暁の声





 ラザハンの混乱を一先ず治めた後にヴリトラの善意で提供された食事の場は、皆が前を向かなければならないと頭で理解していても、感情の面で払拭できない重々しい空気で満ちていた。ニッダーナのヒントやしるべの花の消失が証明したように、この終末は自分達の理の中では御すことができない――想いによって引き起こされる負の連鎖。
「……私たち、どうするべきなのかしら」
 アリゼーの言葉は、この場の全員が胸に抱いている思いそのものだった。誰もが押し黙り、例え一筋でも、この先の見えない暗闇を切り開く光がないものかと考えを巡らせる。すっかり姉の隣に並んで行動する姿が板についてきたカムイルと、そんな弟の膝に座って抱えられているキャメロンも、それぞれに目を伏せてこれまでの出来事を反芻していた。
 唯一の手掛かりだったアーカーシャに呼応する花も、この終末の訪れで消えてしまった。それでも何か、僅かでも足がかりにできる何かがないかと瞳を閉じたキャメロンの脳裏に、ふと、月の監視者にかけられた言葉が蘇った。

 ――覚えておくといい。その花は、我々の時代には「エルピス」と呼ばれていた。

「…………エルピス、」
 ぽつり、とキャメロンが口にする。
 一同の視線は自然とキャメロンへ集まり、その視線を察したキャメロンは、確信を持った表情で面を上げた。
「月の監視者が、あの花は、古代人の時代にはエルピスって呼ばれてた…って言ってた。これ、何かの足がかりにならないかな…?」
「確かに、月の監視者はそう言っていたわね」
 キャメロンの言葉でヤ・シュトラも思い出したようだが、思い出したところで、古代人の時代の言葉の真の意味を理解できる者はこの場にはいない。今の時代には残っていない言葉で、アニドラスの記録を閲覧した中にも登場しなかった単語だ。あまりにも漠然としていて、次の一手の足がかりとしては情報が乏し過ぎた。
「じゃあ、この線で追うのも無理ってこと?古代人の生きた時代のことなんて、聞ける人もいないし……」
「――いや……ひとりだけ、いるかもしれない」
 グ・ラハの言葉に、全員が弾かれたように顔を上げる。次にその口から飛び出したのは、すっかり原初世界での活動に追われていた全員が思いがけなかった人物の名で。
「……エリディブスだ」
 第一世界のクリスタルタワーに封印されたエリディブス。そこに囚われたエーテルは少しずつ星海に還っているが、もしもまだ魂が留まっていれば、話せる可能性もあるのではないかと言う。
 ソウル・サイフォンを介して原初世界へと戻った賢人達や、そもそもの召喚主であった水晶公の魂だけを運んで原初世界のグ・ラハ・ティアとして目覚めた彼では、もう第一世界に渡る方法はない――だがこの場には、今も尚、第一世界へと自由に渡ることができる人員が二人もいる。
「きゃめくん…、」
 自然と、キャメロンは自分を抱えている弟を見上げた。見上げられたカムイルは、まさかという表情で小さな姉を見下ろす。
「えっ……俺が、行くの…?」
「だって……エデン調査も含めて、暁のみんなの帰還支援以降の第一世界のことは、全部きゃめくんに任せるよ、って言ったじゃん。あっちに行ったら他のみんなの様子も見てきてほしいし、どうせリーンに顔見せるなら、絶対にきゃめくんが行った方がいいって」
「う…っ」
「それに、エリディブスと最後に戦って封印の場に立ち会ったのもきゃめくんでしょ?私はこっちに残って星戦士団の人達と各地の救援をしようと思うから……ね?」
 最早、その場の全員がカムイルを温かく送り出す空気になっていた。いたずらにリーンとの関係のことばかりを言っているわけではなく、カムイルになら任せられるとその場の全員が信頼してくれていて、こちらのことは任せておけ、と頼もしく構えてくれているのだ。そんな視線を一身に受けることにまだ慣れていないカムイルは、情けないが泣きそうな顔になって思わずグ・ラハに助け舟を求める。だがグ・ラハは力強く頷き返すだけで、かえってカムイルの退路は断たれた。
「ありがとう……お前がそうしてくれるなら、何より安心だ」
 そんな、憧れの英雄に全幅の信頼を寄せるかのような目で見ないでくれ。
 やっぱり無理だ。せめてキャメを一緒に同行させてくれ。堪らずそう訴えようと開きかけたカムイルの唇は、間を置かずサンクレッドが口にした言葉で何も言えなくなった。
「俺としても、願ったり叶ったりだ。少なくとも今は第一世界が無事であること、それがわかれば、踏ん張り甲斐もあるからな」
「…………」
 どんなに分の悪い賭けでも、今は乗るしかない。僅かな勝機であってもそこに希望を見出して、原初世界に残る者達もできる限りのことをやる――はっきりとした確認がなくとも、その場の全員がそのつもりで次の行動方針を決め、カムイルの膝に乗っていたキャメロンも、跳ねるようにそこから降りてアルフィノと話を始めてしまう。皆が次々と気持ちを切り替えて動き出す中、最後まで席を立てずに足元を見つめているしかなかったカムイルの肩を、サンクレッドがそっと叩いた。
「サンクレッド…、」
「俺からも頼む。リーンの暮らす世界を守るためにも」
 きゅっと、胸が締め付けられる思いだった。プレッシャーで泣きそうになるカムイルに、サンクレッドは苦笑を浮かべて「しっかりしろよ」と乱暴に頭を撫でてくれる。
「月で、レポリット達が言っていたんだ…星の外へ逃げる手段を原初世界以外の世界にも用意しているという話は、ないとは言い切れないが少なくとも聞いたことはない、ってな」
「でもっ…そんなこと言われても、俺……」
「…そう言いながら、もう腹の奥底では、想いは決まっているんだろ?」
 とっくに見透かされているのだとわかり、膝の上に乗せた拳をぎゅっと握り込んだ。
 そうだ。自分はまた、甘えようとしているだけなんだ。こうして自信がない素振りを見せれば、やっぱり姉も同行させようだとか、荷がまだ重いから役割を交代しようだとか、自分が言わずとも誰かが助け舟を出してくれるんじゃないかと思って、それで逃げようとしている。それを見透かした上で、サンクレッドは自分にリーン達のことを任せてくれているのだ。
「甘ったれのくせに、無責任に投げ出す勇気もないくらい臆病者だって、わかっているさ。そういうお前だから、リーンのことも、エルピスの調査のことも、任せられるんだ」
「やめてよ……俺、そんなに人間できてないって…」
「できてなくていいんだよ。お前は、自分が何のために戦って、何を守り抜きたいか…それをちゃんとわかってる。そこさえ揺らがなければ大丈夫だし、それが揺らぐお前でもないだろう?」
 乱暴に撫でられていた手は、最後はぽんぽんと、少し痛いくらいの加減で後頭部を押さえつけるように叩いてきた。手つきこそ荒っぽかったが、サンクレッドがかけてくれる言葉も声色も、嘘のように優しく穏やかで。どんなふうに発破をかければいいかをすっかり熟知されてしまっているのだとわかって、カムイルはそれ以上サンクレッドに何も言い返せなかった。
「……ありがとう。俺にできる限りのことは、やってくるよ」
「ああ。任せたぞ」

 サンクレッドと並んで席を立ち、遅れてアルザダール通りにいる皆の元に合流する。カムイルの顔つきが変わっていることに気付いた一同がそれぞれ口元に笑みを浮かべる中、グ・ラハが一歩前へ歩み寄ってその手に持ったソウル・サイフォンを差し出してきた。
「これをお前に託すのは、二度目だな」
「うん」
「これがあれば、結晶化した皇血に反応して、塔の制御機構が起動するはず……深慮の間の鍵はライナに預けたままになっているはずだから、あの子を訪ねて話を通してくれ」
「わかった。ライナにも、クリスタリウムのみんなにも、お前が息災だって伝えるよ」
「ああ。そうしてもらえると、助かる」
 ソウル・サイフォンを受け取り手に持つと、第一世界での最後の戦いの日々を思い出す。
 すっかり姉から第一世界のことを任されてしまってまだ戸惑いが拭いきれなかったカムイルに、「あんただって同じ名前を背負って足跡を残した英雄だ」と真っ直ぐな言葉をかけて励ましてくれたのが、当時まだ水晶公として共に肩を並べていたグ・ラハだった。そんな彼からもう一度託されたソウル・サイフォンからは、手で握った以上の重みを感じる。
 もうこの結晶の中には誰の魂も宿っていないが、魂の代わりに、この終末に抗ってみせるという皆の強い想いが込められている。それをこうして託されたのだから、もう甘えて逃げ腰でいるわけにはいかないのだ。
 ソウル・サイフォンを丁寧にしまって、最後に隣に立っているキャメロンを見下ろす。視線が合った姉は、先程のグ・ラハと同じように手に握ったものを差し出してきた。
「これ、きゃめくんが持っていって」
 両手を器のように揃えて開いた小さな掌の上に、二人で共有しているソウルクリスタルが五つ、輝いていた。盾役になれるガンブレーカー、治癒を行える白魔道士、接近戦用のモンク、攻守併せ持つ踊り子、そして…――
「これ……」

 絶対の破壊の力を司る、黒魔道士の証――シャトトの魔石

 姉の掌の上で輝く紫色の魔石を見て、その決意の固さに、カムイルは何も言わずそれらのクリスタルを受け取った。彼女にとって何よりも大切な黒魔道士のソウルクリスタル。それを託されることの意味とその重大さは、自分が一番よくわかっている。素直に受け取り呪術士から黒魔道士へとジョブチェンジした弟の姿を見て、いつの間にか背中に輝くアルマゲドンを携えていたキャメロンは満足そうに笑った。
「それ、絶対に返してもらうからね」
「おう。それじゃこっちは、パーフェクトレジェンド様に任せたよ」
 最後に拳と拳を突き合せ、カムイルはそのままテレポでモードゥナへと向かった。


   ◆◇◆


 レイクランドへと渡り無事にライナと合流できたカムイルは、リーンも異変を察知して不安げな様子だったという話を聞き、隠せず表情を険しくした。
「あなたになら話せるかもしれませんね……よければ、彼女に声をかけてきましょうか?」
「…うん、お願い。それと、男の姿でこっちに来てることも伝えておいてくれるかな」
「ええ、承りました」
 ライナには姉との入れ替わりの件は伝えていないため、言葉を濁してカムイル本人が来ていることがわかるようにと言伝を頼む。疑うことなく快く引き受けてくれたライナと共にクリスタリウムへ戻ったカムイルは、そこで彼女と別れ、待ち合わせ場所に指定された博物陳列館前までの街並みを眺めながら歩いて向かった。

 エデンの調査を終えて以来になるクリスタリウムには、確かにあの頃以上に住人達の活気が溢れている。待ち合わせ地点で立っているだけでも道行く住人達から嬉しそうに言葉をかけてもらえたり、ちょうど館内から出てきたベーク=ラグとモーレンとも久しぶりに顔を合わせることができた。それが落ちついたと思ったら拗ねたフェオにも小言を言われたりして、やれやれ、と溜息を吐いたところで後背から二人分の足音が聞こえてくる。
「!」
 飛び上がりそうになる体をぐっとこらえて、だが大仰な動作はどうにも抑えられず、カムイルは弾かれるように階段の方へと振り返った。視線の先にいたのはやはりライナと、彼女に案内されてやってきたリーンだった。まだ距離がある段階でも視線が合うと、遠くからでもリーンがぱっと顔を輝かせてくれたのがわかる。それを見て胸の内側から込み上がってくるものがないはずもなく、カムイルは胸を押さえて堪えるように唇を噛んだ。
「お待たせしました」
「キャメさん!お久しぶりです……!」
 眩しい笑顔と、弾むような声色。リーンの気持ちはライナにも察するところがあるようで、口元に手を当てて上品な笑いを溢す。
「つもる話もあると思いますので、あとはおふたりで……」
「その言い方は緊張するからやめて!?」
「深慮の間の鍵も開けておきましたので、ご自由にお入りください」
 そう言うと、ライナはあたたかい眼差しのままその場を後にしてしまう。妙な言い回しをされて急に胸がどぎまぎと沸騰しかけたカムイルは、ライナの背中が見えなくなるまで彼女のことを見送り、そして眼下のリーンを見下ろして、再び視線が絡むと「うぐ…」と情けない声を思わず漏らした。
「えっ…と……ここじゃ落ちつかないし、とりあえず、俺の部屋に行こっか…?」
 別に下心があるわけではない。これからリーンと共有しなければならない情報は、もしもクリスタリウムの住民達に聞かれようものなら、不要な混乱を招きかねないものだ。だから個室で話した方がいいと思っただけで、リーンが部屋に来てくれるのは初めてのことでもないし、エデン調査後の滞在期間で何日か二人きりで過ごしたときも変なことは起きなかったし、だから大丈夫だ――と、カムイルはありったけの言い訳を、自分自身に言い聞かせるように頭の中にぐるぐると思い浮かべる。
 カムイルのそんな姿ですら見るのが久しぶりのリーンは、しどろもどろのカムイルの顔を覗き込んで飛びきりの笑顔で頷いてくれた。
「はい…!ぜひ、お邪魔させて下さい!」


 ペンダント居住館へ移動するまでの道中で原初世界へ戻った後のサンクレッド達の様子について話すと、リーンは嬉しそうに何度も頷き返してくれた。
 ライナからも伝え聞いてはいたようだが、直接彼らと過ごしているカムイルからの話となると、また実感も違ってくるのだろう。部屋について中へと入ったリーンは、随分と安心した様子でカムイルを振り返った。
「よかったです…ここのところ、不吉な気配を感じていたものだから、何かあったんじゃないかって……」
「……それなんだけど、さ」
 静かに扉を閉じ、念のために盗聴を防ぐ魔法を室内に張ってから、ダイニングテーブルへつくようにリーンに促す。リーンの対面に座ったカムイルの表情が硬いことに気付くと、リーンの顔からも少しずつ安堵の表情が薄れていく。
「その、リーンが感じていた不吉な気配ってやつ…詳しく聞かせてもらえる?」
「あっ、えっと、単なる思い過ごしかもしれないんですが……」
 リーンが話すには、今まで光の巫女として自身の奥深くに感じられていたハイデリンとの繋がりがここ数日で不安定になり、ついにその繋がりが途切れたような感覚があったという。そして、それを感じて目覚めた夜に空が赤く燃える幻影を見たとも――

 リーンから事情を聞いたカムイルは、慎重に言葉を選びながら、原初世界で今までに起きた出来事と、ハイデリンとゾディアークの現状、そんな状況の中で姉と共に表立って行動するようになったことと、そして自分が「エルピス」という言葉を追って第一世界へ来た経緯について話した。
 終末の有様について聞くリーンの表情は最初こそ怯えて強張っていたものの、カムイルが一通りの説明を終える頃には、覚悟を決めた顔つきに変わっていて。それが、困難な状況を前にしてもできる限りのことを全力でやり通すと決めたときの彼女の表情だということをよく知っているカムイルは、自分よりよほど頼もしく思える姿に思わず口元を綻ばせた。
 何事にも一生懸命に向かっていくリーンを見ていると、愛おしさが込み上げてくる。自分にはないものを持っている彼女が眩しくて、そんな彼女にこれからも訪れる未来を大切にしたいし、守りたいのだ。祝福ある明日を願っているのは、サンクレッドだけじゃない。カムイルは、彼女と彼女の暮らす世界を守るためにここまで来たのだから。
「先ほどお伝えしたとおり、第一世界では、現在異変は起きていません。私たちは、まだ大丈夫です」
「うん、」
「だから、こちらのことは心配せずに、目の前にある危機に立ち向かってください」
 もう、自分は助からなくてもいいなんて言わない――原初世界も、第一世界も、まだ見ぬ他の鏡像世界も。今ある生命が、望まぬ終わりをもたらされるのではなく、それぞれの明日を生きていけるように。
 リーンの想いを受け取ったカムイルは、決意を新たにした顔つきで頷いてから席を立った。リーンも続いて席を立ち、カムイルを見送るためにその背中を追いかける。
「あの……っ…――か、カムイル…!」
「!」
 思いがけない呼びかけに、カムイルはドアノブを握ろうとしていた手を離して振り向く。振り向いた先で目が合ったリーンは、少し緊張して頬を色づかせながら、真っ直ぐにカムイルを見上げていた。
「…………覚えてて、くれたの…?」

 最後にリーンと過ごしたとき――エデンの調査が落ちついて、ガイアが報告書を書き上げるのを待っていた数日間。
 自分自身の想いを伝える勇気が最後まで出なかったカムイルは、せめて告白の代わりになればと思って、リーンにだけ自分の本当の名前を教えていた。直接的な愛の告白よりも彼女を困らせることがないだろうし、それをどう受け止めるかも彼女に選ばせてあげることができるから。そう自分勝手に考え抜いた末の迷惑な置き土産なのに、リーンは大切に受け取ってくれていたのだ。
「当たり前です…!こんな、大切なもの…忘れるわけありません」
 リーンという名前を与えられるまでに複雑な人生を歩んできた彼女だから、自分自身の名前を持つ意味も、その重みも、きっと他の誰よりもわかっている。そこまで見越して打算で秘密の共有を押し付けたのに、リーンはしっかりと受け止めてくれて、名前を告げることの裏側に隠した想いまで気づいてくれたのだ。弾かれるように駆け寄ってきて迷わず抱きついてくれた彼女の体温を感じて、それを思う。
「お願い、カムイル……絶対に、戻ってきてください…」
 まだ、互いに直接的な言葉は交わしていない。それでも、想いが通じ合っているのだと痛い程に伝わってくる。
 そうしてしばらく互いに無言で想いを確かめ合ってから、名残惜しそうに体を離したリーンが手に握っていたものをカムイルへと差し出した。
「……これ、持っていってください」
 大氷河の永久氷晶が、部屋の明かりを反射して煌めいている。
「これって…ガイアと一緒に、ネックレスに加工したんじゃないの?」
「そのときの残りです。今度またカムイルに会えたら渡したいと思っていて…」
 リーンが疑似蛮神のシヴァをその身に降ろした際、共鳴した氷と光の属性エーテルが暴走しかけて生じたこの氷晶には、まさしくリーンの魂が込められている。想定外の緊急事態の中で生成されたものではあったが、受け取って手にした氷晶には、あのとき以上の何かが込められているように感じられた。
「ガイアの意識が囚われてしまったときも、その永久氷晶からつくったネックレスが標になってガイアを助けてくれたから…ソイルに魔力を込めるみたいに、ずっと、そこに私の魔力を込めていたんです。一緒について行くことはできなくても、せめてお守り代わりに持っていてほしくて」
「…うん。ありがとう」
 託された想いを大切にしまって、二人で一緒に部屋を出る。見送ってくれるリーンと一緒に居住館を一階まで降りると、カムイルは部屋の鍵を管理人には預けず、彼の目の前でリーンに手渡した。それとなく二人の雰囲気を察していた管理人は、何も言わず温かい眼差しでそのやりとりを見届けてくれている。
「部屋の鍵、リーンが持ってて。俺が戻ってくるまで、自由に使ったり出入りもしていていいから」
「えっ、でも……」
「またこっちに来るときは、フェオちゃんにお願いして連絡するから…だから、俺の部屋で待っていてほしいんだ」
 さすがに少し恥ずかしくなったカムイルが視線を横に逸らすと、言葉の意味を理解したリーンの顔が花のほころぶかのように輝いた。手渡された鍵をぎゅっと胸元に握りしめ、感極まった表情で頷いてくれる。
「はい…!貴方が無事に帰ってくることを信じて、お待ちしています!」
「うん。それじゃ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい。どうか、気をつけて」
 リーンと管理人に見送られ、カムイルは背中で手を振りながら深慮の間へと向かった。

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