暁の声





 ゾットの塔崩落後、エスティニアンとラザハン市街を見て回っているときのことだった。
「――キャメお嬢様…?」
 名前を呼ばれ、エスティニアンと揃って足を止める。二人はちょうど製糸場を上へ登って桑畑へ出たところで、声をかけられた方へ顔を向ければ、広場の向こうからラザハンでは珍しいララフェル族の男がこちらへ駆け寄ってくるところだった。
 ラザハン風の織物を着た、キャメロンより深い色の褐色肌に、灰色のショートヘアと赤い瞳。男がキャメロンのすぐ近くまで駆けつけると膝に手をついてぜえぜえと呼吸を整えるので、キャメロンとエスティニアンは思わず顔を見合わせた。知っているのか、と視線で問いただしてくるエスティニアンに、キャメロンはぶんぶんと勢いよく首を振る。その内に走って乱れた呼吸が整ったのか、男は額の汗を拭いながら改めてキャメロンの顔を見つめると、白い歯を輝かせながらにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「嗚呼、やはりお嬢様だ…!私です、ハリルでございます!覚えておられませんか?」
「……えーっと…」
 ハリルと名乗った男がぐいぐいと身を乗り出してくるので、キャメロンは気圧されるまま上体を反らして男から距離をとる。どうしたものかと困り顔を隠せずにいると、見かねたエスティニアンが長い腕を二人の間に差し入れてくれた。
「その様子だと、相棒の古馴染みのようだが……悪いが、こいつはガキの頃の記憶がないんだ。あんまり迫ってくれるなよ」
「なんと…それは、大変失礼致しました」
 エスティニアンの言葉を受け、男は驚いた様子でキャメロンから距離をとってくれた。エスティニアンの腕の向こう側でほっと胸を撫で下ろすキャメロンを男は信じられないような表情で見たが、ぐっと何か言葉を飲み込むようにして深々と頭を下げた。
「改めまして…私はハリル、ルヴェーダ製糸局に勤める織物技師です。霊災以前はお嬢様の家に懇意にしていただいていた仕立屋の息子でして、ご事情を知らなかったとはいえ、不躾なご挨拶となってしまい申し訳ございません」
「霊災以前、ってことは…」
「はい。私の実家は、被災で潰れてしまいまして…生き残ったのも私一人でしたので、以降はこうしてラザハンに身を寄せております」
「そうか、」
 家族を失ったというハリルの言葉に思うところがあるのか、エスティニアンはそれまで鋭くしていた眦をほんの少しだけ和らげた。
「ところで、貴方は『屠龍』と名高きエスティニアン殿とお見受け致します。ご一緒におられるということは、あの塔を崩落させたという英雄殿はお嬢様のことだったのですね」
「…うん。今は、暁の血盟の冒険者部隊に身を置かせてもらっているの」
「なんと、ご立派になられて…このハリル、感激でございます」
 その後、二言三言とラザハンの現状についてハリルからも聞き込みを行ったところで、彼が仕事に戻るというのでその場は解散になった。製糸場への階段を降りていくハリルを見送ったところで、エスティニアンが深く息を吐き出しながらじろりとキャメロンを見下ろしてきた。
「お嬢様、だなんて。アルフィノ坊ちゃんも顔負けの家の出だったんだな、お前」
「やめてよ。私はあの人のことわかんなかったし、家のことも思い出せてないんだから」
「ふっ…そうだな」
 お嬢様なんて柄じゃない、とむくれているキャメロンを見て、エスティニアンはぽんぽんと低い位置にある彼女の頭を帽子の上から撫でてやった。
 過去を知るらしい人物が急に現れたことでさすがの相棒も感傷的になっているのではと思ったエスティニアンだったが、彼女がいつも通りの様子だったので、少しからかうように、ぐりぐりとそのまま頭を撫で続ける。案の定、リーチの届かないキャメロンは帽子のつばの下でエスティニアンの長い腕から逃げようと躍起にもがいてくれた。
「ちょっと…!髪の毛ぐちゃぐちゃになっちゃうし帽子のかたちも崩れるからやめて!」
「直せばいいだろ」
「よくないーッ!」


 エスティニアンが冗談を言ってくれてよかった、と。キャスター特有の帽子の大きなつばの下で、キャメロンは先程以上に大きく胸を撫で下ろしていた。
 記憶喪失は、あくまで自分の出自を隠すための方便。当然ハリルのこともぼんやりと覚えがあったし、仕立屋と名乗られて完全に彼のことを思い出せた。ただ、まさかこのラザハンの地で実家絡みの関係者に出くわすとは思わず、どうやってあの場を取り繕おうかと思うとうまく反応できなかったのだ。
 エスティニアンから記憶喪失だと聞かされて、ハリルもその場で事情をすべて察してくれたようだった。彼の自己紹介に嘘はなかったが、すんなり引き下がってジャヌバラーム家のことを勘付かせるような話も一切出さなかったのがその証拠だ。これで一緒にいたのがサンクレッドやアルフィノだったら家のことについて突っ込んだ話を切り込まれたかもしれないが、良くも悪くもこちらのバックボーンに頓着しないエスティニアンだったので助かった。

 その後、ヴリトラが文字通り身を削って提供してくれた『護魂の霊鱗』を受け取った一行は、オールド・シャーレアンへ戻る便の出発まで少しだけラザハンを自由行動することになった。キャメロンは迷わずルヴェーダ製糸局へと向かい、目当ての人物を見つけると小さく声をかける。
「ハリルくん、」
「!」
 キャメロンが在りし日と同じように親しく名を呼ぶと、ハリルは驚いた顔をしたものの、すぐに事情を察して小さく頷き返してくれた。
「……ここでは人目もありますので、私の部屋へご案内致しましょう」
 カーマ区にあるというハリルの自宅は、質素なワンルームだった。ラザハンでは貴重なララフェルサイズの家具で調度品が揃えられているので、これでも他種族の部屋に比べたら十分に広くて住みやすいのだと中へ案内してくれる。
 窓も扉もすべてきっちりと締め切ると、ハリルは部屋の中央にあるテーブルから香炉の煙を立ち昇らせた。それが特殊な魔法が込められたものだと気付いてキャメロンがはっとすると、ハリルが嬉しそうに笑う。
「誰が聞き耳を立てているとも知れませんから、盗聴防止の魔術が込められた香を焚かせていただきました。やはり、お嬢様はお気づきになるのですね」
「そりゃあ、黒魔道士で生計立ててるからね」
「おや、立派にご家業を継がれているようで嬉しゅうございますよ」
 ごく自然な動作でハリルが椅子を引いてくれたので、エスコートに甘えてキャメロンは素直にテーブルについた。ハリルはそのままキッチンへと向かい、茶器の用意をしながら話を続けていく。
「実は…お嬢様のお姿は以前、クガネで拝見したことがあったのです」
「えっ、そうなの⁉」
「ええ。ラザハン大使館へ赴いていた際に、偶然。東アルデナード商会のハンコック殿に案内されていたでしょう?」
「ああ、あの時かぁ…」
 アラミゴ奪還への一手として初めてクガネに上陸した際、確かにハンコックに大使館街を案内されたことがある。
「大使館前で観光案内とは珍しいと思って、二階の窓から眺めていたのですよ。お嬢様だと思いましたが、遠目で確証はありませんでした。それに、ジャヌバラーム家の方があのように異邦人の集団に混じって行動しているとも思わず…」
 話を続けながら、トレーにティーカップを二つ乗せたハリルがテーブルへと戻ってきた。提供されたのはサベネア名物のチャイで、キャメロンは「いただきます」と小さく礼を述べてからありがたく口をつけた。
「驚きました。ジャヌバラーム島は島ごと焦土化したと聞いておりましたし、私以外に島外に出ていた人間もいないと思ったので…ましてや、お嬢様のように御当家の方が生存されているとは」
「そっか…」
「島は周囲の海域からしてエーテル異常を起こしており、とても生物が生きていける環境ではなくなっていると聞いておりますが、よもや、島そのものは無事なのですか?」
 ハリルの問いに、キャメロンは眉を少し下げて首を横に振った。
「無事じゃない。私と、お兄様と、他に何人かは生き残ったけど」
「おお、若様もご無事でしたか…!」
「うん。私も未だに原理はよくわかってないんだけど、お兄様のお屋敷の中にいた人だけが無事だったんだよね」
 それからキャメロンは、自分を含めた島の生存者が生き残った経緯と、現在のジャヌバラーム邸の状況についてハリルに手短に伝えた。


 詳しい調査をする気もないのでキャメロンには未だに詳細が不明だが、第七霊災に伴う強烈なエーテル放射によって島全土が焼かれたあの日、ケイロンは自身に与えられた屋敷の周囲に強力な魔法障壁を発動させていたということだけは聞いている。
 ジャヌバラーム家はその特異な家系の事情から、家長の代ごとに住まう屋敷を完全に分けている。先代や次代の人間との関わり方は師弟関係に近く、それもあくまで呪術や錬金術の研究における継承に重きが置かれるため、親子や親族の情とは縁遠い家系だ。キャメロン自身も両親の愛情に触れた機会は少なく、そのまま七歳で第七霊災を迎えてしまったため、記憶もおぼろげでほとんどない。親類間での縦の繋がりが希薄で、その分も同世代の横の繋がりが強くなるのが一族代々の特色だった。

 そんな家系の事情も相まって、ケイロンが自身の庇護下に入れたのは妹弟であるキャメロンとカムイルと、当時さらに幼かった末妹のマカロンと、偶然にも屋敷の近くを通りかかっていたので難を免れたアレックスだけだった。屋敷を覆っていた魔法障壁はケイロンが有事に備えてかねてから準備をしていたもので、それでも霊災という未曽有の脅威の前では力が及ばず、タッカーとカメリアの協力と、ケイロン自身が身体的な犠牲を払ったことで何とか耐久度を底上げできた代物だったと聞いている。
 結果、ケイロンは後遺症として環境エーテルの干渉を受けやすい肉体になってしまい、タッカーのサポートなしでは屋敷の外に出られない体になってしまった。因果なものではあるが、ケイロンもまた、隠遁して自身の姿を隠し通すというジャヌバラーム家の伝統に則った当主の在り方にならざるを得なくなったのだ。

 それから後、今日まで兄がどのように家業を再開したのかはキャメロンにはわからない。
 生前分与でケイロンに与えられていた莫大な資産が屋敷にそのまま無事に保管されていたことは知っているし、だから日々の暮らしは心配しなくていいと霊災後に説明もされたが、その資産を切り崩しながら生活を続けているわけではないのだ。ケイロンはケイロンで霊災後すぐにタッカーとカメリアとの三人で小さな錬金術材の専門商社のような事業を始めて、キャメロンが家を飛び出す頃にはその事業が軌道に乗り始め、アラミゴ解放戦線に参加したときには、衛生兵達が運ぶ荷物の中で兄の商社のラベルを目にした。
 ガルシア錬金商――霊災後において名の知れた新進気鋭の錬金術材専門商として、ケイロンは見事に一代で先祖顔負けの商売人に成り上がってみせたのだ。


 キャメロンが一通りの事情を説明し終えると、黙して聞いていたハリルがルビー色の瞳でゆっくりと瞬きをして、「そうですか」と短く溢した。
「ガルシア錬金商の名前は、ラザハンでもよく耳にしております。若様――いえ、旦那様は、年若い頃から一族の伝統に異を唱えていた方でしたから……ジャヌバラーム島が壊滅したことは悲劇ではありましたが、そこからご自身の代でまた商家として立て直しを図る際にジャヌバの看板を下ろしたお気持ちも、お察し致します」
「うん…」
「何より、今も旦那様が錬金術商として、そしてお嬢様が魔術師として大成なされていることは、私にとっても大変喜ばしいことでございます。すぐにでも旦那様へご挨拶に伺いたいところではありますが、ご事情から察するに、それも難しいでしょうな」
「うん。ごめんね、厄介な家で」
「いえいえ。こうしてお嬢様から一通りのお話は聞けましたし、これからは、ガルシア錬金商の評判がそのまま旦那様からの便りになります」
 ちょうど、チャイのカップが空になった。時間的にもそろそろオールド・シャーレアンへ向けて出発する頃合いだろう。キャメロンが席を立つと、ハリルが部屋の扉を開けて外まで見送ってくれた。
「お嬢様、どうかご無事で」
「……うん。善処する」
 冒険者という職業柄、無事の帰還はどうしてもできない約束だ。それを承知の上でも身を案じてくれる存在がここにもまた一人いたのだと思うと、サベネア島からテロフォロイの脅威を退けられて本当によかったと思う。
 少し名残惜しさも感じながらカーマ区を出てアルザダール廟を見下ろす回廊へ出ると、見知った顔が柱に背を預けてそこに佇んでいた。
「エスティニアン…」
 小さくその名を呼ぶと、気付いたエスティニアンがキャメロンへと顔を向ける。駆け足で隣に並ぶと、そのままキャメロンと共にエーテライトプラザ方面へ歩き出した。
「ごめん、もしかして遅刻してる?」
「いや、ちょうどいい頃合いだろう。あそこにいたのは別にお前を迎えに来ていたわけではなく、一人になれる場所を探した結果だ」
「そっか。それならよかった」
「そういうお前は、製糸局で会った男に会いに行っていたのか?」
 エスティニアンの言葉に、キャメロンは首を横に振って誤魔化すことにした。
「会いたかったけど、さすがに手掛かりなしで住宅街の中から探すのは難しかったよ」
「そうか。まあ今すぐに急ぐわけでもないのなら、状況が落ちついてからゆっくり話を聞きに行けばいいさ」
「あっ、そういえば」
 キャメロンは何か思いついたような素振りでエスティニアンの前へ駆け出すと、行く手を塞ぐように彼の目の前に立ちふさがる。一体何事だと怪訝そうな顔になるエスティニアンを見上げ、キャメロンは静寂を促すように人差し指を立ててみせた。
「私がどこかのお嬢様かもって話、暁のみんなには絶対に言わないでね!気を使われるのも嫌だから、あのハリルって人の話も内緒にしておいてくれる?」
 こういうふうに言っておけばエスティニアンから悪気なくハリルの話が広がることもないだろう、と念には念を入れて口止めをしておく。今回のことを知れば賢人達は絶対にハリルに詳しい話を聞きに行かせたがるだろうし、そうなってしまうと兄との連携もとれなくなってしまう。ハリルのことはあまり大事にせず、今後の対応をまずはケイロンに相談したかった。
 キャメロンの読み通り、エスティニアンは頼もしい笑みを浮かべてしっかりと頷いてくれた。ぽんぽんと再び帽子の上から押し付けるようにキャメロンの頭を撫で、そのまま先導するように先に歩き始める。
「了解だ、お嬢様・・・
「もう…!だから、そうやってイジられるのが嫌だって言ってるの!」
 脚の長いエスティニアンに追いつこうとキャメロンは駆け出し、その駆け出した勢いのまま彼の膝裏に頭突きをお見舞いしてやった。

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