10月1日では間に合わない※まだ書けていないのでメモ公開
「大丈夫だ、カミラ。吐きたければ何度も吐けばいい。お前が無事であることのほうが、俺には大切だ」
人と竜が戦いあう世の中、「竜肉食らいの鬼人」と呼ばれるほどの兵士・ヴラドの養い子《トカゲ》である少年・カミラは、ヴラドへの誕生日の贈り物を求め飛び出した帝都にて自身にそっくりの竜人の少年に出会う。ヴラドから送られた紙紐の飾りを壊されるとカミラの体は大きな青年に変貌。その日から悪夢が始まった。
勇猛な武人と純朴な少年、逃げられない閉塞感の中、ふたりが見つけだした、たった一つの偽りない想いとは――?
.登場人物
・カミラ(カイン)
・ヴラド 黒髪黒目 額から右目におおきな傷 通り名 鬼人将軍
・ゾエ 呪術師
・三雛子 マリア ローゼ シーナ
・アベル 竜の子
・クラウディア 薔薇の園のおばさん
・ヴィクター ヴラドの配下 黒髪黒目
・コナン ヴラドの配下 カミラを可愛がっている 小麦色の目 赤い髪
.prologue 凱旋
砂煙に目を細めた。粉かい塵や砂が衣服の隙間から侵入してきてじりじりと肌の上を転がる。薄茶色になる視界。大きな影が揺れている。咆哮に全身の細胞が震える。
自分の名前を呼ぶ声がすぐそばから聞こえた。自分もまだ息をしている。呼吸のたびに、生あたたかく、生物の流した体液の生臭い匂いに包まれる。そこらへんで倒れているのは、ただの物体になり果てたかつての兵士たちだ。
「どうする、向こうのやつらもやられたらしい」
がさついた声。次の一撃がこちらに飛んできてそれで死ぬかもしれない緊張感の中、竜の体液でべっとりと汚れた両腕で大剣を握る。
任務だ。
ヴラドら数百の兵たちに下された命令は竜狩り《ドラゴン・ハント》。単身の――できれば幼ければ幼いほど良い――竜を捕獲することだった。帝国に命じられたことは絶対だ。それを破って帝国領内で死ぬか、それとも、ここで死ぬか。ヴラドら非帝国人種の孤児たちには、その二択のみしか与えられていなかった。
やるしかないとわかっている。ヴラドは歯を食いしばった。
舞っていた砂塵から、大きな爪がヴラドらの頭上に現れた。とっさに、退避したヴラドのすぐ横で、血しぶきが舞う。
獲物となる竜を見つけるところまでは簡単だった。大陸内部を移動している最中、竜にしてはとても小さな、人間の子どもくらいの大きさしかない幼い竜を二匹発見した。
狙うのはそのうちの一匹だけでいい。二匹を追尾し、ふたつの化け物が距離をとった瞬間を狙って、捕獲隊は、捕獲体勢に入った。だが、その最中、親竜と思われる巨大な竜に遭遇。こうして戦闘態勢に入ってしまった。
時の経過とともに、こちらの数が減っていくのは明確だった。向こうにも、それなりに痛手を与えている。殺さなくてもいい。せめて、親竜の動きをとめられるくらいの損害をあたえられたらいい。
ヴラドは敵の動きを見つめながら息をひそめた。親竜は次々と猿たちを払いのけながら砂煙に巻いて逃げようとしている。大きな翼の生えた腕。リーチが長い分だけ、近づいて内側から腹を斬れば、それなりに効果はあるはずだ。
両腕にのしかかる分厚い鉄の重さ。火で鍛え上げられたそれが、存在を主張している。
戦うためにつくられた武器と、戦うために育てられた肉体が、呼応しあう。これしか、生きる道はなかった。
駆け出した先に、竜の足元が見えた。茶色く輝いたかと思えば薄い翡翠の色に光を反射する鱗。これを斬りつけるのは至難のわざだ。右手に剣を預けると懐から呪紙をとりだした。接近には危険が伴う。それでも、これを貼り付けさえすれば、呪紙にこめられた呪術が発動し炸裂する。
ヴラドは手を伸ばした。踵があがり始める。鱗に、触れた。そのまま、滑りだす勢いで、前に倒れた。途端、背後で爆発音がした。――効いた。
焦げ臭い臭いを嗅ぎながら、あわてて立ち上がると、ヴラドは走る。悲痛な咆哮に細胞が沸騰するように沸き立った。はやくこれを突き立てたいと、鍛え上がれられた兵士の腕が震える。
見えた!
足をくじかれて、バランスをくずした巨体が起き上がろうとしているその一瞬、ヴラドはその巨体に接近した。
竜が鳴いているのか、自分が叫んでいるのかわからない。ただ、鳴り響き、全身をこの場を支配していた音が消え、待っていた砂が地に落ち、すべてが明るみにさらされたとき、竜の体液を全身に浴びたヴラドだけがその場に立っていた。
生き残りの猿たちは、ただそれを茫然と眺めた。誰も言葉にできる者はいなかった。化け物だ。
ヴラドは横たわった遺骸に隠れていた子竜を発見して、その腕を斬った。小さな腕が砂面に落ちた。どろどろと流れていく血を吸い込んで、地面が硬くなる。子竜は必死で親竜にしがみついた。
よく考えたら足を斬らねばならなかったとヴラドはため息をついた。斬ったところで時間が経てばまた好き勝手生えてくるのだ。斬られた人間は死ぬだけだというのに。砂原に積み重なった死体。体中が痛みを発していた。むしゃくしゃして、全力で剣をふりあげた。
鉄の塊が降って来て、子竜は叫び声をあげた。だがその音もすぐに弱く、消えた。脚がちぎれる。すでに剣の切れ味は悪くなっていて、綺麗に切断できなかった。鉄と加えられた暴力の重みで、太ももが押しつぶされて、小さくやわらかな鱗が剥がれ落ち、肉がつぶされ、骨が折れた。
「そんなにやると死んじまう」
近くに生き残りの兵が寄って来た。後ろからヴラドの体を支えると、ヴラドは自分の体がバラバラになるような、変な感覚に襲われた。痛いという感覚を思い出した体が受けた損傷と被害を急に報告しだしたかのように、急に頭が重くなり、全身がボロボロと崩れていきそうな感じだった。
足元をみれば、腕を一本残して、小さな竜がか細い息をしていた。
そうだ、帰れる。こいつを捕獲さえすれば――。
ヴラドは、力をふりしぼった。虫の息をした小さな化け物に手を伸ばす。
途端、カッと右目が熱く火花が散った。何が起きたのか瞬時には理解できなかった。
そして、闇が訪れた。
――数年後
竜を食べし鬼人ヴラドの帰還に、沸き立つ街は騒がしい。馬上のひととなったヴラドを先頭に帝都を進めば、その左右には押し寄せる人、人、人。皆が、対竜人戦争の英雄をひとめみようと押しかけてきた見物人だ。
大人に負けずに背伸びしてすこしでも彼の姿を見ようと背伸びをする子ども。親に肩車をしてもらい、彼らの到着を待ちわびている子もいる。大通りの左右の建物の窓からは、たくさんの人の生首が窓から飛び出し、これから続々と帝都入りしてくる兵団をその小麦色の瞳にうつしている。
「痛みますか」
眼帯の上に手を当てていたヴラドは、はっと顔をあげた。
黒い尖った髪を短く刈り込んでいる彼には額から右目をずくりと通る大きな傷がある。その上に、黒い眼帯をかぶせており、傷だらけの肉体とあいまって、鬼人という勝手につけられてしまった名にぴったりとあてはまる武人だ。だがその左の瞳だけは、やさしい色を帯びていた。
不安そうに揺れる配下のコナンの瞳がそこにあった。小麦色の瞳は、帝国人の色だ。だが彼に半分流れている非帝国の血のせいで彼はヴラドの隊に配属されていた。
ヴラドは笑いながら、首を横に振った。
「ずいぶん、昔の傷だ。いまさら痛むことなどないよ」
ヴラドの左目が細くなった。コナンもそれにつられて目を細めた。
「カミラが言っていました。ヴラドさんは右目がよくないから、おれがヴラドさんの右目のかわりになりたいって」
カミラ――眠りについている彼はいま、荷車のなかに隠されている。彼が再び目をあけるときは、屋敷のなかで、ヴラドの姿をみつけると嬉し気に「おかえり」と抱き着いて来るだろう。
「可愛い子ですよね。竜を食べたなんて噂されている鬼人とふたり並べば、まるで――」
コナンがくっくと独特な笑いをもらした。
「そりゃ、ひどいなぁ。ヴラドは確かにあの見た目じゃ化け物みたいで怖いかもしれないが、ああみえて繊細なんだぜ。婦女子がむらがるくらいの色気だってあるしな」
コナンは後ろから背中をつつかれて、びくりと肩を動かした。
「ヴィクター、お前、驚かすなよ」
「そちらこそ、俺たちの隊長をいびるなよ」
「いびってなんかないさ」
「嘘つけ。カミラがいつもヴラドにべったりだからって、すねてるくせに」
「すねてない」
コナンと同じくヴィクターもヴラドの配下だ。ヴラドと同じ黒い髪と黒い瞳。帝国に滅ぼされた異民族の色彩に包まれた彼は、ヴラドと同郷ということもあって、巷で鬼人と呼ばれていようがかまわなく近い距離で話せる数少ない部下の一人だ。
「なぁ、ヴラド、そうだよな。こいつなんていつも、お前に嫉妬しているくせにな」
「してないってば」
ヴィクターに絡まれて、ヴラドは苦笑した。幼いカミラをコナンはいたく可愛がっている。そのカミラがヴラドにベタ惚れなのには、少々苦しい理由があるのだが――。
「お前たち、口うるさいぞ。いい加減にしろ」
ヴラドの後ろから凛とした若い女の声が響いた。「わお」とヴィクターが目を丸くした。
「おわ、しゃべった!」
ヴィクターにじろじろと見られて、もじもじと彼女フードをつかんだ。細い手首には幾重にも紙で編まれた紙紐の飾りが揺れる。首にもそれは結ばれていた。深くかぶりなおして癖のあるクリーム色の髪と白い顔を隠すと、彼女は不満げに押し黙った。それを見て、コナンが同僚を睨みつける。
「こら、ヴィクター、雛子《ひなこ》さまに失礼だぞ」
彼はヴラドの顔色をうかがったあと、あわてて静かになった。
ヴラドはただ黙っていただけだった。自分の愛し子を縛る紙糸と同じ呪い。術者に返ってくるそれをかわりに引き受けるために結ばれたそれが視界に入るたびに、その鮮やかな色彩にくらりと酔いそうになる。
それにしても、なんと間の抜けた時間だろう。ようやく都に入り切る。みせびらかしのためとはいえ、こんなにとろとろと、歩いていては、別の意味で疲れる。はやく謁見をすませ、屋敷に戻って惰眠をむさぼりたい。そこには、カミラが待っている。
――にしても、なんだか妙だ。街の活気。帰還できた喜び。さわがしさに満ちていても何ひとつおかしいことはないのだが、それにしても、やけに後列のほうが騒がしく感じる。ヴラドの胸がどきりと弾んだ。嫌な予感がするのだ。
その予感の通り、後列から青白い顔をした伝令兵が早馬にまたがりヴラドらがいる行列先頭まで駆けて来た。
「大変です、後列にて、捕獲していた竜が脱走しました!」
.いい子の夢
――殺せ、壊せ、やっつけろ。
そういわれても、自分にちからがなければ、その命令に答えることもできない。彼に報いることもできない。
だけど、今日は違う。
今日のおれはとっても強い。
大きな翼をひろげれば、大地をけっとばして、空に舞い上がれる。ずしんと重たい体を落とせば、地面が震え、砂埃が舞う。びゅっとひとふきで、火炎を吹いて、がぶっとかみつけば肉が破裂する。爪でひっかけ、尾で殴れ。
この体はすべて、敵を倒すために。
足元には大好きなヴラドさんがいる。彼は以前、雛子《マリア》さんに見せてもらった黒曜石に似ている。いつも凛としていてすがすがしくて、綺麗でいつまでも手元に置いてみていたい気持になる。
おれはずっとヴラドさんのお役に立てる日をずっと待っていた。それが今日!
にんげんを食い散らかして、いっぱい殺しにやってくる、悪いやつらと戦うヴラドさん、今日はおれも、ヴラドさんと一緒に、悪いやつらと戦うんだ!
隊列を組みなおして立てた盾。最前列の兵士たちに、放射された火炎がなめる舌のように襲い掛かる。おれはすかさずこの体をすべりこませた。
いつもはちびっこだっておれのことをからかっていたヴィクターが、後ろから、「ひゅう!」と口笛を吹いた。どんなに強固に隊列を組んで隙間なく盾をならべても防げない敵の息吹から、おれは一瞬でみんなを守った。鱗がちょっと重たくなってじりじりって背中がするけど、そんなことどうでもいい! きっとヴラドさんが、「いい子」って褒めてくれる。
怖いものなんて、何もない。向かうところ敵なし。やられっぱなしはしょうにあわない。これから、反撃――
.日常
「いくぞぉぉぉぉ!」
と咆哮をあげたところで、天井。え? 天井? カミラは首をかしげた。だが、天井しか見えない。
「まったく、どこに行くっていうんだい、床?」
やさしい声が降ってきて、天井の前に愛しき主人の顔が現れる。薄い唇がかすかにゆるんでいる。ヴラドさん! カミラは小さく叫んで彼に抱きついた。広い背中に手を伸ばす。この手じゃまだ、追いつけないくらい、広い、大きな、大好きなヴラドさん!
「こらこら、まったく、カミラはいくつになっても甘えん坊だね」
カミラの鼓膜はヴラドの掠れた低い声をじんわりと、拾い上げる。ああ、ヴラドだ、ヴラドさま、おれのご主人!
「おかえりなさい! 無事のご帰還、とても嬉しいです」
ぺろりと、彼の頬に舌をはわせた。硬い皮膚の上、まだ知らない土地の匂いがしたような気がした。
「カミラはちゃんとお留守番ができていたのかな」
あ、なめちゃったと、びくつくカミラの髪を大きなてのひらですきながら、ヴラドがやさしく問いかける。カミラは「はい!」と勢いよく返事をしたが、自分が横になっていた場所がすぐ隣にあって、ヴラドに抱きかかえられている自分が床に落ちていたことに気がついて顔を赤く染めた。
「そ、そのヴラドさんが帰ってくるなって思って、嬉しくて、だから、その……落ちちゃっただけで、その、きっとずっと、いつもはもっと寝相、いいと思うんです」
「よかったじゃないか、言い訳も成長するくらい、カミラも大きくなったんだな」
ヴラドではない声。はっと見上げれば、自分が抱き着いているヴラドの肩に男の手が乗っていた。
「ヴィクター! お前、ちゃんとヴラドさんをお守りしたんだろうな? 少し血の匂いがする」
「んだと、この、寝坊助が。ぐーすかしているだけのお前に言われたくないっての」
ヴィクターがぐりぐりと拳を頭にあててくる。痛くはない。じゃれ合いだ。
「うるせー! おれだって、早く大人になってヴラドさんと一緒に戦場に出るんだ! 今日だって、夢の中では……!」
ぴょんとヴラドの腕の中から飛び出して、ヴィクターに嚙みつきにいったところで、新たな人物が部屋に入って来た。
「夢の中では? それは気になるな」
雛子を三人連れて部屋に入って来たのは、ヴラドやヴィクターとは違った毛色の黒い長髪の男だった。
「げ、ゾエ」
呪術師の登場に、げそっと、カミラは身震いした。何故かわからないが、この男と会うたびに鳥肌が立つ。ゾエは三人の雛子を連れてズカズカと部屋に入ってくる。ヴラドが軽く会釈したのに、ゾエはそれを無視した。こういう態度も気に入らない。
「トカゲの夢なんて聞いてどうするんだ?」
「どうするもこうするも煮て焼いて食うにきまっているだろうに」
まるで老人のようにしわがれた声。ヴラドと違って、その声を聴くたびに神経がぴりぴりと警戒しだす。だが、術者の後ろから、野の花のように可憐な顔が飛び出して来て、カミラを喜ばせた。癖毛のマリアの声は小鳥の囀りのように甘やかだった。
「久しぶりね、カミラ! 元気してた?」
「マリア! ローゼ! シーナ!」
クリーム色をした白い膚の少女たちはゾエの雛子たちだ。雛子がどういうものなのか、カミラはよく知らないが、ゾエの行くところに三人がちょこちょことついていくのを何度も見ている。術者の側人みたいなものだろう。
くりんと肩まで伸ばした癖毛がマリア、肩甲骨まで伸ばしたストレートのローゼ、三つ編みのそばかすっ子がシーナ。三人とも薄手の白いワンピースの上にフードつきの外套をまとっている。その手足には紙製の飾り物。マリアとローゼの首には首飾りのように紙紐が結ばれている。
カミラはそっと自分の首もとに手を伸ばした。そこにも、彼女たちと同じような紙でできた紐飾りがある。赤、青、黄色。マリアの首に垂れているものと同じく、色鮮やかな細い紙が編み込まれたそれは、軽く体の一部のように、そこにあった。
この飾りはヴラドからもらったものだ、とカミラは大事にしている。いつごろからつけ始めたのかわからないが、気がついたころにはずっとこの膚によりそうようにくっついていた。
自分にとって大事なものとそっくりのものを身につけている彼女たち――特におおらかで優しいマリアとは立場は違えど、どことなく似たようなシンパシーを感じる。彼女らの主に対してはどうしても苦手意識のほうが勝ってしまうのだが、この三雛子たちはカミラにとって小さな仲間のような不思議な存在だ。
「ねえ、マリア。今日はゾエ、花をしてないね」
カミラの指摘に、ゾエは思わず自分の髪に触れた。その長い黒髪にはいつも花が咲いていた。それはマリアが毎朝摘んだものを身支度の際に勝手に髪に挿していくので、好き勝手やらせていただけなのだが。マリアは微笑んだ。
「そうなの、私、ヴラド隊に同行していたから、この生意気な猿のせいで、ゾエさまにお渡しする花を摘み損ねたのよ」
ちらりとマリアが視線をヴィクターに注いだ。彼女はどうやら彼が苦手らしい。
「え! ヴラドさんと一緒に戦場に行ってきたの?」
「ええ、仕事ですもの。できることなら行きたくなかったけれど。あんな猿がいる場所なんて」
ぷいと、ヴィクターから視線を逸らしたマリアをヴィクターは奇妙なものを見る目で見ていた。
「あいつ、同行中は人形のようにうんともすんともいわなかったよな……急に人間らしくなってて気持ち悪い」
まあまあと、コナンがヴィクターの背中に手をあてる。それでおとなしくなるような青年ではない。文句が滝のように彼の唇から流れ出した。うるさい猿は嫌いとマリアはフードを深くかぶった。
「カミラ」
ヴラドの声にカミラは振り返った。
「せっかくだから彼女たちと遊んでくるか?」
黒く尖った短い髪、大きな傷と眼帯。からだじゅうの古傷。それでも、カミラにとって、この世でいちばん美しい存在は、この男だ。低くささやく声に、カミラはうなづきかけて、あわてて主の手を握った。
「遠征、お疲れさまでした。おれは、ヴラドさんと一緒にいたいです」
大きな手、節の太い指。爪の間は黒く汚れている。洗っても落ちないその汚れと、豆の跡。浮き出た血管の一本を数えて、浮き出た骨の峰のなぞりたくなる。手のひらひとつで、主人は歩んできた人生を語れるのだ。
それに対して――カミラは自身の手をみた。ふにゃっとしたまるっこい、小さな手を。いや、大きさならもうゾエの三雛子の誰よりも大きくひろがる手になったのが、彼女たちのように白っぽく、すらりと細い。髪の色だってなんだか変な感じだ。光の加減で白っぽく見えたり緑色に見えたりなんだかよくわからない。それにヴラドのようにまっすぐじゃなくて、わふわっと綿あめが頭の上に乗っているような感じでいかにも弱そうだ。
剣技はコナンやヴィクターたちが手の空いたときにたまに教えてもらっているが、居眠り《・・・》をしている間にできた豆も気がついたらいつの間にか姿を消して柔らかなミルクパンのような質感に戻っている。
「そうか、それなら今日は一緒にいよう。……カミラ?」
下を向いたままのカミラを不思議そうにヴラドが覗き込む。
「あ、いや、その、なんでもないです」
手に見惚れていたとは言えない。あわてて、ヴラドに触れていた手をぱっと離した。
「はは、そんなふうにチビがべったりだからなかなか嫁が来ないんじゃないのか、ヴラド」
ゾエがけらけらと笑う。なんだかすごく腹のたつ言い方だ。
「そういえば、もう夜長の月《九月》か」
「ええ、早いですね。俺はもう三十二か」
ヴラドの発言に、カミラはぴょっと小さく飛び上がった。
「え、え、え、三十二?」
「ああ、九月二十三で三十二歳になるんだ」
思わず両手の指を折る。三十二? ということは、えっと、えっと……十九、十九も年が違うのか。……九月二十三?
「た、誕生日! ヴラドさんにもあったんですね!」
ヴラドに関して一緒にくらしているとはいえ、仕事で会えなかったり、戦場に出ているときは知らない。それに、彼の過去のことはなにも。彼本人に尋ねても、言いたくないのかはぐらかされてしまう。だから、カミラはどんなにささいなことでも、知らなかったことに触れるのは嬉しい。
が、なぜか、場に笑いが満ちていく。ヴラドからしてみれば、ほほえましい光景だ。微笑みをたたえるだけなのだが、なぜかゾエにげらげらと失笑されて、やっぱりカミラは腹が立つ。文句を言ってやろうと思った瞬間、ズキリと体が痛んだ。
言葉にならない激痛に、カミラはうずくまった。また、これだ。
何故かわからないが、カミラはヴラドがそばにいないと、眠たくなる。特にヴラドが帝国の領地の外へ、帝国に仇なす竜人たちを討伐しに行くたびに、彼は眠りにつくのだ。そして彼らの遠征が終わると目が覚める。体中に知らない傷と痛みを残して。
痛いと思ったのち、それは激しさを増して身体を襲った。のたうち回りたい激痛が脇腹を襲う、背中はじくじくと焼けるような痛み。自身の体をぎゅっとにぎりしめたカミラの手がぬるりとした何かに触れた。――血だ。あわてて服をめくって自身の腹を見た。そこには真っ赤に染まった包帯がまかれていた。いつの間にこんな怪我をしていたのだろう。
「出血している。手当を」
ヴラドが指示を出す。すぐさまヴィクターとコナンが飛び出して行った。看護の者を呼びに行ったに違いない。
「大丈夫か、カミラ」
ヴラドの手が伸びてくる。思わず、ひっと身構えてしまうカミラだったが、その手は汗に張り付いた前髪をそっとなでただけだった。
「あ、え……?」
どうして――? 最愛といってもいいヴラドの手を、いま、一瞬、怖いと感じた。何故?
何故といえば、この痛みだ。一体、どうしてこんなにも身体の節々が痛いんだろう。うう、気分が悪い。ぐっと腹の奥から何かがのぼってくる。ぐらぐらと頭の奥が、体中が、何かおかしい、違和感をずっと叫んでいる。
「カミラ、落ち着いて、カミラ」
声、ヴラドの声だ。低く鼓膜をゆさぶる。
「ヴラドさん、なんかおれ、また……」
差し出された腕に縋りついたとき、のぼってきた違和感が、大きく音をたてて、喉を逆流した。吐き出した異物がヴラドの手を汚した。
「ヴラドさん、ご、ごめんなさい、おれっ……!」
大切な、この世で一番大切なひとを吐瀉物で怪我してしまった。そのことに必死になって、ヴラドにしがみつく。殴られたってかまわない。どうか許してほしい。
「大丈夫だ、カミラ。吐きたければ何度も吐けばいい。お前が無事であることのほうが、俺には大切だ」
気がついたらヴラドの匂いが濃くなっていた。甘い花のような香りがまずしてそこからヴラドの体臭が微かに。抱きしめられていた安堵感に、痛みとともに意識が遠のく。抱きあげられてベッドに戻された。やわらかな寝床に寝かされて、ヴラドの手を掴んだ。
「大丈夫、俺はきみのそばにいるよ、ずっと」
ああ、ヴラドさんだ。彼の名前を口にするとカミラは再び眠りの世界に落ちていった。
年はもう十三になる――といっても正確な年齢はわからない。拾い子のカミラにとって、だいたいこのくらいだろうという推定値にすぎない。
それでも成長期であることは確かで、背丈も随分のびた。三雛子の誰よりも大きく伸びたのだが、それでも、長身のヴラドに届かぬどころか、コナンやヴィクターでさえ腰や胸の下あたりで見上げなくてはならない。しかも垂れさがる藤の細枝のようなカミラと彼らでは体格が月とすっぽんだ。ヴラドでなくても、彼にかかれば簡単に抱き上げられてしまう。
全てにおいて彼に届かない。いつかは彼が慈しみ育んでくれたぶんを返したい、彼の役に立ちたいと思うのだが。
「傷の治りがだいぶ遅くなった。いくらトカゲ不足といえど、これ以上、彼に仕事をさせたくない」
ヴラドの声だ。どこに――? 彼の気配をたどろうと必死になる。なのに、体が重い。動かない。ゾエの声も、マリアの声も聞こえてきた。ああ、そうだ、ヴラドさんたちが遠征から帰還してきて、それから――。
「そうか、そうだな。……マリア、現場での動きはどうだったかね」
「はい、同行している最中、異常があるようには思えませんでした」
「そうか……だが、やはり連戦はきついな。術が溶けかかっている。もう一度、強固に術をかけ直しておいたほうがいいな。ほどけかかっている応急処置だけはしておこうかな、マリア、呪紙を」
何を話しているのだろう。ぼんやりとした頭で考えようとして、急にもやがかかった。不安になる。夢のなかでも、カミラはヴラドを探している。真っ暗の闇の中、どんなに黒く冷たい闇よりも、温かく凛として光る黒い――。
.街へ
誕生日に何かプレゼントを贈りたい。ヴラドに街に出ていいか尋ねる。カミラはヴラドに恋に似た感情を持っている。体が変になってヴラドにしずめてもらう。ヴラドから香水の香り。許可を貰えてよろこぶカミラ。
商店街をうろつくカミラ。だがヴラドに何を贈ればいいのかわからない。うろうろとあるく途中、変な臭いをかぎ分ける。異質な、変な感じ。そういえば、なんだか今日は兵士の匂いが強い。――と、カミラを尾行していたヴラドの配下に出会う。変な臭いがすることを報告するカミラ。
ついにその正体に迫る。尾行、おいつかない。その先に、薔薇園、竜人がいた。
.竜の子
初めてみる竜人にびびりたおすカミラ。だが、竜の子はカミラに近寄ってくる。彼とのふれあい。薔薇園の女性。たわむれるカミラ。
どうやらここは孤児園だそう。屋敷の主ひとりが切り盛りしてる。ヴラドの過去を知るカミラ。
竜の子と触れ合っている最中、ミサンガにかけられた呪いを示唆。
ヴラドの配下が薔薇園にやってくる。カミラをいないと答える女性。カミラ、竜の子と逃げる。竜の子が門の外に出られるように、自身の通行許可書を渡す。
配下の兵士。くそ、あのへっぽこ魔術師め、と毒づく。ヴラドすぐそばにいた。「そんなことないよ」「カミラ自身を壊さずによく縛ってくれている」
.悪夢
母親を殺される夢を見る。ヴラドの手がのびてくる。
起きたらいつもの館。大好きなヴラドがいる。また街に行きたいというカミラ。どこで何をやっているんだい、と尋ねるヴラド。秘密。
.街でお手伝いをしておこずかいをつくることにしたカミラ。するとすぐ近くで暴動が。あの竜の子がひとにとらえられていた。地下牢へと運ばれる竜の子を見て、心臓がざわめく。
.帰宅後、すぐさまヴラドに竜の子の話を。だがヴラドにはぐらかされる。発情してヴラドの腕をぬらすカミラ。どうして――?
.ヴラド過去回
戦争に負けた異民族の子として、地下街で過ごしていたヴラド。薔薇園に保護されて、立派な騎士になる。そこに舞い降りた仕事が、「花の子」を育てること。
カミラの自由意志を尊重しながら、殺りく兵器を育てなくてはならないことに葛藤しながら、彼はカミラとともに、生きて来た。
だが、先ほどのことでカミラが自分に恋心を抱いていることに気がつき、罪悪感から、魔術師ゾエのもとへ。
ゾエは捕えたばかりの竜の子を利用できるかみださめに来ていた。
ゾエはカミラを洗脳した魔術師。最初からもっと強く洗脳をほどこしておけば、と後悔するヴラドに、洗脳の教化を約束。すぐさま、その儀式にとりかかる約束をする。
それを聞いた竜の子は、術をやぶって転身。ドラゴンの姿で街中に逃亡。
.カミラVS少年竜
街に逃げた竜の被害をおさえるため討伐の命がくだった。カミラを寝かせようとするヴラド。カミラは戦闘の最中、術をやぶって自我をとりもどす。術の返しでゾエの三雛子が即死。ゾエは失明する。
術が効かなくなってしまったカミラ。ヴラドに少年竜を殺せと命じられるが殺せない。人間体に戻ったカミラ。そんななか、少年竜が最後の力を振り絞ってそのまま死亡する。
カミラをかばって大けがをしたヴラド。カミラの腕のなかで、カミラと対決する。ヴラドがカミラの母を殺した張本人。
ヴラドを殺せないカミラ。ヴラドと決別する。
.epilogue 十月一日
ああ、生きているのか。
ヴラドはただ面白味もなにもない天井をながめていた。全身にぐるぐると巻かれた包帯。そうでなくても、どこをどう穢しているのか、わからなくなるくらい、全身がぼろぼろな状態で、することといえば、周囲の音をうかがうだとか、つまらない天井とにらめっこするくらいのことしかできない。
一命をとりとめたものの、この様子ではもう役立たずだ。兵士として働けなくなった今、ヴラドに残ったのはかつて鬼人と呼ばれた武者の慣れ果てた体だけだ。それでも、つけられたあだ名だけはついてくる。現役をしりぞいたのち、新兵を育てる側へ回れとくだされた処分に、こみあげてくるはずの笑いを表に出す体力すら残っていなかった。
このまま順調に回復に向かっていけば、とりあえず、何かにつかまりながらなら立ち上がることもできると思う。だが、うしなったものは帰ってこない。この右目と同じだ。一度、光を失ったら、もう二度と――。
来客の足音に、ヴラドを左目の眼球を動かして対応した。彼だった。
「様子はどうだ?」
「それはこちらの台詞だ」
「ああ、いい気分だよ。ようやくお前の気持がわかったような気がする」
しわがれた声が、けっけと獣のような笑い声をあげてヴラドに近づいてきた。だがその体はおぼつかない。近くに生き残ったシーナが控えて、彼の体を支えていたが、彼女の顔色は悪く、薄気味悪いくらい白かった。
「めしいになると逆に見えてくるものがあるな」
ゾエは、自嘲するように笑った。かつて、日々綺麗な花を挿していた髪には、何もにない。枯れた葉一枚すらなにもない。
シーナに導かれて、ヴラドのベッドの脇の椅子に座るとゾエは聞かれてもいないのに、ゾエは話し始めた。
「今朝、ローゼが逝った。内臓を持っていかれたからな。ようやく逝ったよ」
シーナが俯いた。唇に前歯がつきささる。重苦しい空気を乱したのは、赤ん坊の泣き声だった。キーンと耳が痛むくらい勢いよく泣き出したそれに、ヴラドはびっくりして飛び起きようとしたが、体がいうことをきかなかった。
「な、なんだその子は!」
シーナの胸にくくりつけられている色素の薄い髪の子どもに、ヴラドはぎょっとした。
「マリアもローゼも死んだ。新しい雛子が必要になった。どこもかしもこ、雛子不足だな、呪われている」
「まだ続けるのか」
ヴラドは聞いた。
「どうせならこの肉体ごと全部持って行ってもらいたいものだった。そうしたら、そこで終わりになった」
「カミラは……ああ、いや、もう別の名になったか」
ゾエは何も答えなかった。それが答えだろう。名前は与えられた存在を規定する。新しい名前を与え新しく儀式を行い、彼をしばりなおしたのだろう。
「そろそろ行こう。こんな死にぞこないと話をしていても、つまらぬな。シーナ」
名を呼ばれて、少女は、ヴラドの胸の上にそれをそっとおいた。ぱさりと小さな乾いた音とともに、ヴラドに不時着したそれは、ふわっと微かに植物の香りを漂わせていた。
「見舞いにお土産、ありがとう。シーナ、ゾエをよろしく頼む」
そばかすの少女は、すこし迷ったよう動作を止めたが、そっと唇を開いて白い歯を見せて音もなく笑った。
「シーナ、行くぞ」
主の命に従って、シーナは弱った主の体を支えた。その胸の前で、子どもが泣きじゃくる。よしよし、とシーナのあやす声が、つんざくような生命の叫びにまぎれて聞こえる。よしよし、いい子、いい子だから。
再び、音を失った部屋のなかにひとり残されたヴラドは、彼女がおいていった土産に手を伸ばした。簡素な花束だったが、懐かしい香りがした。三輪の薔薇、それも、一輪は枯れかけている。それでも、いいと思った。薄い花弁が鮮やかな色をしている。
はやく水に浸してやらなくては、と思った。だから根本で、花にくくりついていた呪紙に気がつかずにそれを破ってしまった。ぎょっとして慌てたが、遅かった。ヴラドに襲い掛かってきたのはあるイメージだった。
*カミラは目を醒ます。大好きな主人がそこにいる。カミラは捕えられ、より強固な術で洗脳されていた。
それでもなぜか、街に出る。どうしても、花束が欲しいとねだる。どうしてそれがほしいのかわからない。
遠くで主人が呼ぶ。あわてて走るカミラ。手から花束がおちる。そのまま、主人とともに、自分の帰るべき場所へかえっていくカミラ。
ああ、そうか。これは、あの子が――。
ヴラドは思わず両の瞳を押さえた。もう使い物にならないのに、その眼球の奥がじくりと熱く痛んだ。抑えても痛みはとれなかった。もうどうすることもできない。手は宙をまって、どこにたちよればいいのか、与えられた場所を探してさまよった。胸の上の花を撫でる。ふわりと花弁を揺らす。抱きしめられて困惑しているように。
思えば本当に、ばかなやつだった。あんなのと関わりあいにならなければ、この人生、きっともう少しはましだったに違いない。ヴラドは、翡翠色の小さな、それを思った。乾いた唇から漏れ出たのは、小さな彼への文句だった。
「ばかな、やつだな。もう誕生日は過ぎてしまったよ。カミラ、十月一日では遅すぎる」
人と竜が戦いあう世の中、「竜肉食らいの鬼人」と呼ばれるほどの兵士・ヴラドの養い子《トカゲ》である少年・カミラは、ヴラドへの誕生日の贈り物を求め飛び出した帝都にて自身にそっくりの竜人の少年に出会う。ヴラドから送られた紙紐の飾りを壊されるとカミラの体は大きな青年に変貌。その日から悪夢が始まった。
勇猛な武人と純朴な少年、逃げられない閉塞感の中、ふたりが見つけだした、たった一つの偽りない想いとは――?
.登場人物
・カミラ(カイン)
・ヴラド 黒髪黒目 額から右目におおきな傷 通り名 鬼人将軍
・ゾエ 呪術師
・三雛子 マリア ローゼ シーナ
・アベル 竜の子
・クラウディア 薔薇の園のおばさん
・ヴィクター ヴラドの配下 黒髪黒目
・コナン ヴラドの配下 カミラを可愛がっている 小麦色の目 赤い髪
.prologue 凱旋
砂煙に目を細めた。粉かい塵や砂が衣服の隙間から侵入してきてじりじりと肌の上を転がる。薄茶色になる視界。大きな影が揺れている。咆哮に全身の細胞が震える。
自分の名前を呼ぶ声がすぐそばから聞こえた。自分もまだ息をしている。呼吸のたびに、生あたたかく、生物の流した体液の生臭い匂いに包まれる。そこらへんで倒れているのは、ただの物体になり果てたかつての兵士たちだ。
「どうする、向こうのやつらもやられたらしい」
がさついた声。次の一撃がこちらに飛んできてそれで死ぬかもしれない緊張感の中、竜の体液でべっとりと汚れた両腕で大剣を握る。
任務だ。
ヴラドら数百の兵たちに下された命令は竜狩り《ドラゴン・ハント》。単身の――できれば幼ければ幼いほど良い――竜を捕獲することだった。帝国に命じられたことは絶対だ。それを破って帝国領内で死ぬか、それとも、ここで死ぬか。ヴラドら非帝国人種の孤児たちには、その二択のみしか与えられていなかった。
やるしかないとわかっている。ヴラドは歯を食いしばった。
舞っていた砂塵から、大きな爪がヴラドらの頭上に現れた。とっさに、退避したヴラドのすぐ横で、血しぶきが舞う。
獲物となる竜を見つけるところまでは簡単だった。大陸内部を移動している最中、竜にしてはとても小さな、人間の子どもくらいの大きさしかない幼い竜を二匹発見した。
狙うのはそのうちの一匹だけでいい。二匹を追尾し、ふたつの化け物が距離をとった瞬間を狙って、捕獲隊は、捕獲体勢に入った。だが、その最中、親竜と思われる巨大な竜に遭遇。こうして戦闘態勢に入ってしまった。
時の経過とともに、こちらの数が減っていくのは明確だった。向こうにも、それなりに痛手を与えている。殺さなくてもいい。せめて、親竜の動きをとめられるくらいの損害をあたえられたらいい。
ヴラドは敵の動きを見つめながら息をひそめた。親竜は次々と猿たちを払いのけながら砂煙に巻いて逃げようとしている。大きな翼の生えた腕。リーチが長い分だけ、近づいて内側から腹を斬れば、それなりに効果はあるはずだ。
両腕にのしかかる分厚い鉄の重さ。火で鍛え上げられたそれが、存在を主張している。
戦うためにつくられた武器と、戦うために育てられた肉体が、呼応しあう。これしか、生きる道はなかった。
駆け出した先に、竜の足元が見えた。茶色く輝いたかと思えば薄い翡翠の色に光を反射する鱗。これを斬りつけるのは至難のわざだ。右手に剣を預けると懐から呪紙をとりだした。接近には危険が伴う。それでも、これを貼り付けさえすれば、呪紙にこめられた呪術が発動し炸裂する。
ヴラドは手を伸ばした。踵があがり始める。鱗に、触れた。そのまま、滑りだす勢いで、前に倒れた。途端、背後で爆発音がした。――効いた。
焦げ臭い臭いを嗅ぎながら、あわてて立ち上がると、ヴラドは走る。悲痛な咆哮に細胞が沸騰するように沸き立った。はやくこれを突き立てたいと、鍛え上がれられた兵士の腕が震える。
見えた!
足をくじかれて、バランスをくずした巨体が起き上がろうとしているその一瞬、ヴラドはその巨体に接近した。
竜が鳴いているのか、自分が叫んでいるのかわからない。ただ、鳴り響き、全身をこの場を支配していた音が消え、待っていた砂が地に落ち、すべてが明るみにさらされたとき、竜の体液を全身に浴びたヴラドだけがその場に立っていた。
生き残りの猿たちは、ただそれを茫然と眺めた。誰も言葉にできる者はいなかった。化け物だ。
ヴラドは横たわった遺骸に隠れていた子竜を発見して、その腕を斬った。小さな腕が砂面に落ちた。どろどろと流れていく血を吸い込んで、地面が硬くなる。子竜は必死で親竜にしがみついた。
よく考えたら足を斬らねばならなかったとヴラドはため息をついた。斬ったところで時間が経てばまた好き勝手生えてくるのだ。斬られた人間は死ぬだけだというのに。砂原に積み重なった死体。体中が痛みを発していた。むしゃくしゃして、全力で剣をふりあげた。
鉄の塊が降って来て、子竜は叫び声をあげた。だがその音もすぐに弱く、消えた。脚がちぎれる。すでに剣の切れ味は悪くなっていて、綺麗に切断できなかった。鉄と加えられた暴力の重みで、太ももが押しつぶされて、小さくやわらかな鱗が剥がれ落ち、肉がつぶされ、骨が折れた。
「そんなにやると死んじまう」
近くに生き残りの兵が寄って来た。後ろからヴラドの体を支えると、ヴラドは自分の体がバラバラになるような、変な感覚に襲われた。痛いという感覚を思い出した体が受けた損傷と被害を急に報告しだしたかのように、急に頭が重くなり、全身がボロボロと崩れていきそうな感じだった。
足元をみれば、腕を一本残して、小さな竜がか細い息をしていた。
そうだ、帰れる。こいつを捕獲さえすれば――。
ヴラドは、力をふりしぼった。虫の息をした小さな化け物に手を伸ばす。
途端、カッと右目が熱く火花が散った。何が起きたのか瞬時には理解できなかった。
そして、闇が訪れた。
――数年後
竜を食べし鬼人ヴラドの帰還に、沸き立つ街は騒がしい。馬上のひととなったヴラドを先頭に帝都を進めば、その左右には押し寄せる人、人、人。皆が、対竜人戦争の英雄をひとめみようと押しかけてきた見物人だ。
大人に負けずに背伸びしてすこしでも彼の姿を見ようと背伸びをする子ども。親に肩車をしてもらい、彼らの到着を待ちわびている子もいる。大通りの左右の建物の窓からは、たくさんの人の生首が窓から飛び出し、これから続々と帝都入りしてくる兵団をその小麦色の瞳にうつしている。
「痛みますか」
眼帯の上に手を当てていたヴラドは、はっと顔をあげた。
黒い尖った髪を短く刈り込んでいる彼には額から右目をずくりと通る大きな傷がある。その上に、黒い眼帯をかぶせており、傷だらけの肉体とあいまって、鬼人という勝手につけられてしまった名にぴったりとあてはまる武人だ。だがその左の瞳だけは、やさしい色を帯びていた。
不安そうに揺れる配下のコナンの瞳がそこにあった。小麦色の瞳は、帝国人の色だ。だが彼に半分流れている非帝国の血のせいで彼はヴラドの隊に配属されていた。
ヴラドは笑いながら、首を横に振った。
「ずいぶん、昔の傷だ。いまさら痛むことなどないよ」
ヴラドの左目が細くなった。コナンもそれにつられて目を細めた。
「カミラが言っていました。ヴラドさんは右目がよくないから、おれがヴラドさんの右目のかわりになりたいって」
カミラ――眠りについている彼はいま、荷車のなかに隠されている。彼が再び目をあけるときは、屋敷のなかで、ヴラドの姿をみつけると嬉し気に「おかえり」と抱き着いて来るだろう。
「可愛い子ですよね。竜を食べたなんて噂されている鬼人とふたり並べば、まるで――」
コナンがくっくと独特な笑いをもらした。
「そりゃ、ひどいなぁ。ヴラドは確かにあの見た目じゃ化け物みたいで怖いかもしれないが、ああみえて繊細なんだぜ。婦女子がむらがるくらいの色気だってあるしな」
コナンは後ろから背中をつつかれて、びくりと肩を動かした。
「ヴィクター、お前、驚かすなよ」
「そちらこそ、俺たちの隊長をいびるなよ」
「いびってなんかないさ」
「嘘つけ。カミラがいつもヴラドにべったりだからって、すねてるくせに」
「すねてない」
コナンと同じくヴィクターもヴラドの配下だ。ヴラドと同じ黒い髪と黒い瞳。帝国に滅ぼされた異民族の色彩に包まれた彼は、ヴラドと同郷ということもあって、巷で鬼人と呼ばれていようがかまわなく近い距離で話せる数少ない部下の一人だ。
「なぁ、ヴラド、そうだよな。こいつなんていつも、お前に嫉妬しているくせにな」
「してないってば」
ヴィクターに絡まれて、ヴラドは苦笑した。幼いカミラをコナンはいたく可愛がっている。そのカミラがヴラドにベタ惚れなのには、少々苦しい理由があるのだが――。
「お前たち、口うるさいぞ。いい加減にしろ」
ヴラドの後ろから凛とした若い女の声が響いた。「わお」とヴィクターが目を丸くした。
「おわ、しゃべった!」
ヴィクターにじろじろと見られて、もじもじと彼女フードをつかんだ。細い手首には幾重にも紙で編まれた紙紐の飾りが揺れる。首にもそれは結ばれていた。深くかぶりなおして癖のあるクリーム色の髪と白い顔を隠すと、彼女は不満げに押し黙った。それを見て、コナンが同僚を睨みつける。
「こら、ヴィクター、雛子《ひなこ》さまに失礼だぞ」
彼はヴラドの顔色をうかがったあと、あわてて静かになった。
ヴラドはただ黙っていただけだった。自分の愛し子を縛る紙糸と同じ呪い。術者に返ってくるそれをかわりに引き受けるために結ばれたそれが視界に入るたびに、その鮮やかな色彩にくらりと酔いそうになる。
それにしても、なんと間の抜けた時間だろう。ようやく都に入り切る。みせびらかしのためとはいえ、こんなにとろとろと、歩いていては、別の意味で疲れる。はやく謁見をすませ、屋敷に戻って惰眠をむさぼりたい。そこには、カミラが待っている。
――にしても、なんだか妙だ。街の活気。帰還できた喜び。さわがしさに満ちていても何ひとつおかしいことはないのだが、それにしても、やけに後列のほうが騒がしく感じる。ヴラドの胸がどきりと弾んだ。嫌な予感がするのだ。
その予感の通り、後列から青白い顔をした伝令兵が早馬にまたがりヴラドらがいる行列先頭まで駆けて来た。
「大変です、後列にて、捕獲していた竜が脱走しました!」
.いい子の夢
――殺せ、壊せ、やっつけろ。
そういわれても、自分にちからがなければ、その命令に答えることもできない。彼に報いることもできない。
だけど、今日は違う。
今日のおれはとっても強い。
大きな翼をひろげれば、大地をけっとばして、空に舞い上がれる。ずしんと重たい体を落とせば、地面が震え、砂埃が舞う。びゅっとひとふきで、火炎を吹いて、がぶっとかみつけば肉が破裂する。爪でひっかけ、尾で殴れ。
この体はすべて、敵を倒すために。
足元には大好きなヴラドさんがいる。彼は以前、雛子《マリア》さんに見せてもらった黒曜石に似ている。いつも凛としていてすがすがしくて、綺麗でいつまでも手元に置いてみていたい気持になる。
おれはずっとヴラドさんのお役に立てる日をずっと待っていた。それが今日!
にんげんを食い散らかして、いっぱい殺しにやってくる、悪いやつらと戦うヴラドさん、今日はおれも、ヴラドさんと一緒に、悪いやつらと戦うんだ!
隊列を組みなおして立てた盾。最前列の兵士たちに、放射された火炎がなめる舌のように襲い掛かる。おれはすかさずこの体をすべりこませた。
いつもはちびっこだっておれのことをからかっていたヴィクターが、後ろから、「ひゅう!」と口笛を吹いた。どんなに強固に隊列を組んで隙間なく盾をならべても防げない敵の息吹から、おれは一瞬でみんなを守った。鱗がちょっと重たくなってじりじりって背中がするけど、そんなことどうでもいい! きっとヴラドさんが、「いい子」って褒めてくれる。
怖いものなんて、何もない。向かうところ敵なし。やられっぱなしはしょうにあわない。これから、反撃――
.日常
「いくぞぉぉぉぉ!」
と咆哮をあげたところで、天井。え? 天井? カミラは首をかしげた。だが、天井しか見えない。
「まったく、どこに行くっていうんだい、床?」
やさしい声が降ってきて、天井の前に愛しき主人の顔が現れる。薄い唇がかすかにゆるんでいる。ヴラドさん! カミラは小さく叫んで彼に抱きついた。広い背中に手を伸ばす。この手じゃまだ、追いつけないくらい、広い、大きな、大好きなヴラドさん!
「こらこら、まったく、カミラはいくつになっても甘えん坊だね」
カミラの鼓膜はヴラドの掠れた低い声をじんわりと、拾い上げる。ああ、ヴラドだ、ヴラドさま、おれのご主人!
「おかえりなさい! 無事のご帰還、とても嬉しいです」
ぺろりと、彼の頬に舌をはわせた。硬い皮膚の上、まだ知らない土地の匂いがしたような気がした。
「カミラはちゃんとお留守番ができていたのかな」
あ、なめちゃったと、びくつくカミラの髪を大きなてのひらですきながら、ヴラドがやさしく問いかける。カミラは「はい!」と勢いよく返事をしたが、自分が横になっていた場所がすぐ隣にあって、ヴラドに抱きかかえられている自分が床に落ちていたことに気がついて顔を赤く染めた。
「そ、そのヴラドさんが帰ってくるなって思って、嬉しくて、だから、その……落ちちゃっただけで、その、きっとずっと、いつもはもっと寝相、いいと思うんです」
「よかったじゃないか、言い訳も成長するくらい、カミラも大きくなったんだな」
ヴラドではない声。はっと見上げれば、自分が抱き着いているヴラドの肩に男の手が乗っていた。
「ヴィクター! お前、ちゃんとヴラドさんをお守りしたんだろうな? 少し血の匂いがする」
「んだと、この、寝坊助が。ぐーすかしているだけのお前に言われたくないっての」
ヴィクターがぐりぐりと拳を頭にあててくる。痛くはない。じゃれ合いだ。
「うるせー! おれだって、早く大人になってヴラドさんと一緒に戦場に出るんだ! 今日だって、夢の中では……!」
ぴょんとヴラドの腕の中から飛び出して、ヴィクターに嚙みつきにいったところで、新たな人物が部屋に入って来た。
「夢の中では? それは気になるな」
雛子を三人連れて部屋に入って来たのは、ヴラドやヴィクターとは違った毛色の黒い長髪の男だった。
「げ、ゾエ」
呪術師の登場に、げそっと、カミラは身震いした。何故かわからないが、この男と会うたびに鳥肌が立つ。ゾエは三人の雛子を連れてズカズカと部屋に入ってくる。ヴラドが軽く会釈したのに、ゾエはそれを無視した。こういう態度も気に入らない。
「トカゲの夢なんて聞いてどうするんだ?」
「どうするもこうするも煮て焼いて食うにきまっているだろうに」
まるで老人のようにしわがれた声。ヴラドと違って、その声を聴くたびに神経がぴりぴりと警戒しだす。だが、術者の後ろから、野の花のように可憐な顔が飛び出して来て、カミラを喜ばせた。癖毛のマリアの声は小鳥の囀りのように甘やかだった。
「久しぶりね、カミラ! 元気してた?」
「マリア! ローゼ! シーナ!」
クリーム色をした白い膚の少女たちはゾエの雛子たちだ。雛子がどういうものなのか、カミラはよく知らないが、ゾエの行くところに三人がちょこちょことついていくのを何度も見ている。術者の側人みたいなものだろう。
くりんと肩まで伸ばした癖毛がマリア、肩甲骨まで伸ばしたストレートのローゼ、三つ編みのそばかすっ子がシーナ。三人とも薄手の白いワンピースの上にフードつきの外套をまとっている。その手足には紙製の飾り物。マリアとローゼの首には首飾りのように紙紐が結ばれている。
カミラはそっと自分の首もとに手を伸ばした。そこにも、彼女たちと同じような紙でできた紐飾りがある。赤、青、黄色。マリアの首に垂れているものと同じく、色鮮やかな細い紙が編み込まれたそれは、軽く体の一部のように、そこにあった。
この飾りはヴラドからもらったものだ、とカミラは大事にしている。いつごろからつけ始めたのかわからないが、気がついたころにはずっとこの膚によりそうようにくっついていた。
自分にとって大事なものとそっくりのものを身につけている彼女たち――特におおらかで優しいマリアとは立場は違えど、どことなく似たようなシンパシーを感じる。彼女らの主に対してはどうしても苦手意識のほうが勝ってしまうのだが、この三雛子たちはカミラにとって小さな仲間のような不思議な存在だ。
「ねえ、マリア。今日はゾエ、花をしてないね」
カミラの指摘に、ゾエは思わず自分の髪に触れた。その長い黒髪にはいつも花が咲いていた。それはマリアが毎朝摘んだものを身支度の際に勝手に髪に挿していくので、好き勝手やらせていただけなのだが。マリアは微笑んだ。
「そうなの、私、ヴラド隊に同行していたから、この生意気な猿のせいで、ゾエさまにお渡しする花を摘み損ねたのよ」
ちらりとマリアが視線をヴィクターに注いだ。彼女はどうやら彼が苦手らしい。
「え! ヴラドさんと一緒に戦場に行ってきたの?」
「ええ、仕事ですもの。できることなら行きたくなかったけれど。あんな猿がいる場所なんて」
ぷいと、ヴィクターから視線を逸らしたマリアをヴィクターは奇妙なものを見る目で見ていた。
「あいつ、同行中は人形のようにうんともすんともいわなかったよな……急に人間らしくなってて気持ち悪い」
まあまあと、コナンがヴィクターの背中に手をあてる。それでおとなしくなるような青年ではない。文句が滝のように彼の唇から流れ出した。うるさい猿は嫌いとマリアはフードを深くかぶった。
「カミラ」
ヴラドの声にカミラは振り返った。
「せっかくだから彼女たちと遊んでくるか?」
黒く尖った短い髪、大きな傷と眼帯。からだじゅうの古傷。それでも、カミラにとって、この世でいちばん美しい存在は、この男だ。低くささやく声に、カミラはうなづきかけて、あわてて主の手を握った。
「遠征、お疲れさまでした。おれは、ヴラドさんと一緒にいたいです」
大きな手、節の太い指。爪の間は黒く汚れている。洗っても落ちないその汚れと、豆の跡。浮き出た血管の一本を数えて、浮き出た骨の峰のなぞりたくなる。手のひらひとつで、主人は歩んできた人生を語れるのだ。
それに対して――カミラは自身の手をみた。ふにゃっとしたまるっこい、小さな手を。いや、大きさならもうゾエの三雛子の誰よりも大きくひろがる手になったのが、彼女たちのように白っぽく、すらりと細い。髪の色だってなんだか変な感じだ。光の加減で白っぽく見えたり緑色に見えたりなんだかよくわからない。それにヴラドのようにまっすぐじゃなくて、わふわっと綿あめが頭の上に乗っているような感じでいかにも弱そうだ。
剣技はコナンやヴィクターたちが手の空いたときにたまに教えてもらっているが、居眠り《・・・》をしている間にできた豆も気がついたらいつの間にか姿を消して柔らかなミルクパンのような質感に戻っている。
「そうか、それなら今日は一緒にいよう。……カミラ?」
下を向いたままのカミラを不思議そうにヴラドが覗き込む。
「あ、いや、その、なんでもないです」
手に見惚れていたとは言えない。あわてて、ヴラドに触れていた手をぱっと離した。
「はは、そんなふうにチビがべったりだからなかなか嫁が来ないんじゃないのか、ヴラド」
ゾエがけらけらと笑う。なんだかすごく腹のたつ言い方だ。
「そういえば、もう夜長の月《九月》か」
「ええ、早いですね。俺はもう三十二か」
ヴラドの発言に、カミラはぴょっと小さく飛び上がった。
「え、え、え、三十二?」
「ああ、九月二十三で三十二歳になるんだ」
思わず両手の指を折る。三十二? ということは、えっと、えっと……十九、十九も年が違うのか。……九月二十三?
「た、誕生日! ヴラドさんにもあったんですね!」
ヴラドに関して一緒にくらしているとはいえ、仕事で会えなかったり、戦場に出ているときは知らない。それに、彼の過去のことはなにも。彼本人に尋ねても、言いたくないのかはぐらかされてしまう。だから、カミラはどんなにささいなことでも、知らなかったことに触れるのは嬉しい。
が、なぜか、場に笑いが満ちていく。ヴラドからしてみれば、ほほえましい光景だ。微笑みをたたえるだけなのだが、なぜかゾエにげらげらと失笑されて、やっぱりカミラは腹が立つ。文句を言ってやろうと思った瞬間、ズキリと体が痛んだ。
言葉にならない激痛に、カミラはうずくまった。また、これだ。
何故かわからないが、カミラはヴラドがそばにいないと、眠たくなる。特にヴラドが帝国の領地の外へ、帝国に仇なす竜人たちを討伐しに行くたびに、彼は眠りにつくのだ。そして彼らの遠征が終わると目が覚める。体中に知らない傷と痛みを残して。
痛いと思ったのち、それは激しさを増して身体を襲った。のたうち回りたい激痛が脇腹を襲う、背中はじくじくと焼けるような痛み。自身の体をぎゅっとにぎりしめたカミラの手がぬるりとした何かに触れた。――血だ。あわてて服をめくって自身の腹を見た。そこには真っ赤に染まった包帯がまかれていた。いつの間にこんな怪我をしていたのだろう。
「出血している。手当を」
ヴラドが指示を出す。すぐさまヴィクターとコナンが飛び出して行った。看護の者を呼びに行ったに違いない。
「大丈夫か、カミラ」
ヴラドの手が伸びてくる。思わず、ひっと身構えてしまうカミラだったが、その手は汗に張り付いた前髪をそっとなでただけだった。
「あ、え……?」
どうして――? 最愛といってもいいヴラドの手を、いま、一瞬、怖いと感じた。何故?
何故といえば、この痛みだ。一体、どうしてこんなにも身体の節々が痛いんだろう。うう、気分が悪い。ぐっと腹の奥から何かがのぼってくる。ぐらぐらと頭の奥が、体中が、何かおかしい、違和感をずっと叫んでいる。
「カミラ、落ち着いて、カミラ」
声、ヴラドの声だ。低く鼓膜をゆさぶる。
「ヴラドさん、なんかおれ、また……」
差し出された腕に縋りついたとき、のぼってきた違和感が、大きく音をたてて、喉を逆流した。吐き出した異物がヴラドの手を汚した。
「ヴラドさん、ご、ごめんなさい、おれっ……!」
大切な、この世で一番大切なひとを吐瀉物で怪我してしまった。そのことに必死になって、ヴラドにしがみつく。殴られたってかまわない。どうか許してほしい。
「大丈夫だ、カミラ。吐きたければ何度も吐けばいい。お前が無事であることのほうが、俺には大切だ」
気がついたらヴラドの匂いが濃くなっていた。甘い花のような香りがまずしてそこからヴラドの体臭が微かに。抱きしめられていた安堵感に、痛みとともに意識が遠のく。抱きあげられてベッドに戻された。やわらかな寝床に寝かされて、ヴラドの手を掴んだ。
「大丈夫、俺はきみのそばにいるよ、ずっと」
ああ、ヴラドさんだ。彼の名前を口にするとカミラは再び眠りの世界に落ちていった。
年はもう十三になる――といっても正確な年齢はわからない。拾い子のカミラにとって、だいたいこのくらいだろうという推定値にすぎない。
それでも成長期であることは確かで、背丈も随分のびた。三雛子の誰よりも大きく伸びたのだが、それでも、長身のヴラドに届かぬどころか、コナンやヴィクターでさえ腰や胸の下あたりで見上げなくてはならない。しかも垂れさがる藤の細枝のようなカミラと彼らでは体格が月とすっぽんだ。ヴラドでなくても、彼にかかれば簡単に抱き上げられてしまう。
全てにおいて彼に届かない。いつかは彼が慈しみ育んでくれたぶんを返したい、彼の役に立ちたいと思うのだが。
「傷の治りがだいぶ遅くなった。いくらトカゲ不足といえど、これ以上、彼に仕事をさせたくない」
ヴラドの声だ。どこに――? 彼の気配をたどろうと必死になる。なのに、体が重い。動かない。ゾエの声も、マリアの声も聞こえてきた。ああ、そうだ、ヴラドさんたちが遠征から帰還してきて、それから――。
「そうか、そうだな。……マリア、現場での動きはどうだったかね」
「はい、同行している最中、異常があるようには思えませんでした」
「そうか……だが、やはり連戦はきついな。術が溶けかかっている。もう一度、強固に術をかけ直しておいたほうがいいな。ほどけかかっている応急処置だけはしておこうかな、マリア、呪紙を」
何を話しているのだろう。ぼんやりとした頭で考えようとして、急にもやがかかった。不安になる。夢のなかでも、カミラはヴラドを探している。真っ暗の闇の中、どんなに黒く冷たい闇よりも、温かく凛として光る黒い――。
.街へ
誕生日に何かプレゼントを贈りたい。ヴラドに街に出ていいか尋ねる。カミラはヴラドに恋に似た感情を持っている。体が変になってヴラドにしずめてもらう。ヴラドから香水の香り。許可を貰えてよろこぶカミラ。
商店街をうろつくカミラ。だがヴラドに何を贈ればいいのかわからない。うろうろとあるく途中、変な臭いをかぎ分ける。異質な、変な感じ。そういえば、なんだか今日は兵士の匂いが強い。――と、カミラを尾行していたヴラドの配下に出会う。変な臭いがすることを報告するカミラ。
ついにその正体に迫る。尾行、おいつかない。その先に、薔薇園、竜人がいた。
.竜の子
初めてみる竜人にびびりたおすカミラ。だが、竜の子はカミラに近寄ってくる。彼とのふれあい。薔薇園の女性。たわむれるカミラ。
どうやらここは孤児園だそう。屋敷の主ひとりが切り盛りしてる。ヴラドの過去を知るカミラ。
竜の子と触れ合っている最中、ミサンガにかけられた呪いを示唆。
ヴラドの配下が薔薇園にやってくる。カミラをいないと答える女性。カミラ、竜の子と逃げる。竜の子が門の外に出られるように、自身の通行許可書を渡す。
配下の兵士。くそ、あのへっぽこ魔術師め、と毒づく。ヴラドすぐそばにいた。「そんなことないよ」「カミラ自身を壊さずによく縛ってくれている」
.悪夢
母親を殺される夢を見る。ヴラドの手がのびてくる。
起きたらいつもの館。大好きなヴラドがいる。また街に行きたいというカミラ。どこで何をやっているんだい、と尋ねるヴラド。秘密。
.街でお手伝いをしておこずかいをつくることにしたカミラ。するとすぐ近くで暴動が。あの竜の子がひとにとらえられていた。地下牢へと運ばれる竜の子を見て、心臓がざわめく。
.帰宅後、すぐさまヴラドに竜の子の話を。だがヴラドにはぐらかされる。発情してヴラドの腕をぬらすカミラ。どうして――?
.ヴラド過去回
戦争に負けた異民族の子として、地下街で過ごしていたヴラド。薔薇園に保護されて、立派な騎士になる。そこに舞い降りた仕事が、「花の子」を育てること。
カミラの自由意志を尊重しながら、殺りく兵器を育てなくてはならないことに葛藤しながら、彼はカミラとともに、生きて来た。
だが、先ほどのことでカミラが自分に恋心を抱いていることに気がつき、罪悪感から、魔術師ゾエのもとへ。
ゾエは捕えたばかりの竜の子を利用できるかみださめに来ていた。
ゾエはカミラを洗脳した魔術師。最初からもっと強く洗脳をほどこしておけば、と後悔するヴラドに、洗脳の教化を約束。すぐさま、その儀式にとりかかる約束をする。
それを聞いた竜の子は、術をやぶって転身。ドラゴンの姿で街中に逃亡。
.カミラVS少年竜
街に逃げた竜の被害をおさえるため討伐の命がくだった。カミラを寝かせようとするヴラド。カミラは戦闘の最中、術をやぶって自我をとりもどす。術の返しでゾエの三雛子が即死。ゾエは失明する。
術が効かなくなってしまったカミラ。ヴラドに少年竜を殺せと命じられるが殺せない。人間体に戻ったカミラ。そんななか、少年竜が最後の力を振り絞ってそのまま死亡する。
カミラをかばって大けがをしたヴラド。カミラの腕のなかで、カミラと対決する。ヴラドがカミラの母を殺した張本人。
ヴラドを殺せないカミラ。ヴラドと決別する。
.epilogue 十月一日
ああ、生きているのか。
ヴラドはただ面白味もなにもない天井をながめていた。全身にぐるぐると巻かれた包帯。そうでなくても、どこをどう穢しているのか、わからなくなるくらい、全身がぼろぼろな状態で、することといえば、周囲の音をうかがうだとか、つまらない天井とにらめっこするくらいのことしかできない。
一命をとりとめたものの、この様子ではもう役立たずだ。兵士として働けなくなった今、ヴラドに残ったのはかつて鬼人と呼ばれた武者の慣れ果てた体だけだ。それでも、つけられたあだ名だけはついてくる。現役をしりぞいたのち、新兵を育てる側へ回れとくだされた処分に、こみあげてくるはずの笑いを表に出す体力すら残っていなかった。
このまま順調に回復に向かっていけば、とりあえず、何かにつかまりながらなら立ち上がることもできると思う。だが、うしなったものは帰ってこない。この右目と同じだ。一度、光を失ったら、もう二度と――。
来客の足音に、ヴラドを左目の眼球を動かして対応した。彼だった。
「様子はどうだ?」
「それはこちらの台詞だ」
「ああ、いい気分だよ。ようやくお前の気持がわかったような気がする」
しわがれた声が、けっけと獣のような笑い声をあげてヴラドに近づいてきた。だがその体はおぼつかない。近くに生き残ったシーナが控えて、彼の体を支えていたが、彼女の顔色は悪く、薄気味悪いくらい白かった。
「めしいになると逆に見えてくるものがあるな」
ゾエは、自嘲するように笑った。かつて、日々綺麗な花を挿していた髪には、何もにない。枯れた葉一枚すらなにもない。
シーナに導かれて、ヴラドのベッドの脇の椅子に座るとゾエは聞かれてもいないのに、ゾエは話し始めた。
「今朝、ローゼが逝った。内臓を持っていかれたからな。ようやく逝ったよ」
シーナが俯いた。唇に前歯がつきささる。重苦しい空気を乱したのは、赤ん坊の泣き声だった。キーンと耳が痛むくらい勢いよく泣き出したそれに、ヴラドはびっくりして飛び起きようとしたが、体がいうことをきかなかった。
「な、なんだその子は!」
シーナの胸にくくりつけられている色素の薄い髪の子どもに、ヴラドはぎょっとした。
「マリアもローゼも死んだ。新しい雛子が必要になった。どこもかしもこ、雛子不足だな、呪われている」
「まだ続けるのか」
ヴラドは聞いた。
「どうせならこの肉体ごと全部持って行ってもらいたいものだった。そうしたら、そこで終わりになった」
「カミラは……ああ、いや、もう別の名になったか」
ゾエは何も答えなかった。それが答えだろう。名前は与えられた存在を規定する。新しい名前を与え新しく儀式を行い、彼をしばりなおしたのだろう。
「そろそろ行こう。こんな死にぞこないと話をしていても、つまらぬな。シーナ」
名を呼ばれて、少女は、ヴラドの胸の上にそれをそっとおいた。ぱさりと小さな乾いた音とともに、ヴラドに不時着したそれは、ふわっと微かに植物の香りを漂わせていた。
「見舞いにお土産、ありがとう。シーナ、ゾエをよろしく頼む」
そばかすの少女は、すこし迷ったよう動作を止めたが、そっと唇を開いて白い歯を見せて音もなく笑った。
「シーナ、行くぞ」
主の命に従って、シーナは弱った主の体を支えた。その胸の前で、子どもが泣きじゃくる。よしよし、とシーナのあやす声が、つんざくような生命の叫びにまぎれて聞こえる。よしよし、いい子、いい子だから。
再び、音を失った部屋のなかにひとり残されたヴラドは、彼女がおいていった土産に手を伸ばした。簡素な花束だったが、懐かしい香りがした。三輪の薔薇、それも、一輪は枯れかけている。それでも、いいと思った。薄い花弁が鮮やかな色をしている。
はやく水に浸してやらなくては、と思った。だから根本で、花にくくりついていた呪紙に気がつかずにそれを破ってしまった。ぎょっとして慌てたが、遅かった。ヴラドに襲い掛かってきたのはあるイメージだった。
*カミラは目を醒ます。大好きな主人がそこにいる。カミラは捕えられ、より強固な術で洗脳されていた。
それでもなぜか、街に出る。どうしても、花束が欲しいとねだる。どうしてそれがほしいのかわからない。
遠くで主人が呼ぶ。あわてて走るカミラ。手から花束がおちる。そのまま、主人とともに、自分の帰るべき場所へかえっていくカミラ。
ああ、そうか。これは、あの子が――。
ヴラドは思わず両の瞳を押さえた。もう使い物にならないのに、その眼球の奥がじくりと熱く痛んだ。抑えても痛みはとれなかった。もうどうすることもできない。手は宙をまって、どこにたちよればいいのか、与えられた場所を探してさまよった。胸の上の花を撫でる。ふわりと花弁を揺らす。抱きしめられて困惑しているように。
思えば本当に、ばかなやつだった。あんなのと関わりあいにならなければ、この人生、きっともう少しはましだったに違いない。ヴラドは、翡翠色の小さな、それを思った。乾いた唇から漏れ出たのは、小さな彼への文句だった。
「ばかな、やつだな。もう誕生日は過ぎてしまったよ。カミラ、十月一日では遅すぎる」
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