エタバンをとめないで



 三日後。ガイアが主体となって取りまとめた報告書は無事に提出が完了し、これをもってエデンの調査作戦は完了となった。
 ガイアは報告が完了したご褒美にと決めて買っておいた二人乗りのホバー船を繰り出して、かねてよりリーンと二人で約束していたカフェへ来たのはいいものの、肝心のリーンはガイアのことを労いながらもどこか落ちつかない様子だ。その理由はわかっているので特に咎めも怒りもしないのだが、むしろこの三日間で何も進展がなかったのか、という焦れったさはふつふつと湧いてくる。
「ねえ、リーン」
「何?」
 ケーキにフォークを刺したリーンが、口に運ぶ手前でその手を止めた。
 ガイアが缶詰めになって報告書を書いていた四日間――ガイアの報告書にチェックを入れたり夜に三人で食事をするとき以外の時間は、リーンはずっとキャメロンの部屋で過ごしていた。想い合っている者同士が、個室で、二人だけで親睦を深めたというのに、その仲にまったくの進展がないとはどういうことなのか。
 別に、一線を越えろだなんて思っていない。リーンはまだ成人していないし、そんな彼女を相手にキャメロンが無体を働けるような性格ではないこともわかっている。それでも、告白して気持ちが通じ合ったとか、手を繋いだり抱きしめ合う程度のスキンシップがあったとか、リーンが成人した後の将来について話したとか、そういう変化はあってもいいのではないかと思う。
 だがリーンの口から毎晩出てくる話題と言えば、キャメロンについての新しい情報や、新しく教えてもらった料理や、原初世界の風土などばかりで。なるほど、あの男はリーンから向けられる好意を自覚して尚、想いを告げるつもりがないのだな、とその頑固さに辟易してしまいそうになる。
「…本当に、奥手でヘタレなんだから」
「?」
 ぼそりとガイアが呟いた悪態に、リーンが首を傾げる。
 このままでは埒が明かない。もうあの小心者に任せておくのは限界だ。ならばもうリーンの方に発破をかけるしかないだろう、とガイアは心を決めた。
「ガイア、どうかした…――」
「リーンはいつになったらアイツに告白するの?」
 ぽろ、とリーンが持つフォークに刺さっていたケーキが落ちた。
 リーンは皿に落ちたケーキに気付かず、というよりガイアの言葉にフリーズしてしまったようで、そのまま動かなくなった。だが遅れて頬が赤く染まり、それが顔どころか耳や首元まで広がっていく。否、ワンピースの切れ間の肩まで赤かった。
「な…な、ななっ…何を言っているの、ガイア!」
「だってアイツ、明日には帰っちゃうんでしょう?」
「そ…れ、は……そう、だけど…」
 フォークを置いたリーンは、真っ赤な顔を隠すように両手で頭を抱えてしまう。そのまま「あ」だとか「う」だとか「え」だとか言葉にならない声ばかり発して唸っていて、そういえばユールモアでキャメロンに発破をかけたときも同じような反応をしていたな、と思い出した。
 散々うんうんと唸って、しばらく経ってからゆっくり顔を上げたリーンのアイスブルーの瞳は、今にも泣き出しそうにうるうると揺れている。
「で…でも…!私なんかが告白したら、きっと、迷惑だし…」
「どうして?」
「だって…」
 次に続きそうな言い訳はなんとなく想像できるが、ガイアは続きを促すようにカップを口元へ運んだ。
「だって…私、まだ子供だし…そもそも、生きている世界だって、違うし……優しいから、告白なんてしたら、きっと…すごく、気を遣わせちゃうし…」
「…………」
「それにあの人は、その…お姉さんの代理をするとき以外は、ずっと家の手伝いをしているって言ってたから」

 ただでさえ、原初世界と第一世界はいつ行き来ができなくなるかもわからない。その上で彼には、あくまで姉の代理人であるという行動制限もある。ましてや冒険者という危険と隣り合わせの生活では、何が起こるかもわからない。もしかしたら、キャメロンに会えるのは今回が最後になってしまうかもしれない。
「……そんなふうに考えると、せっかく楽しく過ごせているのに私が告白したことで迷惑をかけて、それが最後の思い出としてあの人の中に残ってしまったら…そんなかたちで、あの人の中に残りたいわけじゃないの」
 キャメロンの部屋で過ごす四日間は、本当に楽しかった。彼自身のことも原初世界のこともたくさん教えてもらえて、錬金術や調理でものづくりをするところを間近で見せてもらえたり、サンクレッドから預かったガンブレードの扱い方を教えてもらったり―二人きりで過ごせた時間はとても幸せなもので、それだけでも十分なのに、それ以上を望んだらすべてが壊れてしまうかもしれない。
「今の楽しい思い出のままで、あの人の中に残りたいから…」
 そう話すリーンの瞳から、ついに滴がこぼれそうになった。その前にガイアが席を立ち、リーンの目元をハンカチで拭ってから優しく抱きしめた。
「ごめんなさい、リーン…アナタを悲しませたかったわけじゃないの」
「ううん。大丈夫だよ、ガイア。わかってるから…」
 顔を上げたリーンが、少し赤い目元でガイアに笑顔を見せる。
「それにね、今夜もキャメさんがディナーにおいでって言ってくれたの。ガイアの報告書が完成したから、今までで一番豪華なメニューだって。楽しみでしょう?」
「…ええ、そうね」
 言葉に出してすっきりしたのか、リーンの表情は少し晴れやかなものになっていた。大丈夫そうなので、ガイアもリーンの肩をぽんぽん、と撫でてから元の席に戻る。向かいのリーンは食べかけていたケーキの欠片のことを思い出して、改めてそれを口に運んで嬉しそうにした。
「あーあ…私もせめて、ガイアみたいに大人っぽかったらいいのに」
「なによ、急に」
「だってドラン族の男の人って、体が大きくて顔つきも格好いいから…」
「ドラン族が、じゃなくてアイツが、でしょ?」
「もう、ガイアったら…!」


   ◆◇◆


 吹っ切れたリーンにキャメロンのどんなところが素敵なのかという話を聞かされ続け、気付けば夕方になっていた。クリスタリウムに戻る頃にはすっかり陽が落ちて夜になり、部屋の扉をノックすると、キャメロンは「ナイスタイミングだね」と二人を出迎えてくれた。
「ちょうど出来上がったところだよ、さあ席へどうぞ」
「わぁ、すごい…」
 部屋の明かりはいつもよりも暗めで、その代わりにダイニングテーブルの上にキャンドルが灯っていた。二人が近づいてよく見れば、テーブルクロスや小物でいつもとはまったく違う雰囲気になっている。カトラリーや食器も高級そうなものが並んでいた。
「ここ、本当にアンタの部屋…?」
「せっかくだからサプライズだよ。気に入ってくれた?」
 キャメロンが順番に椅子を引いてくれるので、二人はエスコートされるまま席についた。その椅子もいつもの丸椅子ではなく座り心地のいいものに変わっていて、聞けばこのためにわざわざつくったと言う。「木材と綿花が余っていたから」と簡単に言うが、カットリスに見せたら驚くに違いない。
「それじゃあ、食事の前にもう一つ」
 並んで座るリーンとガイアの正面に回ったキャメロンが、テーブルの下から簡素な袋を二つ取り出した。一つ目の袋からは黒地の包装紙と青いリボンでラッピングされたものが出てきて、それをガイアの前へと置く。
「…開けていいの?」
「どうぞ」
 リボンを引けば簡単に開く仕掛けになっていて、その中から姿を見せたのは、凝った装丁のノート数冊と羽ペンのセットだった。ノートの表紙は一見すると黒一色だが、角度を変えるとうっすらとレース模様が浮かび上がる加工が施されている。四隅と背表紙には青い薔薇の箔押しがデザインされていて、一目見ただけでガイアをイメージしたものだとわかる。羽ペンも同様で、彫金で造られた柄の部分に細かく薔薇の模様が刻まれている。羽根の部分には見たことのない白と紫の鳥の羽が使われていて、指で撫でると肌触りがいい。
「すごい…綺麗…」
「それはヨルって名前の鳥の羽根。なかなかいいサイズの抜けた羽根がなくて、ちょっとだけ形を整えてあるけどね。その他の素材も全部、原初世界のものを使っているよ」
「まさか、これも全部つくったの…?」
 ノートとペンから目が離せないまま聞くガイアに、キャメロンは「うん」と嬉しそうに頷く。
「それじゃあ、こっちはリーンの分」
「えっ…私にも…?」
 驚くリーンに差し出されたのは、ガイアのものよりも大ぶりの箱だった。白地にピンクのリボンでラッピングされていて、重量もある。一体何だろうとリーンがドキドキしながら箱を開けると、中に入っていたのは調理道具のセットだった。文房具とは違って目立った装飾は施されていないが、白とピンクゴールドを基調にしたデザインもまた、リーンのイメージに合わせたものだということがわかる。鍋やフライパンは持ち手の付け替えができるものになっていて、取り出して見ると、側面や底の部分にデフォルメされた動物達が駆け回っている。
「かわいい…これ、もしかして」
「俺の生まれ故郷にいる動物だよ。一番小さいやつがハルガイで、その隣が羊で…大きな角があって車を引いているのがケナガウシ」
 思いがけないサプライズに、リーンもガイアも驚いてしばらく見入ってしまった。プレゼントというだけでも嬉しいのに、二人のイメージに合わせてデザインされた言わば特注品のそれらは当然、二人の手の大きさにも馴染むサイズになっている。こんなに立派なものが、いつの間にか用意されていたなんて。
「ガイアはこれから物語を書くって言っていたし、リーンは料理の練習をして暁の皆に食べてほしいんでしょう?だから、それぞれ入り用になりそうなものにしてみたんだけど…」
 一応キャメロンなりに考えてみたアイディアだったのだが、選んだ経緯を説明しながら、不意にフェオの言葉が頭をよぎる。
「えーっと……実用的なものより、服とかアクセサリーの方がよかった…かな…?」
 急に不安になって声が小さくなるキャメロンに、リーンとガイアはそれぞれのプレゼントを胸に抱えて何度も首を横に振った。
「とっても嬉しいです…!私、キャメさんに教わった通りにたくさん練習します!」
「こんなに立派な物をもらったら、もう後に引けないじゃない…!アンタをモデルにしたキャラクターも物語に取り入れるから、覚悟していてよね!」
「そ、そう…喜んでくれたなら、よかった」
 興奮気味に捲くし立てる二人の勢いに多少たじろいだが、キャメロンは一旦二人を落ちつかせて本題のディナーの準備に移った。
 ケナガウシが好評だったので、今夜は贅沢に高級部位をローストビーフにしてみた。赤ワインを出したらさらに雰囲気が出そうなところだが、自分を含めて飲酒できる者がいないのでノンアルコールのスパークリングワインを開けて二人のシャンパングラスに注ぐ。バゲットの付け合わせはバジルとトマトを細かく刻んだものを乗せ、その他にはシンプルな味付けにしたオニオンスープがテーブルへ並んだ。もちろん、後でとっておきのデザートも出すつもりだ。ローストビーフ以外は特に凝ったものでもないのだが、二人が気に入りそうなデザインのディッシュセットを揃えた甲斐もあって、想定以上にいいリアクションが返ってきた。
「なんだか、ユールモアにある高価なレストランみたいです…」
「まあ専属シェフがつくってくれたディナーだし、ある意味では世界で一番贅沢かもしれないわね」
「そこまで言われると、さすがに恥ずかしいよ」
 調理台の上を軽く片付けてから、遅れてキャメロンもテーブルに戻る。空のままだった自分のグラスにもスパークリングワインを注ぎ、テーブルの中央へとグラスを傾けた。
「それじゃあ、エデンの調査完了と無の大地の再生を祝しまして…――」


 いつもより少し豪華で贅沢なディナーを終えて、そろそろお開きにしようかという頃。
「……さて、どうしたものかしらね」
 ガイアとキャメロンは、並んで腕組みして頭を悩ませていた。二人の視線の先にはリーンがいるのだが、食後の紅茶を飲んでいる途中で静かに眠ってしまい、気付いた時にはぐっすり寝入ってしまっていたのである。
「あのスパークリングワイン、ノンアルコールだったんでしょう?」
「うん。でも、思い込みで酔っちゃったのかもしれないし…もしくは、ローストビーフの付け合わせに赤ワインを使ったからかな…?」
 ガイアが声をかけながら肩を揺らしてみるが、微かに身じろぎするだけで起きる気配がない。こうなっては他に手段がないので、ガイアは迷わずキャメロンの脇を小突いた。
「…ということだから、リーンを部屋まで運んでくれるかしら?」
「はっ…?」
 案の定、ガイアの提案にキャメロンは戸惑った表情になる。このままではいつもの調子であれやこれやと理由をつけて断りそうなので、そうなる前にガイアの方から逃げ道を塞ぐことにした。
「私の力じゃリーンを引きずることになるし、どうせ抱えて移動させるなら、アンタの部屋のベッドじゃなくてリーンの部屋まで連れていってあげてよ。それとも、このままリーンを一晩泊めたい?」
「ばっ……そ、そんなことするわけないだろ…!リーンをここで寝かせておくにしても、俺は今夜は外に行って泊まるし!」
「だからと言って、このまま椅子に寝かせておくわけにはいかないでしょう?どのみちアンタじゃなきゃリーンを抱えてあげられないんだから、早く腹を括ってちょうだい。プレゼントは私が自分で持って帰るから」
「う…っ」
 ほら、とガイアが二人のプレゼント袋を両手に持つので、キャメロンも一つ大きく深呼吸をして、リーンを抱えるために体勢を整えた。まずは背もたれとの間に腕を差し入れて脇を抱き、もう片方の腕を膝裏に回して、起こさないようにゆっくりと立ち上がる。意識がないリーンが落ちないようにしっかりと抱え直してから頷くと、ガイアが「やるじゃない」とウインクを返した。
「軽い…小さい…どうしよう、心臓爆発しそう…」
「さっさと行くわよ。私の握力も、いつまで持つかわからないんだから」
 管理人に見られると気まずいので裏口から外へ出て、夜でも人が多い彷徨う階段亭の灯りも避けつつ、ガイアの案内でリーンの部屋がある棟へと向かう。そういえばリーンが住んでいる部屋の具体的な番号は知らなかったので、図らずも初めて彼女の自室を訪れることになってしまった。そう思うとまた緊張してきてしまい、何とか胸の鼓動を静めようと他所事を考えているうちに、ついにリーンの部屋へと到着した。
「さあ、入って。ベッドはこっちよ」
「お…お邪魔します…」
 勝手知ったる様子で部屋の明かりをつけたガイアの後に続き、キャメロンは居室へと足を踏み入れた。各居住館の部屋のつくりは基本的に同じだが、調度品の配置や家具の色合いが違うだけでも、キャメロンの居室とは随分と雰囲気が違って見える。備え付けの家具の他にリーンが好みそうな小物がいくつか目に入り、ベッドサイドのテーブルの上には、サンクレッドから預かったガンブレードが置かれていた。それを見ているとなんだかサンクレッドの視線を感じるようで、少し気まずい。
 リーンをベッドの上へ丁寧に横たえて、毛布を肩の上までしっかりとかける。その間もリーンはまったく起きる気配がなくて、これは勘違いでワインに酔ったというよりも、張りつめていたものが切れて熟睡しているのかもしれないとキャメロンは考えた。エデンの調査は元々リーンが始めたことであったし、最初はサンクレッドとウリエンジェの力を借りていたが、最後はリーンとガイアの二人で調査部隊の中心に立っていた。最後の報告書はガイアの希望もあって彼女に任せていたが、それでも今日の報告完了までは、当事者としてずっと気を張っていたに違いない。最後まで立派にやり遂げたからこそ心から安心して眠れているのだと思うと、その寝顔がどうしようもなく愛おしいものに見えた。
「お疲れ様、リーン。最後までしっかり頑張ってたって、俺からもサンクレッド達に伝えるから」
 起こさないように毛布の上からそっとリーンの肩を撫で、後ろ髪を引かれる前に立ち上がる。振り返ると、ちょうど荷物を置いたガイアがリーンの様子を見に来るところだった。
「あら、もう帰るの」
「ミッションコンプリートしたからね。報酬に、一つ頼まれてくれるかな」
「?」
 怪訝そうな顔ですぐ隣にやってきたガイアへ、小さく折りたたんだメモを差し出す。大したことは書いていない、シンプルな内容の書き置きだ。
「リーンが起きたら、これを渡してほしいんだ」


   ◆◇◆


 翌朝。アム・アレーン北東のカスール・シャル、隊商の野営地にて。
 ふと空を見上げたキャメロンは、クリスタリウム方面から一羽のアマロが飛んできたのを見て口元を綻ばせた。
「早起きだなぁ…」
 迷うことなくアマロポーターの発着場へと降り、背に乗せた者が降りやすいように伏せる。アマロの毛を踏まないようにゆっくりと降りた少女は、キャメロンを見つけると足早に駆けてきた。
「キャメさん…っ」
「おはよう、リーン」
 アマロに乗ってやってきたのは、キャメロンが書き置きで呼び出したリーンだった。
時間は指定せず、クリスタリウムからアマロを使ってアム・アレーンに来てほしいとだけ書いたメモ。陽が傾くまで待ちぼうけになっても構わないと思っていたが、リーンは予想よりもかなり早く駆けつけてくれた。
「早起きだね、まだ朝の九時前だよ」
「だ、だって…時間が書いてなかったから、お待たせしちゃうと思って……キャメさんこそ、何時からここにいるんですか?」
「十五分くらい前かな」
 本当は朝の六時から待っていたのだが、それを言うとリーンが気にするので黙っておく。早起きは苦手ではないし、何よりも赤い砂漠の日の出の景色はとても美しくて、それを見に来たと思えば時間は気にならなかった。
「それじゃ、行こっか」
「はい!えっと、どこへ…?」
 勢いよく返事をしてから、行き先をまだ告げられてないリーンが首を傾げる。リーンに質問にキャメロンはすぐに答えず、口笛を吹いてすぐ近くで自由にさせていたチョコボを呼び寄せると、その背に乗るようにリーンへ促した。
「ちょっと、二人きりで話せる場所まで」
 普段からキャメロンを背に乗せているチョコボは、リーンが増えても物ともせず空へと飛び上がり、そのまま南端の物見櫓まで二人を運んだ。そこまで来ればリーンも察しがついて、腰に手を回してしがみついているキャメロンを見上げる。
「もしかして、無の大地に…?」
「うん。あそこならさすがに、滅多な人は来ないでしょ」
 チョコボは物見櫓の下へ繋いでおき、念のために様子を見てもらえるようにヤルフォートに頼んでからホバー船へ乗り換える。すっかり馴れてしまった道のりを進んで、数日ぶりに目にした無の大地の景色は、やはり美しいものだった。
 明け方まで調査員がいたのか、まだテントの近くの火が小さく残っている。その火を種にして焚火をつけ、適当な木箱を拝借して机と椅子の代わりにして二人で火を囲む。キャメロンは荷物の中から手頃なクロスと木皿を取り出して広げると、その中へつくってきたコーヒークッキーを移した。途端に、リーンの顔が輝く。
「お湯が沸くまでの間、先にどうぞ」
「ありがとうございます。あと、昨日はすみません…」
 焚火にやかんをかけたキャメロンが視線を戻すと、リーンがしゅんとして俯いていた。まあリーンの性格ならそうなるだろうな、と思っていたのでキャメロンも「気にしないで」と優しく声をかけた。
「リーンだってずっと頑張ってたんだし、ほっとして疲れが一気に出たんだよ」
「でも、部屋まで運んでもらって…」
 そこまで言いかけて運ばれる様を想像したのか、少しだけリーンの頬が赤くなった。それを見ているとキャメロンの方も昨日のあれやこれを思い出してしまい、つられて顔に熱を感じる。誤魔化すように、コーヒークッキーを一つ掴んで咀嚼した。
「俺の方こそ、ごめんね。ゆっくり休みたかっただろうに、朝早くから呼び出しちゃって」
「いえ、それは全然…!そういえば、お話があるって…」
「……うん、ちょっとね」
 目を瞑って、大きく息を吸い込む。
 いよいよこの時が来たのだと覚悟を決めて、真っ直ぐにリーンの瞳を見つめた。
「少し長くなるけど、聞いてくれる…?」


   ◆◇◆


 生まれ故郷を去った経緯は、とても前向きなものではなかった。
 去ったのではなく、俺は逃げたのだ。

 数多の部族が武で覇を競う大草原に生まれて、物心ついたときにはもう、戦うことが嫌いで薬草摘みや調理の手伝いの方が性分に合っていた。だが俺の部族は伝統的に、狩猟と戦闘が男の仕事だった。家を守り、食事を与え、衣服や道具をつくってくれる女衆への敬意と感謝を示すため、男衆は武功を立てて一人前にならなければならない。
 男児同士の取っ組み合いは戦うための訓練だと言って誰も止めないし、負けて泣かされる方が弱さを叱咤される世界の中で、俺は毎日泣きながら暮らしていた。
「泣き虫■■■■!悔しかったらかかってこいよ!」
「弱虫■■■■、また姉ちゃん達の手伝いか?」
「女衆の仕事ができたって、狩りができなきゃお前は役立たずだ!」
 凡そ、そんなことを言われながら、時には一緒に拳も飛ばされながら過ごしてきた。殴られるのも蹴られるのも痛くて嫌だったけど、そこでやり返してしまったら一族の伝統に屈してしまったことになるから。俺にとってはその方がずっと嫌だし悔しかった。
「■■■■は他の男の子と違って優しいから、大好き!」
「行きましょう、■■■■。私たち、今日は糸のより方を教えてほしいの」
 好きが高じてすっかり女衆の仕事が得意になっていた俺は、次第に同年代の女児達の輪に招かれるようになった。俺から招きに応じることはなかったが、気が付くと周りを女児達に囲まれていた。
 その中には族長の長女がいて、俺の部族では「族長の長女」というのは特別な存在だったから、彼女が傍にいると男児達も手を出してこなかった。
「――私、■■■■みたいな優しい人に花婿になってほしいな」
 族長の長女が五歳の誕生日に選んだ「花婿」は、十五歳で終節戦の初陣を迎えた後に次の族長となる。
 女衆の発言権が絶対的な俺の部族の風習の最たるもので、そのことは幼子でも知っている。だから俺は、その話題が出るたびにきっぱりと断り続けた。
「イヤだよ。族長になったら戦わなきゃいけなくなる」
「でも、私も乱暴な人と結婚するのはイヤよ」
「じゃあ、さっさと優しくて強い子を見つけなよ」
 彼女の誕生祭が近付くにつれて「花婿」の話題も増えたのが鬱陶しくて、俺は女児達の輪から逃げて一人で過ごすことにした。冷たくすれば彼女も諦めてくれると思っていた。
 でも誕生祭の日になって、大人達の話を漏れ聞いた俺は愕然とした。
「花婿は■■■■で決まった。今夜の宴で、皆に伝えよう」

 逃げなければ、と思った。
 薬草摘みの籠を背負って、夢中でイローから飛び出した。籠を背負っていれば遠くまで行っても怪しまれないし、母や姉も、夜になれば俺が帰ってくると信じきっている。
 冗談じゃない。「花婿」に選ばれてしまったら、大好きな料理も、編み物も、薬草摘みや羊の世話もできなくなる。好きなことを取り上げられて嫌いなことを押し付けられるなんて、俺には耐えきれなかった。
 アジムステップの大草原を西から東へ、夢中で駆け抜けた。東の市には他所から来た人も出入りすると聞いていたから、一先ずそこへ逃げ込もうと思った。今にして思えば子供が走って移動できるような距離ではなかったけど、とにかく必死で走って、なんとか日が暮れる前に市の中へと駆け込んだ。
「誰かに助けてもらわないと…っ」
 辺りを見渡して、見慣れない服装が視界の端に映り込む。はっとして視線を向けると、今までに見たことない種族の男が二人で立っていた。細身で背が高い男と、その真逆で子供の俺よりもさらに小さな男。直感的に、彼らしかいないと思った。
「お願い、助けて…ッ!」
 無我夢中で抱きついたその小さな男が後に血の繋がらない兄になるなんて、その時の俺は思いもしなかった。


   ◆◇◆


「…………大体そんな感じで、俺は生まれ故郷を捨てて今の家に匿われたんだ」
 もうずっと忘れたいと思っているのに、朧げにさえなってくれない記憶。
 長い長いキャメロンの回想を、リーンは最後まで黙って聞いてくれた。一通り語り終えて一息吐くと、タイミングを見計らったようにヤカンから湯気が上がる。キャメロンはヤカンを火から下ろすと、インスタントで飲めるように用意してきたコーヒーを淹れてリーンへ手渡した。受け取ったリーンは、神妙な顔つきでじっとキャメロンを見つめている。
「あの…この話、サンクレッド達は…?」
「知らないよ。アジムステップがルーツっていうのは見当つけられていると思うけど、今の家にいる経緯とかは全部、第七霊災のショックで記憶から飛んだことにしてるから」
「そうですか、」
 自分のカップにもコーヒーを注いで、一口飲んでからほう、と息を吐く。あまり楽しくない時期のことを思い出したせいか、ブラックのままで飲んだ苦みが妙に体に沁みるようだった。
「本当に忘れられるなら、忘れちゃいたいんだよね。五歳の俺は途中で川に流されたり獣に襲われるなりして死んじゃってさ、今の俺は別人として生まれ変わってる、って…」
「…………」
「そのつもりで名前も捨てたのに、全然忘れられないんだよ」
 名前、というキーワードにリーンが小さく反応する。
 やはり、とキャメロンは眼鏡の奥の瞳を伏せた。

 リーンにとって自分自身の名前を持つことの意味がどれだけ大きなことか、キャメロンは十分理解しているつもりだ。キャメロンとは逆にずっと自分自身の名前を持たず、「ミンフィリア」と呼ばれ、その名に寄り添った生き方を受け入れざるを得なかったリーン。だが彼女は自分自身の人生を選んで、父親のように慕うサンクレッドに今の名前を授けられた。その時の気持ちは容易に推し量れるものではない。まして、本来の名前を捨てて生きている身なら尚更だ。
「ねえ、リーン。お願いがあるんだ」
 まだ湯気が立っているカップを置いて、すっくと立ち上がる。急に腰を上げたのでリーンは驚いたが、気にせず彼女のすぐ傍に立った。何事かと目を白黒させるリーンと視線を合わせたまま、その場で跪いて彼女を見上げる。
 こんな格好をしていると、まるでプロポーズでもするみたいだ。それだけは絶対にしないという決意は変わらないが、これからリーンに告げる言葉は、キャメロンにとってはそれに等しい意味を持っている。
「キャメ、さん…?」
「俺はこんな性格だから、嫌だ嫌だと思っている内に、本当に自分の名前を忘れちゃうかもしれない。でも俺の名前は誰にも話したことがないから、キャメも、兄上も、暁の皆も知らない。それで、もしも俺が本当に自分の名前を忘れたら…もうどこの世界にも、俺の名前を知っている人はいなくなる。だから……」
 リーンの膝に置かれている手の上へ、そっと自分の手を重ねた。いつもだったら絶対にそんなことはできないはずなのに、一世一代の場面で妙なスイッチが入ったせいか、自然と体が動いていた。
 重ねた手を、リーンは拒まなかった。いつもと違う高さの視線は真摯な眼差しのまま、次の言葉を待ってくれている。
 無責任な愛の告白はできないし、根拠のない将来を誓う勇気もない。
 それでも、たった一つだけ、自分だけがリーンに伝えられる言葉がある。
「リーンにだけ知っておいてほしいんだ…――俺の、本当の名前を」
 逆光の中でも、リーンのアイスブルーの瞳が大きく見開かれるのがわかった。
 透き通るような色の瞳は次第に揺れて輝いて、やがてぽろぽろとこぼれ出す。それでも彼女の口元は優しい弧を描いていて、溢れる涙に構わず眩しい笑顔を見せてくれた。
「はい、喜んで…っ」
 リーンも持ったままだったカップを置いて、空いたその手をさらに重ねてくれる。自然と顔の距離が近づいて額と額を擦り合わせると、リーンからこぼれる涙が眼鏡のフレームに跳ねて、二人で小さく笑い合った。
 その距離のままで、リーンにだけ聞こえるように本来の名前を告げる。受け取ったリーンは名前を呼び返して、それから、重ねた手をぎゅっと握り返してくれた。
 嫌で嫌で仕方なかった本当の名前。それなのに、リーンに呼ばれると悪い気分じゃない。
「ありがとうございます…絶対に、大切にします…」
「うん…リーンなら、そう言ってくれると思った」
 握られた手を振りほどくように動かすと、細い指が名残惜しそうに手の甲の鱗を撫でた。重ねていた額も離して、ゆっくりとキャメロンが立ち上がる。それですべて察したリーンは、隠さず淋しそうな表情をした。
「また、戻ってしまうんですね」
「うん。このコーヒーが飲み終わったら、帰らなきゃ」
 元居た木箱に戻って座り、少し冷め始めたコーヒーを飲み直す。リーンのことを見ていると帰るのが惜しくなるので、遠くで静止したままのエデンへ視線を向けた。
 二人きりになれる場所だと思って無の大地を選んだものの、もしかしたらまだ転生の旅に出ていないミトロンの魂がどこかで聞き耳を立てていたかもしれないな、なんて。ガイアと別れたばかりの彼に見せつけるようなことをしてしまったが、こちらはこちらで、いつ今生の別れになるかも知れない状況なので大目に見てほしい。
 もったいぶって飲み進めたコーヒーは最後の方はすっかり冷めきってしまっていて、空になって見えたカップの底が恨めしくて仕方なかったが、二人は火の始末をして無の大地を後にした。


 冒険のバトンは、また姉の手に戻っていく。
 次はいつ自分に声がかかるかはわからないが、またリーンと会えるなら、そのときに「名前」を呼んでもらえるだろうか。
 「石の家」へと到着し、ノックをしてから未明の間へと顔を出す。中に控えていた賢人達が一斉に振り向いて、その中央にいた姉はキャメロンを見ると「おや」と片眉を上げた。
「おかえり、きゃめくん。何かいいことあったでしょ?」




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