしい。
 それらすべてに目を通し、解読のために必要な古書の数々を朝から晩まで読みふけったケイロンは次第に、曽祖父の研究成果を冷ややかな目で見つめるようになっていた。
「僕なら、五年で解いてみせる」
 曽祖父が残した妖異召喚に関するレポートは的外れでこそなかったが、ケイロンの目には非常に無駄が多いように思えた。研究書に対する解釈も余計な知識を組み合わせることでかえって複雑化してしまっており、もっとシンプルに考えればいいのに、というのがケイロンの感想だった。それらを加味して、ケイロンは自身に五年という時間制限をかけた。

 そして宣言通り、ケイロンは五年で妖異を再召喚するための術式を解読してみせた。
 幸運だったのは、カメリアが子供ながらに錬金術師としての才能を開花させていたことである。再召喚のため必要になるであろう錬金術材の製作はカメリアに手伝ってもらうつもりではあったのだが、ケイロンと肩を並べて錬金術師としての研鑽に励んでいたカメリアは、彼自身の努力の成果として申し分のない品々を揃えてみせてくれた。
「じゃあ最後に、若のエーテルを込めるから…指、出して」
 ケイロンは迷わず人差し指をぴんと伸ばしてカメリアに差し出し、ペーパーナイフを手にしたカメリアがその手を取る。妖異を召喚するためには召喚主のエーテルを込めたインクを用意しなければならなかったのだが、ケイロンは自身でエーテルを込めることができないため、妖異が好むとされる血液を媒介にエーテルを抽出することになったのだ。
 カメリアが傷つけた指先から鮮血がすぐに溢れ出し、すかさずフラスコを取り出してその中へ流れ落ちるようにする。フラスコにはエーテル抽出用の薬剤が最初から入れられていて、ケイロンの血液が一滴触れた瞬間、そこから淡い紫色に変化して輝きだした。無事にエーテル抽出ができている証にカメリアは安堵の笑みを浮かべ、次第に濃くなる色合いをうっとりと見つめている。
「すごい…若のエーテルは、綺麗な色だね。宝石みたいだよ」
「お前に手伝ってもらわなければ、こうして知る機会もなかっただろうな」
「でも、この抽出方法と薬のつくり方を考えたのは若だよ?俺はまだ魔術と絡めたものの製作やったことないし、これをつくらせてもらえてよかったよ」
「……本当に、お前には頭が上がらないな」
 確かに理論を組み立てたのはケイロンだが、その無茶ぶりに応えたのはカメリアだ。手際のいい止血処置を受けながら、彼のような友を得られた自身の幸運をケイロンは噛みしめた。

 抽出したエーテルをインクと掛け合わせ、ケイロンはそれを用いて再召喚に必要な呪語をすらすらと綴っていく。下がって待機しているように言いつけられたカメリアは、迷う素振りもなく再召喚の準備を進めるケイロンの姿を見てほう、と息を吐いた。
「嘘でしょ…全部、頭の中に入ってんの…?」
 ケイロンは実践的な能力を持たない自身の体質をよく卑下しているが、それらを補うために貪欲に溜め込んでいる知識量と即座に応用する地頭のよさは、それこそカメリアでは到底及ばないものだ。一年前に妹が産まれてからはその姿勢に拍車がかかったように思え、今回の妖異再召喚をもってジャヌバラーム家次期当主に相応しい研究者になってみせるという強い想いが、ケイロンの小さな体からひしひしと感じられた。
「……よし、」
 準備を整えたケイロンが振り返り、カメリアも頷く。子供二人には少々重いレリーフ像を力を合わせて持ち上げて、魔法陣を描くように円形に綴った呪語の中心にそっと下ろす。如何にもこれから妖異を呼び出すぞという構えになって、二人はごくりと生唾を飲み込んだ。
「カメリア、これを」
「うん…」
 ケイロンがカメリアに手渡したのは、万が一に備えた妖異除けの防御魔法が込められた魔石だった。
 使用者がわずかでもエーテルを込めれば発動できるもので、ケイロンには宝の持ち腐れであったが、気休めでもとカメリアに預ける。部屋の奥へ下がったカメリアが魔石を使用したのを確認して、ケイロンは大きく息を吸い込んだ。

 瞳を閉じ、妖異を眠りから目覚めさせる呪語を丁寧に、一言一句違わずはっきりと声に出す。今更込められる魔力などなく、声にのせた呪語が言霊になるようにと念じながら、ケイロンは繰り返し召喚のための呪語を紡ぎ続けた。
 そうして何度も繰り返すうちに、ぴし、と何か小さな亀裂が入ったような音が聞こえた。ケイロンが呪語を止めずにうっすらと瞳を開けると、思った通り、眼下のレリーフ像の顔に亀裂が走っていた。呪語を繰り返すたびに亀裂がぱきぱきと増え、やがて石膏が粉々になって砕け散ると、その中からレリーフ像と同じ姿の男の顔が現れた。長い睫毛で縁取られた瞼がゆっくりと開き、書に記されていた通りの金色の眸が虚空を見つめる。
 本当に、妖異の再召喚に成功してしまった―呪語を止めたケイロンは自らの研究成果を目の当たりにして呆然と立ち尽くしていたが、不意に柔らかい何かに小さな体を押されて蔵書の山へと尻もちをついた。
「うわっ…!」
 自分の体を押し退けたのが妖異の広げた翼だったということは、部屋の明かりを隠すように大きく落ちた影ですぐに気付いた。はっとして顔を上げた視線の先、最早ただの石板と化したレリーフ板に片足を乗せ、翼を広げた妖異がそこに立っていた。
 逆光の中でも輝いて見える黄金の双眸に見下ろされ、その場でぴくりとも動けなくなる。妖異は動けないままのケイロンをしばらくじっと見つめると、大きな翼を背にたたみ、影のような黒髪を引きずりながら、ゆっくりとケイロンのすぐ目の前までやってきてしゃがみ込んだ。
「嗚呼……あの男の血縁か…」
 スケッチに描かれた通りの、長い爪が伸びた指で、ぐいと顎を掴まれた。それで肌が傷つけられるということはなかったが、すぐ喉元にある鋭い爪を前にしては生きた心地がしない。再召喚はできたものの、果たしてこの妖異は自分を主と認識してくれているか。動けないまま、だが気をしっかりと保って見つめ返してくるケイロンの視線を受け止めて、妖異は機嫌がよさそうに口角を上げた。
「まだ子供だというのに…あのデタラメな封印術を解いた上で、本来の手法に則って俺を再召喚するとはな」
「っ……」
「パーフェクトだよ。おかげで、七十年前よりもずっと寝ざめがいい」
 そう言うや否や、妖異が空いている手で指を鳴らすと、カメリアに持たせていた魔石の魔法障壁がガラスの割れるような音を立てて砕け散った。視界の端でそれを捉えたケイロンは、自分の顎を捕らえたままでいる妖異の手首を咄嗟に掴む。
「やめてくれ!」
 掴んだ拍子に鋭い爪が自分の喉元に刺さるかもしれないだとか、そんなことを考える余裕すらなかった。ぎりぎりと掴む手に力を精一杯こめるケイロンを、妖異は「ほう」と興味深そうに見下ろすだけだった。
「あいつに手を出さないでくれ…!大事な…たった一人の、友達なんだ…ッ」
「…………」
「貴方を呼んだのは僕だ!対価が必要なら僕が払う、だから…!」
「まあ落ちつけ」
 顎を掴んでいた手でそのまま口元を塞がれ、ケイロンの懇願はそこで遮られた。妖異がもう一度指を鳴らすとカメリアがくらりと意識を失ってその場に倒れたので、ケイロンは妖異の手に歯を立てながらじたばたと抵抗を激しくしたものの、それもまったく効いていない妖異は「だから落ちつけよ」とのんびりした口調でもう一度念押しした。
「あっちの子供に手を出すつもりはない。ただ、お前と二人で話がしたかったから眠ってもらっただけだ」
「んぅーッ!んーッ!」
「まったく…あの男の血縁ならてっきり育ちのいい坊ちゃんだと思ったが、とんだ暴れっぷりの悪ガキだな」
 心底面倒くさい、という気持ちを隠さず大きな溜息を吐き出した妖異がまた一つ指を振るうと、倒れたままのカメリアの体がふわりと宙に浮いてそのままケイロンのすぐ傍に優しく下ろされた。「確認してみろ」と妖異に解放されたケイロンはしゃがみ込んでカメリアの口元へ手を当てると、そこにすうすうと穏やかな寝息を感じてほっと胸を撫で下ろした。
「よかった…」
「だから言っただろう。落ちつけ、とな」
「だって…急に魔法壁を壊したから、襲われるのかと思って…」
「それは……まあ、俺も悪かった」
 視線を逸らした妖異がばつの悪そうに頭を掻くのを見て、いたずらに恐れるような必要はない相手なのかもしれないと、ケイロンは妖異に抱いた第一印象が早くも変わっていることを自覚した。

 推定階位第一位なんて触れ込みを見てしまったのでどんなに恐ろしい相手かと思ったが、今のところ話は通じるようだし、彼自身が纏う雰囲気も随分と柔らかいものだ。いっそこちらが拍子抜けしてしまうほどである。
 それでもじっとりと観察するように見つめられたときは本当に身が竦んでしまって動けなかったし、防御魔法を造作もなく砕いてみせたことといい、彼本来の性質は先程までの妖異然としたものなのだろう。そんな相手がこちらに気を使って威圧感を抑えてくれているのだということはすぐにわかり、真に能ある者は器が広く寛容なのだと見せつけられた心地だった。
「ところで、お前…」
 ふいに、妖異が再びケイロンの顎を掴んでまじまじと瞳を覗き込んできた。妖異と視線を合わせることが魔術師にとっては基本的なタブーだと咄嗟に頭に浮かんだものの、一度でも目が合ってしまえば逸らすことはできない。敵意のない相手だということはわかっていてもいい心地はしなくて冷や汗をかきそうなケイロンをよそに、妖異はまた舐るような黄金の視線でじっくりとケイロンを注視する。
「とても、俺の再召喚ができるような体のつくりじゃあないな。なんだこれは。体内エーテルの流れがひどく歪だぞ」
「そ、れは…」
 まさか目で見ただけで体質のことを言い当てられるとは思わず、妖異の注視から解放されたケイロンは、しゅんとして視線を床に落とす。明らかに落胆しているその様子に、妖異は「ふむ」と小さく唸ってから再び唇を開いた。
「お前、ジャヌバラームの家の者なんだよな?」
「はい。一応、直系の曾孫です」
「そうか…となると、お前のその体にかかっているのは俺の呪いかもしれないな」
「……呪い?」
 思いもよらなかった言葉にケイロンはぽかんと口を開いたまま固まってしまう。そんなケイロンを解放すると、妖異は緩慢な動きで腰を上げて固まったままでいるケイロンに手を差し出した。
「ついてこい。この島とお前の家が栄えた本当の理由を教えてやる」


   ◆◇◆


 眠ったままのカメリアの身を彼のベッドにきちんと移して、ケイロンは妖異に手を引かれるまま屋敷の外へと出た。ほとんど屋敷に引きこもりきりだった身に南洋の陽光は眩しくて思わず顔に手をかざすと、妖異が不思議そうな顔でケイロンを見下ろした。
「まさか、陽の光にも弱い体質だなんて言わないだろうな?」
「いや、普段はあまり外に出ていなくて…ほとんどあの地下倉庫にいたから、眩しくて」
「おいおい。お前ぐらいの年頃の子供は外で遊ぶのが仕事だろう」
「貴方にかけられた封印を解くために、遊んでいる暇なんてなかったから」
 またしゅんとなって地面へ視線を落としてしまったケイロンを見て、妖異が息を吐く。
「それなら、これでどうだ…?」
 地面に長く伸びていた妖異の影が、ケイロンの視界の中でするすると小さくなり、やがて同じ年頃のヒューランやエレゼンの少年の背格好になった。
 まさかとケイロンが顔を上げれば、手を繋いでいた相手はいつの間にか、妖異がそのまま子供に後退したような容姿の少年に変わっていた。角も羽根もなく、長かった黒髪が短髪になり顔立ちがはっきりと見えるようになったせいか、一般的なオアシス風の装いでも美しい容貌が際立っている。
「せっかくだから、目的地の近くまではこのまま歩こう。少しは、同じ年頃の友達と街へ出かける気分が味わえるだろうよ」
「……ああ、ありがとう」
 妖異の気遣いに感謝して、ケイロンは小さくなった彼の手を改めて握り返した。

「そういえば、貴方のことはなんとお呼びすればいいだろうか」
「うん?」
「いや…本当の名前ではなくて、こうして一時的にでもお世話になるのだから、仮の名前でも呼べた方が不便じゃないと思って」
 彼の本来の名前は認められた契約者にしか告げられないということは、本の記載で承知していた。まだケイロンのことを認めてくれたともわからないのに大切な名前を聞くのは契約を迫っているようなもので、それを考慮して仮の名前をとたずねてきたケイロンの思慮深さに、妖異はまた一つ機嫌がよくなった。
「タッカーだ。人の姿で方々に出向いていたときは、ウィル・タッカーという偽名を使っていた。そういうお前の名前は?」
「僕はケイロン。異邦の神話に登場する賢人と同じ音の名前を父がつけてくれたんだ」
「ふうん…子供に別人の名前をつける慣習は続いているんだな」
 島内で最も栄えているマーケットを抜けながら、タッカーに手を引かれるケイロンにはその目に映る景色がまるで異国のもののように思えた。
 物心ついたときから広すぎる屋敷の中で過ごし、大きすぎる家名を将来背負うために先人達の研究について学ぶ日々。それが嫌だと思ったことも、外で遊びたいと思ったこともなかったが、曽祖父の代から営みが続くこの島が如何に華やかに繁栄を極めているのかを目にしたのは初めてのことだった。 
 だが屋敷を出る前のタッカーの口ぶりからして、この煌びやかな黄金郷の裏には何か秘密が隠されているのだろう。それを教えてやると言ったタッカーの足が父達の研究施設へ向かっていることに気付いたケイロンは、慌てて先導するタッカーの手を引いた。
「駄目だ。僕はまだ工房へ入れないし、気付かれずに侵入できる場所じゃない」
「それがどうした。俺を誰だと思っている」
 タッカーが指を鳴らすと、二人の体を包み込むように何かしらの魔法がかけられた。
「俺とお前の姿が他人から見えなくなるように細工した。これでいいだろう?」

 高位妖異であるタッカーの力を疑ったわけではなかったが、本当に、二人は気付かれることなくジャヌバラーム家の心臓とも呼ばれる研究所へ入れてしまった。入口こそ地上にあったが構造的には地下空間の方がメインらしく、タッカーは迷わず下り階段を進んでいく。実際、地上で見えていた外観よりもずっと広い地下工房がそこには広がっていた。
 最初は輸出用の薬剤や錬金術材を箱詰めする作業場が見えて、その奥には完成間近の最終工程をチェックしている検品室、さらにその奥では大釜で絶えず精製される薬剤が小売り用の小さなポーション瓶に詰め替えられている。途方もない生産力で、一体どれほどの人員とクリスタルを投入しているのだろうかと想像するだけで、ジャヌバラーム家の経済力をまざまざと見せつけられるようだった。
「すごい…」
「……ああ、そうだな」
 少し歯切れの悪い相槌を打つタッカーに手を引かれ、ケイロンは地下工房をさらに深部へと進んでいった。

 やがて、魔法で厳重な施錠が施された扉の前に二人は辿りついた。そこまでの道程はすでに錬金術工場の面影がなく、地下特有のじめじめとした湿気とランタンオイルの臭いが混ざって何とも居心地が悪い。
 二人は変わらず手を握ったままで、タッカーはしばらく扉にかけられた魔法を観察してからケイロンを見下ろした。
「この扉、直系の子孫だとすんなり開く仕掛けになっているみたいなんだが…父親から何か聞いているか?」
 首を横に振るケイロンに、タッカーは「そうか」と呟いてから扉に手をかざす。
「…まあ、俺があの男に教えた魔法だからな。解除に問題はない」
 扉の上に封印の魔紋が浮かび上がり、それが光の粒子になってさらさらと消えていく。開錠された扉はひとりでにうっすらと開き、その軋んだ音を聞いてケイロンは思わず肩を竦ませた。
如何にも―という趣の古い木製の扉。タッカーが大きく開いたその先の光景を見て、ケイロンは驚愕で目を見開き、タッカーは憂いを帯びた黄金の瞳をそっと閉ざした。
「これが…――お前のひいじいさんの、馴れの果てだ」

 巨大なクリスタルだった。
 部屋の中央に描かれた魔紋と、そこから円柱のように展開されている魔法壁に守られるように、見たこともない赤色のクリスタルが浮かんでいた。

 赤色クリスタルは脈打つようにたえず鈍い色の光を放ち、そのたびに床の魔紋と、魔紋から続いて部屋の壁面に根を張るように伸びた文様へと光が走って行く。さながら、心臓が鼓動して血管へと血を送り出しているかのような光景だ。
「これが……初代様…?」
 呆気にとられて動けないままでいるケイロンの言葉を肯定するように肩をぽんと叩き、タッカーは忌々し気に赤色クリスタルを睨み上げた。
「あの男の最期について、話をしようか――」


   ◆◇◆


 人の命は移ろいやすく、一代で栄華を極めた男であっても、自らの天寿はままならない。
 放し飼いも同然に放置されていたタッカーがまずいと気付いたときにはもう、男の異変を止めることはできなかった。

「死にたくない」
 とても単純な、だがどこまでも欲深い願いだった。
 ジャヌバラームという一代の夢を掴んで栄華を極めた男は、死によってその栄光を手放すことを拒んだ。元より、身一つで巨万の富を築きたいという強欲さとそれを為し得る強靭な意思を持った男だったのだ。若い頃は健全にはたらいていた男の信念は、老衰した今では行き過ぎた妄執に変わってしまっていた。
「死にたくない…死にたくないんだ…っ…お前なら、永遠の命を得る方法も知っているのだろう…⁉」
「……そんなもの、この世にはないさ」
 抱えた膝の上で、赤子のように泣きじゃくられた。自分が目を離したおよそ五十年―タッカーにとってはたった五十年だったが、その五十年は人にとってはあまりにも膨大な時間なのだということを、今更ながらに思い出す。
 錬金術商として共に成功を目指していた日々の面影は、もうない。主には及ばずともその足元に食らいつく程度の才能はあると信じて手を貸した男の心が、こんなにも弱いとは思わなかった。
 或いはこれは、亡き主の影を見当違いなこの男に重ねようとした自分へ跳ね返ってきた罰なのか。老いて細くなってしまった男の肩に手を添えて、こんな状況で彼にかける言葉でもないことはわかっていたが、それでもタッカーには果たしてもらわなければならない約束があった。
「俺も共に眠る…だから、お前ももうゆっくり休もう」
 即物的な対価も贄も求めなかった。
 タッカーが男へ協力する見返りに求めたことはたった一つ―再び封印を施され、今度こそ永遠の眠りにつくこと。
「さあ、俺が眠るためのあの石板を返してくれ」
「嫌だ…ッ!」
 慰めるタッカーの手を払うように男の体が跳ねた。それと同時に部屋の扉が大きな音を立てて開き、見覚えのない大きな石板を持った男と目深にローブを被った複数名の術士達が室内へと慌ただしく踏み込んできた。その先陣に立っているのは次期当主になる男の息子―若き日のケイロンの祖父である。
「嫌だ嫌だ嫌だ!お前を手放すものか!」
 息子の影に隠れた男が、ぜえぜえと息を切らしながらタッカーを指さす。
「お前が応えないのならば、捕らえて利用するまで…!」
「くそ…っ、何を馬鹿なことを…!」
「わしは永遠の命を得る…!お前の魔力、搾り取って使わせてもらうぞ!」
 人間の姿をとっていたせいで反応が遅れた一瞬の隙を突かれ、タッカーの胸に楔が打ち込まれた。マハの魔道士達が「アーク」の動力源にする妖異を封じ込めた際にも用いられたものだ。まさかこんな化石のような遺物が復元されているとは思わず、それを為すための知恵を彼らに与えてしまったことにタッカーは舌を打った。
「愚か者め…ッ…後身に席を譲りたくなくて心まで奪ったか…!」
「わしの子をわしがどう扱おうが構うまい」
「だが、永遠の命なんぞ得てどうする…!人の姿を捨てる気か!」
「応とも!そのための下拵えは、すでに完成している!」
 緩いオアシス風の上着に手をかけ、男はためらうことなくタッカーの眼前に上半身を晒した。その胸元に埋め込まれて脈打つ赤い鉱石に、男の愚行を見てタッカーの怒りは頂点に達した。
「賢者の石…我が主の研究まで愚弄するか…っ」

 結晶化したエーテルの塊であるクリスタルを、もし生命体の肉体や魂を構成するエーテルを抽出することでつくりだすことができたら――タッカーのかつての主が仮説を立て、だがあまりにも非人道的な行為のために実証実験には及ばず封印した研究だ。
 成功すれば、死を超越して自我を保ったまま、自分の経験や記憶をクリスタル化して後世に残すことができる代物。主の手記に残されていたはずの苦悩を握り潰されたのだと悟り、タッカーはまだ完全にレリーフ化されていない首を伸ばして男に牙を剥いた。
「それほどの才を持っていながら何故、愚行に走るのだ…!」
「愚行であるものか。わしはクリスタルとなってこの地に、この島に、子々孫々の繁栄をもたらす!かつての主が残した研究の成果となれるのだから、お前も嬉しいだろう?」
「くそ…ッ」
 ぱきぱきと首から上の封印も進んでいるのを肌で感じる。最早、顔以外に肉体の自由は利かない。己の考えの甘さが招いた事態に唾を吐いて、タッカーは恨み言のように最後の言葉を男に残した。
「俺は、仕えるべき相手を間違えたのかもしれないな――」


「――…その末に生み出されたのが、この赤色のクリスタルだ」
 タッカーの話が終わる頃には、ケイロンはすっかり脱力してぺたりと床に座り込んでしまっていた。
 偉大なる初代当主が残した功績は確かなものだったが、その人生の顛末が、こんな奇怪な姿で目の前に現れるとは。鼓動する心臓のように見えた目の前のクリスタルはまさに曽祖父の魂と血肉そのものだと知り、あまりにもショッキングで胃液がせり上がりそうになる。
「……このことを、父や祖父は…」
「知らないだろうな。正確に言えば、疑問を抱かないようになっている」
 まだ青い顔をしたままのケイロンの背中をタッカーがさすり、気分がよくなるように治癒魔法をかける。それで吐き気は和らいだが、胸の内の気分の悪さに変わりはなかった。
「蛮神と、そのテンパードのことは知っているか?」
「ええ、少しは…」
「このクリスタルと島民の関係は、それに近い。お前は俺が保護しているから影響を受けていないが、少なくともこの施設に足を踏み入れた連中は、クリスタルからたえず放たれているエーテル放射の影響で少しずつ洗脳されているのさ。テンパードが蛮神に捧げた祈りが力になるように、この島の研究者達が自分達の技術と才能を磨きたいと切に願うことで、クリスタルは島民や研究者達から祈りの力を吸い上げ続けている」
「…………」
「このクリスタルは、高品質を保ったままで商材の大量生産を叶える魔法の動力源だ。外部からクラスターやシャードを仕入れずとも製作を可能にし、その上、本来使われるはずのウォータークリスタルやライトニングクリスタルとは異なる触媒を利用している…こんなもの、島外の部外者に知られたら大問題になる。だからお前の曽祖父は、こんな辺鄙な離島に自分だけの城を構えたんだ」
「最初から、この仕組みをつくるために…?」
「俺と出会ったばかりの駆け出しの頃は、そんな考えを持っているような人間じゃなかったんだ……夢のような成功を掴んで、そんなときに俺の主の研究を知って、それで心が変わってしまったのかもしれない。身に余る力を手にした人間の心が変わってしまうということを、俺はお前のひいじいさんに教えられた」
 そう言うタッカーの表情は、初代当主の最期を言葉で責める以上に、一人の人間をそのように豹変させてしまう機会をつくってしまった自分自身を責めているようで。その憂い顔を見たケイロンは、胸の奥から堪らない想いが沸き上がるのを感じた。
「……このクリスタル、壊すことはできないのだろうか」
 ケイロンの疑問に、タッカーは迷わず首を横に振った。
「俺には無理だ。この忌々しいクリスタルは、これ以上ない程に屈辱的ではあるが、俺を最初に召喚した主の研究の延長に存在するものだ。俺は最初の召喚の際に、主の魔法の行使や研究の妨げをしてはならないという制約をかけられているのでな。こいつを俺の手で破壊するとなると、こちらとしてもそれ相応の力の放出が必要になる」
「つまり、その気になれば契約を反故にして破壊できると?」
「そこで第二の問題だが、お前の体質だ」
 とん、とタッカーがケイロンの胸を人差し指で叩く。
「俺はあのレリーフ像に閉じ込められていた間、このクリスタルが放つ膨大なエーテルの大元の供給源として魔力を搾り取られ続けていた。お前のおかげで枯渇する前に解放されたものの、現状で俺に残された魔力は少ない。そうなると必然的に契約主となるお前から不足分のエーテルを賄ってもらう必要があるが……ひと口摘まんだだけでどうにかなってしまいそうな脆弱ぶりだからな。とてもじゃないが、破壊魔法を行使するための魔力が足りない」
「でも…カメリアを眠らせたり、ここに入れるように身を隠したり、今でも問題なく活動できているようだけど…」
「馬鹿を言え。絶対服従を誓った最初の主との契約を反故にするのだから、最盛期の力を取り戻した上で死力を尽くす必要があると言っているんだ。それともお前は、この俺の魔力の器がそこらの矮小なインプ共と同程度だと言いたいのか?」
 冗談混じりでも笑えないタッカーの言葉に、ケイロンは慌てて首を横に振る。
 親しみやすい同年代の少年の姿をとってはいるが、彼が推定階位第一位の高位妖異であるという記載をケイロンが忘れたわけではない。むしろ彼自身の口ぶりから推測するに、ケイロンでは想像すらつかない程の強大な力を持つ妖異であることに間違いはなさそうだ。
「…………」
 それだけ強大な力を持ちながら人間に対して友好的な態度で接してくれる人格者である彼を、自分達の家名の祖は裏切った。
 知恵を授けてこの家に繁栄を齎してくれた恩義ある相手を陥れ、行き過ぎた欲望のために利用しようとしたのだ。
「…呪われて、当然だ」
 この身の不自由さは、曽祖父が犯した罪の重さなのだと知る。
 タッカーもまた、ケイロンの言葉を否定はしなかった。
「或いは、お前がひいじいさんの負債を引き受けて俺をきちんと眠らせてくれるというのなら、その身の呪いも消えるだろう。あるべきかたちで封印されるのは俺も望むところだ。お前がその気になったというのであれば…」
「当たり前だ…ッ!」
 遮るように声を荒げられ、タッカーは思わず目を丸くして座り込んだままのケイロンを見下ろした。見下ろした先のケイロンは、怒りに震えているとも見える強い意志を瞳に宿して真っ直ぐにタッカーを見つめていた。
「貴方は…っ…この家の、大切な恩人じゃないか…!それを今日まで、僕達は、何も知らされないままで…っ」
「…どうして、お前がそこで泣くんだ」
 怒りと、悔しさと、そして情けなさの涙だった。
 まるで御伽話のようなジャヌバラーム家の栄華と、それを脈々と受け継いできた先人達と、すべての始まりである偉大なる初代当主――彼らのたゆまぬ努力と研鑽に憧れ、いずれ当主の席について彼らと肩を並べられる研究者になりたいと思い続けてきた。
 だが、華やかな栄光の影に隠されていた真実を知った今、とても自分の生まれを誇ることはできなくなった。次期当主である自分が為すべきは一族の繁栄を次代へ繋げることなどではない。目の前で涙を拭ってくれているこの高潔な妖異の願いを叶え、その大恩に報いることこそ、自分が生涯を賭して為すべき使命なのだとケイロンは確信した。
「ごめんな、さい…ッ…本当に、ひどいことを…」
「ああ、もういい」
 少年の姿を捨て本来の体に戻ったタッカーの胸に抱かれ、嗚咽の止まらない背中を優しく撫でられる。
「魔力限である俺が解放された以上、もうこのクリスタルがエーテルを供給する術はない。それで大人しく非活性化されればいいが、おそらくこいつは、次は島民達の命を吸い上げ始めるだろう。いずれにせよ、これを壊さないことにはこの島は滅びる」
「……っ」
「約束は果たしてもらいたいが、まずはこいつを止めるのが先だ。これに関しては俺にも責任があるからな、契約度外視で協力は惜しまん」
 タッカーがケイロンを抱く腕を解き、まだ少年の姿へと戻る。やっと泣き止んでぐずぐずになった顔で鼻をすするケイロンを見て、タッカーは少年らしからぬ笑みを浮かべた。
「今度こそ間違いが起きないように、妖異の正しい扱い方から仕込んでやる。この俺直々の手ほどきを受けられることを光栄に思えよ?」

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