エタバンをとめないで



 本日の紅玉海は心地よく凪いでいる。
 帝国軍との緊張状態が一時的に解かれたことでひんがしの海賊衆達はほんの少し暇の時間が増え、副頭領であるタンスイも一人沖まで漕ぎだして釣り糸を垂らしていた。
 不意に、そんなタンスイの舟の上へ大隼の影が重なった。その影がなかなか自分の上から退かないので逆光の中で首だけ反らして顔を上げると、頭上にいたのは大隼ではなく、否応にも見慣れてしまった浅葱色の羽根のチョコボである。
「よっ、タンスイ」
「おう、久しぶりじゃねえか」
 逆光で姿こそはっきりしないが、よく見知った冒険者――カムイルの声が聞こえ、やはりそうか、とタンスイは釣り餌を引き上げた。姉の影武者ではなく表立って行動できるようになったという噂は聞いていたが、大戦のごたごたが落ちついてから顔を合わせるのは初めてである。チョコボが器用に水面近くまで低空飛行して乗り手の顔が見えるようになると、見知らぬ娘が相乗りしているのを見てタンスイは驚いた。だが何を言われずとも事情は察せられる仲なので、「なるほどな」と小さく笑って歓迎する。
「タンスイに会いたいって言うから連れてきた」
「そうかい。ここじゃ難儀だから、砦でゆっくり話そうや」
 空路と海路でそれぞれ浜まで戻り、顔が知れた上にタンスイの情夫らしいということも公然の事実もあったカムイルが異国の麗しい乙女を連れてやってきたこともあって、海賊衆達は騒然とした。
 遅れて到着したタンスイが「一体どうなっているんだ」と手下達に言い寄られたが、気を使ってくれたラショウが使っていない離れの小部屋を都合してくれたので、三人でゆっくりと話せることになった。今回ばかりは客人扱いだからとタンスイが酒と肴を持ち込み、猪口をカムイルとリーンの前に置く。
「嬢ちゃんはまだ若そうだが、飲めるのか?」
「暮らしている地域では、年齢的には飲めることになっていますが…まだ、あまり」
「じゃあ、まだこっちの酒だと強いか…お前はいつものやつでいいか?」
「俺はリーンを送らなきゃだからノンアルで」
 結局飲むのはタンスイ一人だけということで、カムイルが慣れた手つきでタンスイの猪口に酒を注ぐ。タンスイはその中身を一口で飲み干すと、空になった猪口を差し出しながらしみじみと二人を見比べた。
「…俺に顔見せに来たってことは、全部話したんだな」
 タンスイの言葉に、二人は同時に頷いた。


 昨夜のカムイルからの告白――暴漢に襲われたトラウマで心身共に傷つき荒みかけていたカムイルに声をかけたのがタンスイだった。
 長年海賊衆の中にあって後輩や部下の面倒を見てきたタンスイにとって、自虐的に開き直って過去に蓋をしようとするカムイルの危うさは容易に察せられるもので、不特定多数の相手を持つ前に待ったをかけて首輪をつけてやったのだ。二人の目的はあくまで、合意の上で互いを気遣い想い合って肌を重ねる行為を知ることで、本来セックスがどうあるべきものなのかをカムイルの心身に覚え直させることだった。ある意味、強すぎるトラウマに対するショック療法である。当然、互いに恋愛感情などなく、肌を重ねていてもそんな兆しは微塵もなかった。カムイルがタンスイと関係を持ったときにはすでにリーンへの想いに自覚はあり、タンスイもまた、カムイルには想い人がいるが止むに止まれぬ複雑な事情で想いを遂げることはできない、という言い訳がましい愚痴を聞いていたので、最初から期限付きのパートナーとして関係が成立していた。
 とはいえ、精神的にはリーンを想いながらも同時期に肉体的なパートナーとしてタンスイと関係があったことは事実で。複雑な背景があることや当時まだ想い合っている確証がなかったことを考慮しても、受け取り方によっては二心があったと責められてもおかしくない状況だ。隠し事がなくなったところで、事実でリーンを気付つけてしまうのではないかと、カムイルは打ち明けながらも最後まで不安で仕方なかった。
 だがリーンはやはり、カムイルの話を最後まで真剣に聞いて、受け止めてくれた。
「……幻滅した?」
 おそるおそる問いかけるカムイルに、リーンは何度も首を横に振って答える。話を聞くうちに目の端へ溜まっていた涙が頭を振るたびに部屋の照明できらきらと光って、それがカムイルにはとても眩しく見えた。
「幻滅なんて、そんなこと…っ…」
 言いながら涙が込み上げてきて、リーンは言葉に詰まる。
 幻滅なんてするはずがない。裏切られたとも思わない。ただただ、彼が真摯に「優しい」と感じて、その優しさで涙が止まらなかった。
 俯いたまま動けなくなってしまったリーンを、カムイルは遠慮がちに抱きしめる。胸の中におさめたリーンがそのまま身を預けてくれたので、拒絶されていないとわかって抱く腕に力を込めた。
「ごめん…ごめんね…嫌な話だったよね」
 カムイルの言葉を強く否定するように、リーンが腕の中でめいっぱい首を横に振った。
「違…っ…だって、また…私のことばっかり、気にかけて…」
「それは…でも気持ちいい話じゃないでしょ、こんなの」
「一番つらいのは、貴方なのに…っ」

 生まれた部族のことも、暴漢に襲われたことも。リーンには想像もできないほどつらい記憶なのに、カムイルは自身のつらさを飲み込んですべてを打ち明けてくれたのだ。
 彼が今「つらかった」「悲しかった」と言ってくれれば抱きしめて慰めることもできたのに、そんな素振りも見せないからこちらが甘えるばかりになってしまう。でもリーンは、そんなカムイルの優しさに惹かれて彼に心を寄せるようになったのだ。
「貴方の過去に何があったとしても…私は、貴方のことが変わらずに好きです」
 額を彼の胸に押し当て、そこからじんわりと伝わってくる体温に瞼を閉じる。
「貴方は優しいから…私が後悔しないように、違う道を選べるように、こうして話してくれていることもわかっています。でも、私はもう…カムイルのことを諦めたくない。ずっと傍にはいられなくても、生きていく世界が違っても、貴方のことを想っていたいんです」
「……違うよ、リーン。俺、全然優しくないよ」
 リーンの両頬に手が添えられ、大きな指で目の端の涙を拭われた。それでようやく涙の勢いが治まったリーンが顔を上げると、片膝をついているカムイルと顔の高さが並んでいた。
「優しいんじゃなくて、自分勝手なんだよ。黙ったままじゃ後ろめたくていたたまれないから、自分が苦しまないようにリーンに聞いてもらってるだけ。それに、リーンなら受け入れてくれるかも…って、打算で話したところもあるしね」
「カムイル…っ」
「それで、相手が受け入れてくれるってわかったら徹底的に甘えるし。横着で自分勝手でめちゃくちゃ面倒くさい性格だけど……本当に、俺でいいの…?」
 頷いて、リーンは飛び込むようにカムイルの胸の中へと抱きついた。ソファから体が離れたリーンをしっかり抱き止め、カムイルは確かめるように強く抱きしめる。リーンも応えるように、背中へ回した腕で強く抱き返した。
「ごめん、待たせちゃって…でも俺も、ずっとリーンと同じ気持ちだったよ」
「いいんです。貴方のためなら、いつまでも待てるから……カムイルこそ、私でいいんですか?」
「何、言ってんの…?これだけ荒事が嫌だ嫌だって言ってる俺が自分の手で守りたいと思える相手なんて、どこの世界探してもリーンしかいないよ」

 かつて、姉が「ナナモが治めるウルダハを守りたいから世界ごと救うんだ」と語っているのを聞いたとき、そんな大それたことを言えるのは姉が強い心の持ち主だからであって、気の弱い自分にはそんなことを思える日は来ないだろうと思っていた。
 だがリーンと出会って、エリディブスと戦って、エデンに立ち向かって、今回の大戦の最前線に立って――そのとき胸の中にあったのは、リーンが暮らす第一世界を守りたいという気持ちだった。リーンと、リーンが大切に思うものを守りたい。自分の手が届く場所は限られているとしても、届くのなら立ち向かいたい。そんな感情に突き動かされたのは生まれて初めてのことで、これからも、リーン以外にはいないと確信している。
「ずっと好きだった…好きすぎてどうにかなるかと思ってたし、正直、今もやばい…」
「ふふっ…こうしていると、ドキドキしてるのが伝わってきます」
「当たり前でしょ…!もう…なんか、リーンがすでに余裕そうなのが悔しいんだけど…」
「私は…たぶん、今は嬉しい気持ちの方が強いから」
 リーンが腕の中で身を捩り、カムイルの肩に手をついて上体を起こした。カムイルがそれに合わせて腰に腕を回して支えると、拗ねている顔から眼鏡を外してエメラルドの瞳を直に覗き込んでくる。
「優しいカムイルも、格好いいカムイルも、可愛いカムイルも…私、全部大好きです」


   ◆◇◆


「――というわけでね、リーンがタンスイといろいろ話したいんだって」
 時は現在、場所はオノコロ島へと戻る。
 タンスイへ一通りの報告を終えたカムイルが言い捨てて「よいしょ」と腰を上げたので、タンスイは慌ててそれを引き留めた。
「おい。その大事な嬢ちゃんを男と一緒に残してどこ行く気だ」
「タンスイが釣ってきた魚捌いてくるよ。まさかこの状況でリーンに手出しできるほど、タンスイの心も体ももう若くないってわかってるし」
「お前はそういう危機感の無さが……チッ、相変わらず話を聞きやしねえ」
 カムイルが調理師に着替えながら鼻歌交じりで小屋を出て行ってしまい、タンスイはがしがしと頭を掻くしかなかった。やれやれというタンスイの溜息と、楽しそうに笑うリーンの声が重なる。
「本当にいいのか?あんたにとっちゃ、俺は間男みたいなもんだろ」
「そんなことないです!私の知らないキャメさんのことをたくさん知っている人だと思うと、ぜひいろいろとお話を聞いてみたくて…!」
 些か興奮気味に目を輝かせているリーンを前に、どうしたものか、とタンスイは考えを巡らせながら顎を撫でた。確かに彼女の知らないカムイルのことを知ってはいるが、その大半は閨の中でのことになるし、それをわざわざ教えるほど粋狂ではない。それともそちらを期待されているのかとも考えてみたが、どちらかと言えば清純そうな見目をしているリーンなので、その線も薄いだろう。
 それにしても、カムイルが連れてきた想い人が思ったよりも大人しそうな雰囲気だったので、タンスイは改めて、それとなくリーンのことを観察した。年下だという話は聞いていたが、それでもあのカムイルの性格なので、もっと積極的でぐいぐいと引っ張ってくれるタイプ(それこそ彼の姉のような)を連れてくると思っていたのだ。この分だとカムイルがリードしていきそうな雰囲気なのだが、あいつ大丈夫なのか、と要らない不安がタンスイの頭を過った。
「……で、俺に何が聞きたいって?」
 要らないことを考えていても仕方ないので、話を振ってみる。どうせなら酒の肴にさせてもらおうとタンスイが徳利を持つとリーンが慌てて酌をしようと腰を上げるので、手でそれを制して続きを促す。
「えーっと、そうですね…何から聞こうかな…」
「そんなに聞きたいことがあるのか?」
「はいっ、もちろんです!」
 前言撤回。かなり積極的な娘なのかもしれない。
「でもなぁ…たぶん普通に過ごしている分には、嬢ちゃんの方があいつに詳しいと思うぞ。冗談抜きで、あいつは俺を眠れない日の抱き枕か何かだと思ってるからな」
「…そういえば、タンスイさんはキャメさんのこと、名前で呼ばないんですね」
「まあな、」
 ぐい、とタンスイが猪口を傾ける。
「だってキャメロンってのは、あいつの姉貴の方の名前だろ。一体どういう理由があるかは知らないが、姉貴の名前ってことは姉貴の看板だ。あいつが俺のところに来るのは…まあ口には出さなかったが、肩の荷を下ろして何もかも忘れたいときだったのさ。それなのに俺まで姉貴の名前で呼んでいたら、伸ばせる羽も伸ばせないだろう…ってな」
 少し喋りすぎたか、なんて。猪口の残りを飲み干してからタンスイは再びリーンへ顔を向ける。だがタンスイの話をじっと聞いていたリーンの表情は感激した様子で輝いていて、嗚呼この娘は本物かもしれないな、とタンスイは感心した。
「本当に…好きで仕方ないんだな、あいつのこと」
「はい…!」
 こんなに歳が若くて、できたばかりの恋人と以前に関係があった相手に当人の話をされたら、悋気の一つや二つ起こしたりするものではないかと思うのに。前向きな気持ちで受け入れることができるなんて、あの無精者にはもったいないくらい出来た娘だ。
「タンスイさんのお話事体は、ずっと前から聞いていたんです。人生の先輩として、いろいろ話を聞いてもらえる相手だって」
「ふん…説教臭いオヤジの間違いじゃないのか」
「ふふ、それも言ってましたけど…さっきのお話を聞いて、キャメさんが頼りにしている理由がわかりました」
「ま、ともあれ俺は世話役を降りられるってわけだ。デカい体に似合わず甘ったれで面倒な奴だが、可愛がってやってくれや」
 タンスイの言葉に、リーンは力強く頷いて返した。
「私はまだ、タンスイさんみたいにキャメさんに甘えてもらえないかもしれないけど…でも、いつかそうなってもらえたら嬉しいな、って。そう思います」
「そうかぁ?あいつ、深い仲になった相手に甘えるまでの時間はめちゃくちゃ短いぞ」
「ええっ、そうなんですか!?くっ…詳しく聞かせて下さい、そのお話…!」
「お、おう…」
 座卓に手をついて身を乗り出してきたリーンに、タンスイは思わず気圧されて上体を反らした。


   ◆◇◆


 祝いだ何だと海賊衆が盛大な酒盛りをしてくれたおかげで、カムイルとリーンがクガネに引き返す頃にはすっかり陽が落ちていた。せっかくだからと帰りは船に乗せて送ってもらうことになり、酒を断る理由がなくなったカムイルは無理のない程度に大いに飲まされた。酒には強い方で清酒との相性もいいので酩酊状態にはならなかったものの、明日の体調が少し心配になった。リーンも試しに猪口に一杯だけ清酒をもらって、飲みやすさに感激しておかわりしようとしていたので何とか言いくるめて止めさせた。まだアルコールを飲み慣れていないであろうリーンがぐいぐい飲むには、清酒の度数はいささか高すぎる。その証拠に、夜風に当たるために甲板へ出たリーンはほろ酔いだった。
 遮るものの少ない紅玉海では、獄之蓋さえ越えてしまえば視界が一気に広がる。リーンは行燈に照らされたクガネの夜景を目にして「わぁ…!」と感嘆の声を上げた。
「今夜はもう遅いし、クガネに泊まろうか」
「はい!明日になったら、少し街の方も見て回っていいですか?」
「もちろん。ウルダハやリムサ以上に珍しいものがたくさんあるよ」
 第二波止場まで送ってくれた海賊衆に礼を言って、彼らの船が小さくなるまで見送る。振り返って見上げたクガネの街は遠目で見るのとはまた違った様相で、行燈の光に負けないくらいリーンのアイスブルーの瞳も輝いていた。
「宿は階段を上がって一番奥なんだけど、歩けそう?」
「大丈夫です。かなり飲んでいたみたいですけど、キャメさんこそ大丈夫ですか?」
「真っ直ぐ歩けるから平気だよ。じゃあ、行こうか」
 自然と手を繋いで、夜のクガネへと歩き出す。どこへ行くにもまずは潮風亭を通らなければならないので真っ直ぐに進み、夜道の石階段に気を付けるようにリーンの足元を見ながら階段を上がって、ふと顔を上げた瞬間、視界に飛び込んできた男の顔を見て「うわっ」とカムイルは悲鳴に近い声を上げた。
「お帰りなさいませ。お二人のお帰りをお待ちしておりまシタ」
「お断りします」
 酔いも吹き飛ぶその顔に、リーンの手を強く握って踵を返そうとする。だがその前に男が「オォ~!」と落胆するので、気を引かれたリーンが立ち止まってしまい逃げることは叶わなかった。この野郎、事情を知らないリーンの方に訴えてきやがった。
 青い和装に、この街には似合わぬ赤いサングラスと金色の髪。東アルデナード商会クガネ支店番頭こと、ひんがしで最も怪しい男――ハンコックである。
「だ…大丈夫ですか…?」
「リーン、いいんだよ。怪しい人は無視しろ、ってウルダハで教えたでしょ」
「ひどいデス!今日は、ご当主様からのご依頼でお迎えに上がりましたのに!」
 兄からの依頼と言われ、無視して通り過ぎようとしたカムイルの足がぴくりと止まった。
 ハンコックはひんがしで最も怪しい男ではあるのだが、同時に、取引において嘘は吐かないので最も信用に値する男でもあるのだ。そのハンコックが兄ケイロンの名前を出すということは、本当にケイロンからの言伝を預かっているのだろう。何より、ケイロンは交渉事で勝手に名前を使われてタダで済ませるような人ではない。それはハンコックも重々承知しているはずだ。
「兄上が…?」
 そんな兄からの依頼となれば、無碍に扱うわけにもいかない。カムイルが話を聞く態度になったので、ハンコックはにっこりと営業向けの笑顔を貼り付けて「ええ、ええ」と嬉しそうに頷いた。袖の下へ手を入れると、丸めて留めた和紙を取り出してそれをカムイルへ手渡す。
「これは…?」
「望海楼別邸にある特別室の宿泊案内デ~ス!弟君が恋人とクガネに泊まるはずだから、その時はこれを渡してほしいと…」
「兄上ーッ!」
 ハンコックから詳細を聞き、カムイルは案内を持ったまま膝から崩れ落ちた。
 いつもの癖でひんがし方面へ行くことを姉に伝えたのが間違いだった。キャメロンはケイロンに付き添っているからそこで情報は筒抜けになるだろうし、もしかしたらカメリアとタッカーにも知られているかもしれない。というか、リーンのことを「恋人」と表現したのは間違いなくカメリアの入れ知恵だろう。さすがにリーンとの仲が進展したことまでは報告していないので冗談で言ったのかもしれないが、これでリーンとの関係がまだ友人のままだったらどうするつもりだったのか。むしろ意気地のない弟の背中を押すつもりで部屋を用意してくれたのか。それでクガネの宿で一番高い部屋を押さえて寄越してくる兄の財力と行動力が恐ろしい。兄も姉も贅沢らしい贅沢はしないのですっかり忘れていたが、ジャヌバラーム家がウルダハでも指折りの大資産家だという事実をこの歳になって初めて突きつけられたような気がした。
「もうやだ…あの人こういうところある…キャラじゃないのに真顔でボケるから怖い」
「お気に召しませんで…?」
「むちゃくちゃ助かりますありがとうございます」
 往来でいつまでも蹲っているわけにもいかないので、カムイルは気を取り直して立ち上がった。その隙に、とハンコックがリーンへ深々と頭を下げて挨拶する。
「挨拶が遅れてしまいましたが…私はハンコック、東アルデナード商会の番頭デス。この街でご入用のものがあれば、ぜひ私に――」
「その前に俺を通してね」
 リーンの手を引き、ハンコックのセールストークが始まる前に望海楼へ向かった。


 望海楼の受付で渡された紙を見せると、いつも泊っている棟とは違う部屋へ案内された。渡殿を通って向かったのはいつもの場所からは見えない位置にある別館で、こうして泊まることがなければ存在さえ知らなかっただろう。周囲を竹に囲まれているので街の喧騒が届かず、本館脇の露天風呂にある滝湯の音が微かに聞こえる程度だった。
 最早これは一軒家の趣なのでは、という立派な玄関をくぐって中へ入ると、上品な木の香りに迎えられて思わず鼻から大きく息を吸い込んだ。靴を脱がなくてもわかる、この部屋のグレードは相当高い。昨日ウルダハで泊まった部屋が霞んで消えそうだった。
 仲居の案内はここまでのようで、夕飯の用意について訊ねられた。筋違砦で十分食べてきたので断って、代わりにデザートをもらえないかと交渉してみるとあっさり受け付けてくれた。
 本格的な東方風の建物は初めてのリーンに靴を脱ぐように教えて、室内履きに履き替えて中へと進む。玄関から上がってすぐの引き戸を開けると、広い庭園を臨む居室が現れた。一面が庭園に面しているせいか、見た目の印象だけならSサイズの家より広いのではないか、とさえ感じる。奥へ進むとパーティションで区切られた寝室があり、そこに用意されていたのがキングサイズのベッド一つだけだったのでカムイルは思わず頭を抱えた。遅れてついてきたリーンもそれに気付き、何は言わずとも頬をほんのりと赤らめる。
「……リーン、ほんとごめんね。俺、あっちのソファで寝るから」
「い、いえ…!カムイルさえよければ、私は別に…」
 本当に、リーンとの関係がそのままだったらどうするつもりだったのか。
 昨日の今日で事を急くつもりはもちろんないが、その気はなくても一つの布団で寝るにはあまりにも急すぎる。話題を変えようと寝室にあるクローゼットを開けると、思った通り、部屋着用の浴衣が用意されていた。ケイロンが予めサイズを伝えていたようで、色柄が選べるように数種類用意されている。
「これ、クガネの人達が来ていた服と同じものですか?」
「うん、それよりかなり簡易的なものだけどね。バスローブみたいな感じで着られるけど、少しコツがいるから教えるよ」
 服を着ているうちに、とリーンに一着選んでもらって上から羽織らせる。不慣れな観光客でも着崩れないように内側に留め具があるタイプだったので、ありがたい、とカムイルは望海楼の心遣いに心底感謝した。襟の合わせ方と、おはしょりがつくれそうな長さだったのでそれもレクチャーして、一通り着られた頃合いでデザートが届いた。浴衣はベッドの上に置いて居室に戻ると、白玉寒天と抹茶アイスが添えられただけのシンプルなあんみつが用意されていた。二人掛けのソファに並んで座ったところで、小鉢に分けてある餡と黒蜜はお好みで混ぜるように説明され、仲居がしずしずと部屋を後にした。カムイルが黒蜜をかけると、リーンも真似して小鉢を手に取る。
「あれ…もう一つの小鉢は使わないんですか?」
「ああ、俺はあんまり餡子が好きじゃないから…リーンは好きな甘さだと思うよ」
 リーンが試しにスプーンで少しだけ掬って味見してみると、砂糖で煮詰めた甘さが程よくて好みの味だった。
「カムイルが苦手な食べ物って、初めて聞いた気がします。でも、他の甘いものは得意ですよね?」
「うーん…そうなんだけど、豆で煮た餡子の甘さは苦手なんだよね。胡麻とか栗のやつは平気。豆の餡も食べられるけど、分けてあるなら他の人にあげちゃってるんだ」
「なるほど…」
「これ白玉と寒天には味がついてないから、大丈夫なら餡も混ぜた方がおいしいと思うよ」
 ほら、とカムイルが自分の分の小鉢をリーンの盆へ乗せると、リーンも遠慮せずに受け取ってくれた。こういうときに遠慮しなくなってくれたのは、小さな変化だがとても嬉しい。リーンはあんみつを気に入って堪能し、カムイルの分の餡子もアイスを食べるみたいに掬って平らげた。
 空になった器をローテーブルの端に片付けて、ほっと一息吐く。リーンが肩に頭を預けて寄りかかってきてくれたので、腰に手を回してそれに応えた。触れ合う体温が心地よくて、忘れていた酒の酔いでうっかり瞼を閉じそうなくらいだ、
「こんな立派なお部屋を用意してもらえるなんて…カムイルとキャメさんのお家って、もしかしてガイアみたいなお金持ちなんですか?」
「ガイアの家がどれくらいかわからないけど、まあ…お金持ちかな。でも普段の生活で贅沢は全然していないし、資産のほとんどは兄上が研究費に使ってる。だから俺もおきゃめも、自分達の貯金は自力で稼いでるよ」
「でも、クガネに来るのは昨日の夜決めたばかりだったのに。すぐにこの部屋をとれるなんて、本当にすごい人…」
「ごめん、俺がいつもの癖でおきゃめに教えちゃってたから…でもリーンとのことは報告してないから、あのベッドはマジで完全に悪ノリだと思う」
「……私は、カムイルの隣で寝たいです」
 きゅっ、と空いた手で思わず尻尾を掴んだ。
「せっかくこんなにいいお部屋に泊まれるのに…このソファも十分大きいけど、もったいないから」
「さすがに無防備すぎじゃない…?俺、勘違いして調子に乗っちゃうよ?」
「勘違いじゃないから大丈夫ですよ。それに、タンスイさんも言ってました。カムイルは自分がつらい思いをしたから、こういうことに対しては絶対に大事にしてくれる、って」
「あんのエロオヤジ…!他に変なこと言われなかった?大丈夫?」
「ふふっ」
 その笑いはどっちの意味なんだ、とカムイルはリーンの顔を覗き込んだが、リーンは相変わらず楽しそうに笑っているだけだ。その幸せそうな笑顔がとてつもなく眩しい。
 初対面のリーンに対して下世話な話をするタンスイではないと思っているが、片想い中の悩みや愚痴はほとんどタンスイに聞いてもらっていたので、その辺りのうじうじしていた頃の話はされてしまったかもしれない。自分のいないところで二人が自分の話をしていたと思うと、今になってなんだか恥ずかしくなってきた。
「カムイル、顔が赤くなってる」
「嘘でしょ、わかるの!?」
「わかりますよ。褐色肌だからあまり目立たないけど、近くで見るとわかります」
 リーンが嬉しそうに目を細めて見上げてくるので、勘弁してくれ、と視線を横に流す。昨日よりは自然に距離を詰められるようになったつもりでいたが、やはりいい雰囲気になるとまだ緊張するし、脈拍も早くなる。今でさえこの有様なのにこれから一つのベッドで寝るのだから、今夜は眠れずに朝を迎えることは間違いないだろう。やけになってリーンを抱きしめると、胸の中でおかしそうに笑っているのがわかった。
「あー、もう…それじゃ、お風呂済ませて早く寝よっか」


 質のいい寝具というのは恐ろしいもので、緊張で喉がからからになっていたカムイルでもいつの間にか眠りに落ちていた。翌朝になって波の音で目が覚めたことで、自分がすっかり寝入ってしまっていたのだと理解する。目の前にはまだぐっすり眠っているリーンの寝顔があって、「マジかぁ…」とカムイルは小さく呟いた。
「…………」
 寝顔が、想像していたよりもはるかに可愛い。戦いの中で気を失って倒れている姿は見たことがあったが、それはあくまで気を失っているわけで眠っている状態ではなかったし、クリスタリウムで寝落ちてしまったリーンを運んだときは夜の明かりの中だったので、こうして明るい場所で安心しきって眠っている寝顔を見るのは初めてだった。
「ねえ…マジで、俺のこと信用してくれてるの…?」
 そっと布団から手を出して、顔にかかっていた長い髪を後ろへ流す。それでも起きる気配がないので、柔らかな頬から顎へ顔の輪郭をゆっくりと撫でた。しっとりと指の腹に吸いつくような柔肌の感触が病みつきになりそうで、これ以上はまずい、と離した手をリーンの背中に回した。ちらりと視線だけで確認した時計の針は、まだ五時過ぎだ。リーンが自然に目を覚ます時刻には少し早い。
「タンスイとなんの話したか知らないけど…俺、優しいわけじゃない、って言ったでしょ。リーンの迷惑になるのが嫌で、ずっと告白できなくて、待たせちゃってさ……今だって、傷つけるのが怖いから手が出せないんだよ」
 眠っている相手に話しても仕方ないことだが、こんな状況でなければ言葉にできない程度には臆病だ。
「でも……大丈夫ってわかったら、きっと、我慢もしないから…」
 そこまで言いかけて、ぎゅっとリーンを胸の中に抱き寄せた。体を動かされて起きたのか、リーンが朝日を嫌うようにもぞもぞと身じろいでいる。
「カムイル…?」
「ごめんね。まだ朝早いから、もう少し寝てていいよ」
「ん……、」
 寝ぼけ半分の返事はそのまま寝息に変わって、すうすう、と小さな呼吸に合わせて胸に抱いた肩が上下する。リーンがまた自然と目を覚ますまで、カムイルはリーンの髪や背中を撫でながら穏やかな寝顔を見守っていた。


   ◆◇◆


 七時過ぎには目覚めたリーンが、ずっと寝顔を見られていたと知って随分と拗ねた。
「ずるい…!私だって、カムイルの寝顔見たいです!」
「ご、ごめん…」
 照れて怒ると思ったのに、そっちで拗ねられるとは思わなかった。
 朝食は部屋で済ませ、身支度を整えてチェックアウトする。幸いにも天候はよく、望海楼を出てすぐの楽座街へと繰り出すことにした。小金通りと比べて呉服屋などが並んでいるので、和服が気になると言っていたリーンにはうってつけだった。さっそく目ぼしいものが見つかったようで、呉服屋の前で足を止めたリーンがカムイルを手招きする。
「見てください…!この浴衣、すっごくガイアに似合いそう!」
 どれどれとカムイルが後ろから覗き込むと、リーンが手にとっていたのは黒地に大柄の花が大胆にデザインされた浴衣だった。黒だと思っていた地の色はよく見ると深い青紫色で染められていて、陽の光に当たると重すぎない色合いになる。この深い色合いといい、あしらわれた大輪の花といい、確かにガイアによく似合うデザインだ。自分のものよりも先にガイアの分を見繕うところがリーンらしくて、カムイルは苦笑をこぼしながらアラガントームストーンを手にした。
「それお土産にする?ガイアも同じこと考えるかもしれないから、それとなくラハに伝えておくよ」
「本当ですか?ありがとうございます」
 もう日が高いのであちらも活動しているだろうと思い、グ・ラハ個人宛のメッセージでリーンがガイアのお土産を買ったことを報告する。返信はすぐに返ってきて、向こうはイシュガルドでティーセットを購入済みとのことだった。
「お土産、かぶってないから大丈夫だって」
「よかったぁ…!」
「リーンは、その隣のやつにするの?」
 ガイアに選んだ浴衣の隣には、同じデザインで色が対照的な白い浴衣が並んでいた。オフホワイトに近い色で染められているので透け感もなく、純白より柔らかい色合いなのでリーンによく似合う。リーンも最初からそのつもりだったようで、カムイルに言い当てられて「えへへ」と照れたようにはにかんだ。店主と相談しながら合わせる帯と他に必要な小物を購入すると、気を利かせて着付け方法が書かれた冊子もつけてくれた。嬉しそうなリーンから大事な荷物を預かり、残りの店を見物しつつ街の中央へ向かう。エーテライトプラザを中心に広がる街並みは夜とはまったく違う景色なので、リーンの目には珍しい東方風の建築を眺めて歩くだけでも随分と楽しそうだった。
「素材も、デザインも、初めて見るものばっかり…ウルダハやリムサ・ロミンサの雰囲気は向こうにも似たものがあったけど、クガネは本当に、異世界に来たみたいですね」
「わかるよ。俺も、自分で初めて来たときはあちこち見て回っちゃった」
 この後は午後一番で出航の船に乗ってリムサ・ロミンサに戻る予定なので、それまでウミネコ茶屋でゆっくりと時間を潰すことにした。団子と抹茶を入れるには腹の具合がまだ早いのでロークワットジュースを注文して、先に好きな席を選んで座っておくように頼んだリーンを探して振り返ると、ちょうど和傘の日除けがついている縁台を選んで腰を下ろしたところだった。緋色の目を引くデザインは如何にも東方風なので、リーンは自分が腰かけた縁台に描かれた文様や装飾を珍しそうに眺めている。
「お待たせ、ビワって果物と蜂蜜レモンを合わせたジュースだよ」
「ありがとうございます。てっきり、緑茶かお抹茶が出てくると思ってました」
「あははっ!昨日からそればっかりだったし、そろそろ口も飽きてると思ってね」
 オノコロ島でも宿でも東方風の食事が続いたせいか、リーンでも口馴染みがあるジュースの甘さが妙に懐かしかった。カムイルも隣に座って一口飲むと、歩いた疲れがほんのり出始めていた体に甘さが程よく沁みた。
「本当に、もうリムサに引き返しちゃっていいの?」
 まだクガネの街を十分に観光したとは言えないので、念のためにと思ってカムイルが問いかける。本当は昨日と今日でゆっくり見て回る予定だったのだが、海賊衆に思ったよりも長く掴まってしまったので、結局、お土産の浴衣を買って楽座街を歩いただけになってしまっている。少し申し訳ない気持ちになっているカムイルに、しかしリーンは満足そうな表情で頷いた。
「はい、十分堪能させてもらいました。タンスイさんとお話できたし、食事や文化もたくさん体験させてもらえて、すっごく楽しかったです」
「あ。それだけど、本当にタンスイに変なこと言われてない?」
「ふふっ、大丈夫ですよ。キャメさんのことをいろいろ教えてもらっただけだから」
「マジで俺の何を教えられたの…めっちゃ気になるんだけど」
 昨日からこの話題を振るとリーンに楽しそうな笑顔ではぐらかされてしまうので、もうこれは何があっても話してくれないのだろうな、とカムイルも諦めてジュースを飲んだ。別に何を隠すつもりもないので二人がどんな会話をしていても構わないのだが、タンスイにはいろいろな意味で醜態ばかり晒してきたので、それをリーンに知られてしまったかもしれないのは、やはりどうにも恥ずかしいものだった。格好つけたくてもつけられるような性格ではないとわかっているが、男に生まれたからには、恋人には少しでも格好いいと思ってほしい。こんな小さなことで悩む小心者だから格好がつかないのだろうな、などと今更ながら自分の性格を愁うカムイルの肩へ、リーンがそっと身を寄せてきた。
「リーン…?」
「向こうに戻ったら…キャメさんに、お願いしたいことがあるんです」
 見下ろしたリーンは少し緊張した面持ちで、カムイルとは目を合わせずに潮風亭の方を見つめている。何か、改まっての話があるようだ。
「ここではちょっと、恥ずかしいから…帰りの船の中で話しますね」
「…うん、わかった」
 帰りの便は移動用の連絡船ではなく、ゆっくりと進む観光用の客船の部屋をとってある。きっと、そこで話したいことなのだろう。察したカムイルはそれ以上追及せず、ぽんぽん、とリーンの髪を撫でる。それでほっとしたのか、リーンの表情はまた柔らかいものに戻った。
 リーンとガイアがこちらの世界に留まる日数は、具体的には決めていない。だが、いつまでもこの時間が続くわけでもないのだ。カムイルと一緒にいられる時間でしかできないことは、思い残しがないようにやり遂げてから第一世界に戻りたい。
「…………、」
 ぎゅっ、と。リーンは膝の上に手を置いて、カムイルに気付かれないように右手で左手の薬指を握り込んだ。




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