暁の声



 千余年の眠りから目覚めて最初に視界に捉えたのは、こちらを心配そうに覗き込んでいる小さな背格好の人間だった。眠りにつく前にはあまり見慣れていなかったが、まるで幼児とも思えるその者がララフェルと呼ばれる種族に該当するということは、寝起きの鈍い頭でゆっくりと理解できた。
 金髪、碧眼、褐色――在りし日の主と同じ外見的特徴にほんの少し懐かしさを感じ、長く眠っている間に自分も随分と感傷的な性分になったものだ、と小さく息を吐く。
「……この俺の眠りを遮るとは、なかなか腕に覚えがあるとお見受けする」
 恨み節を言うつもりはなかった。ただ、猛烈に眠い。だから男にかけた言葉は大きな欠伸と混ざっていて、随分と間抜けに聞こえたことだろう。

 妖異である自分にとって眠りとは封印と同義だ。
 元の世界に残してきた肉体はとうの昔に朽ち果て、魂が戻るべき場所は失われているが、この世界の今生の生物の肉体を乗っ取りたいという願望もない。大洪水が起こる以前に召喚主である主人と死別した自分にとっては最早、世界に顕現する理由が何一つないからだ。望んだ封印を解かれた反動は、久しく感じていなかった眠気として思考と肉体の感覚を随分と鈍らせた。
 だが、こうして封印を解かれ再召喚された以上、新たな召喚主との契約交渉の機会は与えてやらねばならない。口元を隠さず大欠伸しながら四肢を伸ばし、緩慢な動作でその場に立ち上がった妖異には、見下ろしたララフェル族の男が余計に小さく感じた。
「望みは何だ。俺にできることなら従順に叶えてやろう。対価も贄も要らん」
「……契約に対価を求めない妖異がいるのか?」
 股下から、間抜けた反応が返ってきた。
「要らん。だからお前の用件を済ませて、そしてまた俺を眠らせてくれ」
「ははーん?自ら封印を望む妖異とは、また珍しいものだ」
「期待外れだったか?」
 小さき男は顎に手を当て、図体に対して随分と比重が重そうな頭を傾げながら、だが、にやりと白い歯を輝かせて笑った。
「いいや、期待以上だ。封印解除にかかった手間といい、不遜過ぎていっそ大きく思える器の広さといい、わしは随分と大物を引き当てたようだな」

 男は、後に謎多き一族と謳われるジャヌバラーム家の初代当主になる者だった。


 魔術と錬金術によって巨万の富を築きたいと願ったその男は、だが安直に富そのものを求めるのではなく、富を得るための魔術と錬金術の知恵を妖異に求めた。要するに、自分の研鑽の師として古代マハ時代の大妖異を選び、召喚せしめたのである。
 最初は、とんでもない男に捕まったものだと顔を顰めた妖異だったが、自身の厳重な封印を解除してみせた実力は間違いなく折り紙つきのもので、そう考えると男に興味がわいてきた。
 何しろ妖異を最初にヴォイド界から召喚した主は、黒魔法と妖異使役術が栄華を極めた時代――第五星暦の古代都市マハにおいて、魔女シャトトと同時期を生き、妖異召喚とその使役術の礎に大きな影響を与えた、偉大なる大魔道士だったのだ。「アーク」建造に関わることになる大魔道士クェーサル達よりも古き時代に活躍し、ヴォイド界の使者達を正しき力で使役することで、マハの魔法技術の飛躍に大きく発展した先達だ。

 そんな主の最高にして最大の研究成果こそが妖異自身の召喚、制御および封印であり、如何に千年以上の時を経たとはいえ、そんな偉大なる主の封印は、並大抵の魔道士が解けるものではない。
 だが、男に素直に従って彼の住居兼研究室に招き入れられた妖異は、そこで出迎えられた光景を目の当たりにして自分の封印が解かれるに至った経緯に納得した。
「これは…――」
 見渡す限りの古書、魔器、呪具、遺物――その上に男が執筆したと思われる論文が散乱し、一部は床や壁面に書き殴られている。
 魔法の再現実験もこの場で行っているのか、部屋全体に男が魔法行使したエーテルの残留が重なって濃い。普通の人間なら感じないのかもしれないが、本来の肉体から離れて魂だけの状態で今の世に留まっている妖異は、ただでさえ敏感に感じ取ることができるエーテルが殊更濃く感じられて思わず鼻を抓んだ。
「……あれ、この部屋そんなにひどい臭いだったか?というか、妖異も臭いは感じるものなのか?」
「いや、エーテルが……俺はエーテルを嗅覚で強く感じるから、その…お前の気配が濃くて噎せそうだ…」
 妖異は変わらず鼻を抓んだまま、金色の双眸を細めてじっくりと室内を観察した。
 散乱しているものの多くは妖異が眠りについた後の時代につくられたもののようだが、中には懐かしい時代の匂いを感じるものもある。いくつか論文が書き殴られた紙を拾って目を通してみると、マハ時代の妖異召喚術について存外に的外れではない考察が綴られていた。感心して思わず「ほう」と声に出し、その際にまた男の濃いエーテルを嗅覚で感じてくらりと頭が揺れそうだった。早く慣れるか、さもなくば吐きそうな濃さである。

「ところで、お前…俺が眠っていたレリーフ像をどこで見つけた」
 二度と誰の手にも拾い上げられまいと場所を選んで眠ったはずなのに、この男はどこで自分を見つけてきたのか。妖異の疑問に、男は部屋の窓を順番に開けながら答えた。
「アムダプールという都市はわかるか?」
「ああ、ディアボロスが侵攻していく様をこの目で見た」
「おいおい、それは本当か?あの時代の生き証人とは、そりゃ大物なのも納得だ。…ところでお前、妖異としての階位はどれくらいなんだ?」
「階位ィ?」
 随分と見当違いなことを質問され、妖異は思わず手に持っていた論文の束を落とした。男は特に動じず話を続ける。
「いやなに、わしら研究者の間では妖異を十二の階級で分類していてな」
「少なくとも、俺の召喚主が研究者だった時代にはそんなくだらん分類はなかったぞ…基準がよくわからんが、上から三番目くらいじゃないか?」
「第三位、か……サキュバスやフォルガルと同じくらいということになるな」
「はあ?あんな有象無象と一緒にするな。そもそも今の時代の学者共が、俺達の優劣を正しく評価できるものか」
 妖異はその場にあった本の山を操り、自分が座りやすいように広さと高さを適当に揃えてその上に腰を下ろした。長い封印から目覚めたばかりだというのに自力で難なく魔法を繰る妖異を見て、男は嬉しそうに目を輝かせる。
「それで?そんな有象無象とは一味違うという大先生は、わしの指南役になってくれる気にはなったのか?」
「ああ、いいだろう。独学でここまで上り詰めたのだから、俺と主が辿りついた研究の一端くらいは会得することができるだろうよ」
 妖異は男に応えるようににやりと笑って見せた。


 そうして男は、妖異の知恵を借りながら本当に一代で巨万の富を築いてみせた。
 呪術と錬金術を独自の観点で掛け合わせることで様々な錬金術材を生み出し、男にしか生み出せない貴重な素材の数々はそれだけ希少価値も高まり、他の錬金術師や薬師達を相手取って小都市規模の資産をその手に掴んだのだ。

 妖異が男にしたことといえば、男が研究に行き詰った際に自分の持ちうる知識から解決策を提案したり、異なるアプローチからの意見を伝えたくらいのもので、彼の偉業のほとんどは彼自身が努力と時の運で成し遂げたものだ。
 わざわざリスクを背負って自分を召喚する必要などなかったのではないかとも思ったが、研究に打ち込む男のサポートをする日々はかつての主と共に過ごした日々を思い出させ、妖異にとっても「悪くない」と言える毎日だった。
 彼と共に商売というものを学べたのもよい機会だった。そこに必要なのは強力な魔法を行使するための魔力ではなく、物と金の流れをロジカルに捉えて商機を見出す分析力で。この商機を掴んで利益を生むこともまた錬金術と人は呼ぶのだと男に自慢気に教えられたときは、思わず吹き出して笑ってしまったものだった。

 男はやがて南ザナラーン南方に浮かんでいた手付かずの孤島に上陸し、そこに巨大な研究ラボを構え、ラボを中心に「小ウルダハ」を謳われるほど煌びやかな黄金郷を築いた。
 島内に上陸できるのは男が信頼した共同研究者とその家族達のみという閉鎖空間で彼の錬金術と魔術はますます進化を遂げ、島が研究者達の生活拠点として機能し始める頃にはもう、妖異が男に対して何かを施すことも奉仕するようなこともなくなっていた。
 放し飼いも同然に放置された妖異は気まぐれに人間の姿をとって、主に島の外を自由に散策したり、その道中で興味惹かれた対象について知見を広めたりすることで余生を楽しんだ。「余生」という言葉が妖異である自分に相応しいかどうかは定かではなかったが、少なくとも、今生の主であるあの男が研究の末に再び自分を封印してくれるのだから、それまでに残された時間こそ余生であると妖異は捉えていた。

 自分は直に、二度目の封印を施される。
 三度目の目覚めはなく、主が得た安らぎが自分にも約束される――そう、思っていた。

「――俺は、仕えるべき相手を間違えたのかもしれないな」

 男へ最期に送った言葉は、或いは呪いだったのかもしれない。


   ◆◇◆


 自分は変わった家の子供として生まれたのだということを、ケイロンは物心つく頃にはなんとなく察していた。

 父と母の姿は滅多に見ることがないが、朝から晩まで仰々しく使用人達が身の回りの世話を焼いてくれ、欲しいと迂闊に口にしたものは何でも与えられたが、両親の愛情に限っては、子供ながらに求めることさえ憚られるような環境だった。
 いずれお前の家になるからと幼子には広すぎる屋敷を与えられ、二つ年下の幼馴染みと二人きりで過ごす日々。当初は幼馴染み―カメリアの母親が乳母のように世話を焼いてくれたが、彼女もまた研究者として日々忙しくしていたため、カメリアには随分と淋しい想いをさせてしまっていると、それもまた、幼心に申し訳ないと感じていた。
 本人は認めないかもしれないが、カメリアが病的なまでに錬金術へ傾倒していったのは、少なからず母親の影響があるとケイロンは考えている。彼女と同じ錬金術師になれば共に肩を並べて働くことができて、何より彼女の助手として支え、助け、そして褒めてもらいたかったのだろうと思う。
 親の愛情に乏しい幼少期を過ごしたのはお互い様だが、それでもケイロンにとって、彼から母親の愛情を遠ざけてしまったことは、当家直系の長子として生涯背負うと決めた罪であった。

「…………父上のせいで、ごめん」
 祖父が亡くなって、いよいよケイロンの父がジャヌバラーム家の当主になる日が訪れた。その頃にはケイロンもカメリアも当家の奇妙な慣習について把握していて、専属錬金術師として優秀な補佐役だったカメリアの母が新たな当主代理人に推挙されたことは、幼い二人にとっても当然の流れだと受け入れられた。
「なんで若が謝るの?」
 母親譲りのアンバーの瞳をぱちくりと瞬かせてカメリアが首を傾げる。
「だって…父上の代わりをするようになったら、もう、前よりもっとこの家に来られなくなっちゃうじゃないか」
「そんなの、今までと全然変わらないよ」
 祖父の病状が芳しくない頃から生前分与は少しずつ行われていたので、ケイロンの屋敷地下には身に余るほど莫大なギルと、そして、ケイロンの希望で引き取られた古今東西の古書、研究書の山がすっかり移されていた。
 そんな二人の楽しみは譲り受けた古書を読みふけることで、ギルに興味を示さなかったのはこの頃から変わらない。お気に入りの一冊を手に取ったのに憂鬱そうな顔をしているケイロンを見て、カメリアは手にしていた錬金術の指南書を放り出してすぐに駆け寄った。すでに種族間の体格差は出始める年齢になっていたので、カメリアはしゃがみ込んでケイロンに目線を合わせてくれる。
「俺、母さんが選ばれてうれしかったよ。だって格好いいじゃん」
「そうかな…」
「うん!それに、俺も母さんみたいになりたいと思った」
 ぎゅっと、カメリアが両手でケイロンの小さな手を握りしめる。
「俺、母さんみたいに若の代理人になりたい。そうなれるように、頑張ってたくさん錬金術の勉強するから…だから絶対に、若も俺のこと選んでね」
「……僕は、」
 自分のせいでこれ以上カメリアをこの家に縛り付けたくない、と。そうは思えど、当時のケイロンにはうまく言葉にして伝えることはできなかった。


 ケイロンが奇妙なレリーフ像を見つけたのは、祖父が没した直後の家内の慌ただしさが落ちついた頃のことだった。
「…なんだ、これ」
 カメリアと少しずつ蔵書の仕分けをしている中で、積み重なった本の山々に隠されるように、そのレリーフ像は眠っていた。子供だったケイロンの体と同じくらい大きなもので、美しい男が瞳を閉じて眠る姿が掘り出されている。
 顔立ちはエレゼン族に近いが、その頭から二本の角が突き出していることと、眠る男の体を覆うように両翼が胸元で合わされているところを見るに、どうやら人型の妖異の姿を捉えたものらしい。その姿を見て妙な勘が働いて、ケイロンは転がるように蔵書の山間を駆けて一冊の本に指を伸ばした。

 つい先日眺めていた妖異に関する研究書の中に、似たような姿のスケッチを見た覚えがあったのだ。古代都市マハに生きていたらしい魔術士が著者とされている本で、ところどころのページに後世の研究者が挟んだと思われる解読メモが残されていたので、それらを後で読み比べようと思っていたものだった。
 本を抱えてレリーフ像の前に座り込んだケイロンは、いざ、と本を床に置く。すると本の表紙がひとりでに開き、そのままぱらぱらとめくられてとあるページでぴたりと止まった。開かれたそのページを覗き込んだケイロンは、思わず「あっ」と声に出して驚く。
「やっぱり……この本に書かれている妖異じゃないか…」
 見開きのページにスケッチされていたのは、目の前のレリーフ像そっくりの美しい妖異の姿だった。エレゼン族によく似た顔のつくりで、頭部からはレリーフと同じ二本の角が突き出し、艶やかに描かれた黒髪は足元まで引きずるように伸びている。手足の先は黒く変色していてどちらも鋭い五指の爪が伸びており、鳥のような黒い翼は広げると片翼だけでも身の丈ほどに大きい。他にも眸の色や肌の滑らかさなどの身体的特徴が余白に書き込まれていたが、ある一節を指さしてケイロンは思わず身を固くした。
「――魔王級…推定階位、第一位……」
 妖異学者達が机上で定めた妖異の階級の中でも最上位。描かれた妖異がそれに値する権能を持っているとの記載に、ケイロンは固唾を飲んでまじまじとレリーフ像を見つめた。

 きっとこのレリーフ像と古書は、封印を解けとケイロンに訴えかけている。それは人間を魅了するような誘惑ではなく、この古書を読み解いて正しく封印を解き、そして目の前に眠っている大妖異を御してみせろ、という挑発的な挑戦状を叩きつけられたような感覚だった。
「……っ」
 祖父から譲り受けたコレクションの中でも、間違いなく最も危険な代物だ。本当に魔王級の妖異かどうかはさておき、封印された状態でケイロンを誘導するように古書を開いてみせたことを考えると、それなりの高位妖異であることは確かなようだ。或いはこれは祖父のコレクションではなく、当家を一代にして繁栄させたという初代当主の秘蔵の一品なのかもしれない。それが何の因果で自分を選んだのか、ケイロンはぎゅっとローブの裾を掴んだ。


 ケイロンは、生まれついてエーテル操作が不得手だった。基本的な呪術を扱えないのはもちろんのこと、製作者がエーテルを込める錬金術においてもそれは障害になり、ケイロンはジャヌバラーム家を支える家業のいずれにも従事できない体質で生まれてきた。
 父は身体の成長と共にいずれ障りのない体になるはずだと言っていたが、年下のカメリアが造作もなく基礎呪術と錬金術を扱う姿を傍で見続けてきたケイロンには、自分のこの体質は生涯改善されることがないものだということはわかりきっていた。だからせめて机上の知識だけでも吸収しようと、幼い頃から本の虫になってあらゆる古書や学術書を読んできたのだ。

 そんなハンデを抱えている自分に、この妖異は難題を吹っ掛けてきた。
 無謀な挑戦だと突っぱねてしまうこともできたが、そのときのケイロンは不思議と、これが自分の運命を切り開くためのチャンスに思えた。魔術も錬金術も扱えない自分が、もしも自分の頭の中に叩き込んだ知識とそれらによって組み立てた理論のみでこの封印を解くことができたら。それは、生まれ持ったセンスに左右されず、正しい知識と理論によって妖異を扱うことができるという証左になる。
 生憎とジャヌバラーム家の中で妖異使役術はまだまだ研究が進んでいない分野であったため、魔術と錬金術にハンデを抱えている自分がいずれ当主の座を引き継ぐことになるのであれば、先代達がまだ手をつけていない研究で成果を上げるしかない。きっとこれは、そのために天から与えられた試練だ。
 本当に自分にできるのか。封印が解けたところで、最上位の高等妖異を御すことができるだろうか。もしかしたら、自分がこの妖異を解き放ってしまったことで島内に甚大な被害が出てしまうかもしれない。
「――――」
 それでも、すでにケイロンの中では知的好奇心の方が勝っていた。
「…絶対に、貴方を目覚めさせてみせる」
 その日からケイロンの幼い青春の日々は、一冊の研究書の解読のためにすべて費やされることになった。

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