~'22

大事なお知らせ
※えっちいです。まじで。
苦手なかたは見ないでくださいな。



膝小僧を擦りむいて

「さあ!! 始まりました!! 今週も体育系バトル☆《スター》!! 出場者の登場です!!」
 会場に一斉に響き渡る歓声。スタジオには一般のお客さんが入っている。舞台やドラマの撮影ではない光景。俳優をしている新崎《にいざき》迅人《はやと》も緊張に心臓がばくばくと鳴りだす。
「新崎くん、今から緊張していちゃだめだよ。勝負はまだ始まっちゃいないのに」
 隣に並んでいた先輩俳の酒田《さかた》耕一《こういち》が小声で話しかけてくる。そうだ、俺はここに何をしに来たのか。俺はお客さんではない。俳優《ヤクシャ》だ。新崎はぱちんと自身の頬を叩いた。




 数日前。
「新崎さん。次、TV局からバラエティ番組の出演の仕事、大丈夫ですか?」
「え、あ、はいっ」
「今撮っているドラマの宣伝も兼ねて決まった話なので、しっかりお願いします。日程は……」
 自宅。新崎にかかってきた電話の相手はマネージャーの伊東《いとう》だった。新崎は慌てて手帳を手に取る。伊東に言われた日時をしっかりと書きこむ。夏クールに放送するドラマの撮影が終わったばかりである。それでも、次に控えている医療ドラマの患者役の仕事と、連続刑事ドラマの被害者役での出演が既に決まっており、彼の黒皮のカバーをかけた手帳にはすでにびっしりと予定が書きこまれていた。
「あ、それと。近々、大きなオーディションがありますので」
「えっ」
「あとで詳しいこと、お伝えしますね」
 やけに弾んでいるマネージャーの口調に、新崎は小さな胸騒ぎを感じた。けれど。
「はい! よろしくお願いします!!」
「こちらこそ。これから、売り時です!! 忙しくなります!!」
「はい、少しでもこの業界で生き残れるように、全力を尽くし……え?」
「え、どうかしましたか?」
「あの……えっと……」
 日程をメモし終えた新崎は大きく目を見いていた。思わず普段通りにすらりと流してしまっていたが、そのバラエティ番組は―ー。
「さっき、体育系バトル☆《スター》っておっしゃいましたか?」
 新崎は伊東に聞き返した。


 ――体育系バトル☆《スター》。
 その名の通り、出演者が体を張るバラエティ番組だ。
 その技を極めたスポーツ選手相手にタレントやお笑い芸人が挑戦を挑むという趣旨の企画に新崎は出演することに決まった。
 夏クールのラブコメディドラマ『殺し屋さんのラブバトル』の番組宣伝も兼ねての出演とのことだ。
 ヒロインは凄腕の殺し屋。そんな彼女の次の依頼《ターゲット》は田舎でひとり暮らしをしている男。彼を殺すために送り出された彼女だったが、そのターゲットの純朴さに惚れて次第に恋に落ちていくというもの。
 新崎はこのドラマで、ヒロインに殺人技術を教育された後輩殺し屋《キラー》の青年役を演じた。作中でアクション・シーンもあり、持ち前の運動能力で乗り切った現場は今でもいい思い出だ。
 そんな新崎だからこそ、このオファーが来たのだろう。
 そして、もうひとり。新崎と一緒に出演することになったのが、ヒロインのターゲットであり、終盤に組織の元裏ボスで勝手に組織を脱走した男と判明することになる男を演じた先輩俳優・酒田耕一。
 彼もマスクは甘いが、スタントなしにバリバリの演技を見せた実力派である。
 作中で、恋に落ちたヒロインを巡ってふたりの熾烈な戦いのシーンがあった。
 ふたりの起用は、美しい男ふたりが命をしのぎあって戦うという絵を描いたドラマのウリのひとつを前面に出したいというのもあるのかもしれない。
 何せ、新崎も酒田もクール・ビューティな二枚目としてのイメージを前面に出して売り出している俳優である。男の美しさと逞しさ。そして優雅さ。それを事務所も世間も求めているのだ。
 だからこそ、新崎にとって、役ではなく自分の体《てい》でぶつかっていかなくてはならないバラエティの主演は少し苦手なのだ。
「はい。あれ? 新崎さん的にNGでした?」
「あっ、いえ!! 全然!! むしろ、仕事を得られてうれしいです!!」
 いつ、なくなるか、わからない。ただ台本持って役を演じていれば生き残れるような部類と己は違う。
 とにかく世間を味方につける。ファンを作って、俳優・新崎迅人でなくてはならないと製作者側に思わせられるような存在にならないといけない。
 見た目の良さだけで勝ち上がれるような甘い世界じゃない。見た目がいいのなら、若い人材が雨後の筍のように次から次へと出てくる。そんな中で役者という仕事にかじりついていくためになら、どんな仕事も選ぶべきじゃない。
 与えられたチャンスには貪欲にかじりつけ。そこで存在をアピールしろ。誰よりも目立て。
 前に進め!


「なら、良かった。……バラエティは嫌って言われたらどうしようと思った」
「え?」
「あ、ああ。じゃあ、えっと、他に聞きたいこと、あったら後でにしてくれる?」
「あ、はい」
「それじゃあね」
 ぷつんと切れた通話の余韻。
 あれはいったいどういう意味だ、と新崎は立ち尽くす。
 バラエティは嫌となったら……つまりは、そういうことか。
 自分であれほど貪欲にやってやると心に決めていたが、目の前に現実がひょっこりと現れた途端に少し、心に傷がつく。それほどにも弱い心《メンタル》でこの仕事を選んだのか、と自分で自分をあざ笑いたくなるくらいに。
「まあ、そうだよなぁ」
 自分で自分を見ても、半分タレント化しているのは、わかる。ドラマの仕事だけをしているわけではない。それに役をもらえているのだって、自分の演技が認められているというのもあるかもしれない。だが、それだけではないのだ。
「華になればいい。とにかく一時だけでも、顔が売れるんだから」
 口に出してみる。それで、余計に落ち着かなくなる。
「あー、くそ」
 新崎は、ばたりとベッドに倒れ込んだ。
 どうしようもない不安感。
 それは将来に向けて、現在《いま》に向けて照射される。このままでいいのか。このままで――。
 食えなくなる危機感は常にあったほうがいい。上に行くための向上心も必要だ。役を得るための飢餓感だって。
 けれど、これは、たぶん、つらいことなのだ。
 前を向いて、ただそれだけを目指して果てしない道をひとりゆくということが。
 そういうのを自然にこなせてしまう一握りの存在と、自分の間にある大きな溝はきっとここにある。
 ひとりになれば不安が襲う。答えがない。自分の選択一つ一つで決まる世界。
 どうやってやっていくのかも、どうやって生きていくのかも、みんなグレーのグラデーションの中からひとつを選んで、つまりはそれ以外の選択肢のすべてを捨てて、そうでなくては進めない世界。
 前に行きたいのには理由がある。上を目指したいのにも。
 だからこそ、怖い。
 登っている坂の途中で、転がり落ちてしまうことが。もう二度と登れなくなってしまうことが。




「はい、いいよーっ。新崎くん、酒田くん、もっと柚子川《ゆずかわ》ちゃんに寄ってーっ!」
 今日は週刊映像の撮影でカメラマンを前に主演のふたりに挟まれてポーズを撮っていた。何度もたかれるフラッシュの光にくらくらする。けれど、そんな不快感を表に出すわけにはいかない。
 若く朗らかそうで実は心の奥に誰にものぞかせない毒をはらんだ青年になりきる。もううっすらと微笑みを浮かべて、主役の肩に手を置く彼に――この女は誰にも渡さないという思いを秘めた若い隠れた情熱になりきる。
「はい、オーケイです! いったん休憩!」
 その合図にほっと息が漏れる。新崎は新崎に戻った。女優の肩から手を離す。ほっとする。今まで床の上にいたのにまるで実感がなかた。けれど、ようやく地面が戻ってきたみたいに安堵して、全身の力を抜いた。
「新崎くんて真面目よね」
「えっ!?」
 急に主演女優の柚子川に声をかけられてドキリとした。彼女とは共演がきっかけでそれなりに世間話はしている。けれど、妖艶な美女の風格と若いフレッシュなイメージを二十代前半ながらに持ち合わせている稀有な女優である。正直、新崎は彼女を目の前に何度も緊張している。
「あー、わかる」
 柚子川の隣にいた酒田もなぜか深くうなづく。
「今日の撮影でもガチガチ。そんなに緊張しなくていいのに」
「えっ」
「そーだぞ、そーだぞ。柚子たんのいうとおり」
「役に入るとなんとかなるけれど、それまでが固すぎて……もっと力抜いていいのよ」
 ガツンと後頭部を殴られたような衝撃。
 なんとなく自覚もあった。新人といえど、ド新人ではない。もうそろそろ現場慣れしてくれということか。
「もー、ほら、眉間にしわ寄ってる! 真剣になりすぎるのもどうかと思う! あ、マネージャー、あたしに水!」
 スタッフがセットを変えている間、バックのパイプ椅子で待機する。柚子川はふっと新崎から視線を外した。
 並んで三つある椅子の端に彼女が座ると彼女のマネージャーであろう長い髪を一つにまとめた女性が走ってきて彼女にボトルを渡した。
「まー、気楽にいきましょってことでしょ」
「酒田さん……」
 新崎も、真ん中に座った酒田の隣に座る。
「気を張りすぎ。そういう真面目なところ、嫌いじゃないけれど、今日はやけにガチガチ。そーや、モデルの仕事、してなかった? こういうのは経験あるだろ?」
「ええ、まあ。役演じるよりそういうののほうが多くて」
 酒田が眉根をひそめた。
「じゃあ、慣れてんだろ。ゆったり構えりゃいいじゃん」
「あ……はい」
 恥ずかしい。
 今ので自分を酒田に見通された。そのことに気が付いて、新崎は俯いた。
「じゃ、再開します!! 三人とも、よろしく!! 次はもっと妖艶な感じで~」
「はーい。わかりましたぁ」
 柚子川が声を上げて立ち上がった。新崎も、負けてはいられなかった。


 やらなくてはならないことは、明確だ。
 自分に与えられたひとつひとつの仕事に向き合うこと。そのひとつひとつに応えること。また新崎迅人に任せたいと思わせること。新崎迅人ではなくてはだめと思わせること。ひとつひとつに結果を残すこと。次につなげること。
「そして、かっこよく決めること!」
 大丈夫。
 何度も自分の胸にそう言い聞かせた。
 平気。きっと、大丈夫だから。
 求められている自分の像も理解している。製作者がどういう絵が欲しいのかも、ちゃんとわかっているつもりだ。だから、大丈夫。やるべきことを全力でやるだけ。よそ見するな。
 使いにくい役者だと思わせるな。
 常に、気を張れ。
 新崎は前に出た。



 そして、控えていた体育系バトル☆《スター》の収録も終わった。カメラのない場所へと抜けた途端、新崎はその場に倒れ込んだ。慌てて伊東が走ってくる。控室でしばらく横になって、その間、ずっと酒田も傍にいた。
「大丈夫? 新崎くん」
「ええ……まあ」
「あのさー、ほんと肩の力、抜けないとまいっちゃうよ」
「え?」
「今日も始まる前からガチガチだったじゃん。それってさ、やっぱ例のオーディションの話、聞いたから?」
 例のオーディション?
 そんな話は知らない。……いや、そういえば、オーディションがどうと前に伊東が口にしていたことを思い出した。
 横になっている新崎は視線だけ伊東に向けた。マネージャーは困ったように苦笑した。
「え、まだ伝えてなかったの?」
 そんな伊東に坂田が少し驚いたように尋ねた。
「何ですか? そのオーディションって!!」
 気になって新崎は起き上がる。伊東はたじろいだ。そんなに言いにくい話なのか。
「マネージャーさん。ちょっと、席外してくれる?」
 酒田が間に入ってきた。
「少しさ、同業者《ヤクシャ》同士で話したいこと、あるから。大丈夫。俺の次の仕事、今日はないし。それにこいつは事務所が同じってだけの後輩じゃない。このバカが大事なのは、俺もあんたと一緒だから。ね?」
 さすが酒田である。伊東は何かを言おうと口を開きかけたが、つぐんだ。
「わかりました」
 彼は素直に控室を出ていった。残ったのは新崎と酒田、ふたりだった。


「なあ、新崎」
 いつもより酒田の声のトーンは低くその底に真剣な響きを持っていた。新崎は思わずごくりと生唾を飲んだ。どんな話がきりだされるのだろうか。じっと、酒田の次の句を待った。
「あのさ。男同士ってどうなの?」
 だが、その次の句とやらは、新崎の想像を斜め上にいくような質問だった。
「あ、いや。別に非難しているわけじゃなくてさ。当人が好きなひとといられるのなら、それ以上幸せなことはないんだけど」
「……はい?」
「実はさぁ……俺の弟に恋人、いるんだけど、男だったっていうかさぁ」
 歯切れが悪くなった。もしかして、と新崎の頭に千尋との関係が浮かぶ。もしかして、彼にばれてしまったのか。急にさーっと全身が冷たくなる。
「それって……言いたいこと、はっきり言ってください!!」
「じゃあ、わかったよ!! 兄弟に男の恋人、紹介されたとき、どういうふうにふるまえば、相手を傷つけずに済むかな!?」
「はい!?」
 だから、斜め上だった。
「俺は耕成《こうせい》……弟の幸せを願っているんだよ!! ほんとに!! 心から!! でもさ、やっぱ、なんつーか、俺ってこんな仕事してんじゃん!! 変なひがみっていうの? 妬みっていうの? どんなに仲良くても、なんかそういうのがあるじゃん! つか、あるのね」
「え、えーっと……その、いったん、クールダウンしましょうよ」
「できるかよ!! まじ死活問題!! 俺、弟に全面的に嫌われたら軽く死ぬ!!」
「あ、あー、はい」
「どうせ新崎、お前、ひとりっこだろ!!」
「え、なんでそれを……」
「雑誌のインタビューで答えてた!!」
「……そうですか」
「あー、ちくしょー。こんなの、お前くらいにしか話せねえっての!! 外にこの話ばらしたら、お前もばらすからな」
「それはいやです」
「だから、これは脅迫だっての」
「酒田さんって脅迫できるんですね。あ、役でもしてましたね」
「呑気なこと、言ってんじゃねえ!! 俺は恋人紹介しに来た弟を泣かせて帰してしまったんだ!! もう……無理」
「……酒田さんってひとの覚悟とかに敏感ですよね」
「は?」
「たぶん、その弟さん、相当な覚悟でお兄さんのとこ、来たってわかっているから、悔しいんですよね」
「……あのさあ、新崎くんにお兄さんって言われるの、きもい」
「そこですか!?」
「でさ、そういうとき、どういうふうに対応するのが正解だったわけ?」
「どういうふうに対応したんですか?」
「……ふつーに」
「あなたの普通がわかりません」
「ふつーったらふつーだよ。相手、男だから特別みてーなこたぁねえだろ!?」
「あ……」
 そうだ。
 そりゃそうだ。
 性別がどうとかで、特段騒ぎ立てる理由なんて、どこにもない。そんな当たり前なことを――。
「今度、弟さんと食事でも行ってきたらどうですか?」
「は? 俺に死ねっていいたいのか?」
「酒田兄弟がどういう兄弟なのか、俺、知らないんでよくわからないですけれど、ひとと距離を近づけるには、やっぱりひとと距離を近づけることをするしかないと思うので」


「お前なあ……」
 酒田はひとつため息をついた。
「至極まっとう」
 確かに。
 と、いうか。
 それ以外に、歩める道を新崎は知らない。
「たっく、こういうやつなんだな。お前」
「え、あ、はい?」
「あのさ、千尋崇彦がTV《テレビ》ドラマやんの知ってる?」
「は、はい!?」
「その様子じゃ知らなかったんだな。あー、で、そのドラマの主役争奪オーディションが六月」
「そそそそそそそんなのって」
「動揺しすぎ」
 新崎の震えに酒田は、ふっと軽く笑った。
「まー、伊東さんも、お前が千尋さんのえげつないファンだって知っているから、頑張りすぎちゃわないように言い出せなかったんだろうけれどな」
「え?」
「お前さ。頑張らないと俳優《この仕事》、できないわけ?」
 どういう意味だ。
「頑張ってやるのってさ、途中で頑張れなくなったら、それができなくなるってことだ。わかるか?」
「え、えっと……」
「持続可能ってのを目指せよ。お前は伸びしろある。次がある。未来がある。だからさー、つまんないところでへばって欲しくない。頑張らないでほしい」
 そのことばが欲しかったのだ。今、目の前に与えられて、そのふいうちに、目の奥が熱くなる。
「酒田さんの言っていることの半分、意味不明ですけど」
「えー」
「俺って俳優向いていますかね」
 言っちゃいけないことばだ。俳優目指して、俳優をやっている人間が口にしてはならない。
 けれど、どうしても、欲しかった。
「は? キモ」
 酒田はわかりやすい人間だった。
「そんなこと、ひとに聞くなよ。お前、役者だろ? 役者には自分の体しかない。自分の身一つで成り上がろうってやつが言えたことじゃねぇよ、うーわ、キッモォ」
 うげえと顔をしかめる酒田に新崎は吹き出して笑った。
「それ、その顔。カメラの前でやっちゃだめですよ。かっこいいってイメージ崩れる」
「ほら、そういうところだよ」
「え?」
「そーいう、どうやって売り出してぐかってのは事務所の仕事。お前、役やってないときも、新崎迅人っていう役やってんのかよ。余計に気持ち悪い」
「え……」
「俺も二枚目扱いされてるけど、かっこよかないよ。頭の中なんて最愛の弟にどうやったら好かれるかってそれだけだし。すっげえ目もあてられないほど、寝相悪いし」
「あ、それは撮影でしっています」
「だろ? 俺の寝相が悪いせいで、子どものころから夢だった弟と一緒の布団で寝るって夢をだな、俺は……」
「どんな夢ですか!」
「いいじゃんか、兄にとって弟は奇跡だ! 宝物だ!」
「……ブラコン?」
「うるせ、この若造が!!」
「若造ですみません。でも」
 新崎は笑った。
「いずれのし上がる若造ですから」




 疲れた。けれど、それは酒田のおかげで心地いい疲労になった。
 スキップで玄関までたどり着く。独り身でも少し狭いアパートに住んでいるのはほとんど外に出ているからだ。仕事かレッスン。そんな生活をしているせいで、プライベートな空間は結構散らかっていたりする。
 そういえば、前に千尋さんが、可愛いエプロン姿で、ご飯を作ってくれていたこともあったなぁなんて、心の奥にストックしてある新崎の千尋メモリーを思い出したりする。
 あの日、仕事で疲れて帰ってきて、玄関開けたら千尋さんがいた。あんな奇跡みたいな幸せなことってないだろう。その後、少しは恋人らしいいい感じの雰囲気になって――最終的にはすこし失敗してしまったが、それでも千尋さんの肌に触れることができたのは、本当に幸せなことだった。
 なんてことを考えていたら、顔がにやけてしまう。
 そうだ。新崎は気が付いた。
 自分にはいつだって千尋さんがいたんだ。彼のことを思い出すだけで、勝手に元気になるのだから。
 新崎はドアノブに手をかけた。それは鍵を開錠しなくとも、開いた。
「え?」
 もしかして、朝、出る前に閉め忘れたのか? それとも、空き巣――? 脳裏に嫌な想像が走る。しかし、それは次の瞬間、打ち砕かれた。
「おかえりなさい」
 自分の部屋から現れたのは、最愛のひと。
「千尋さんっ!!」
 新崎は靴を脱ぎ捨てると彼のもとに駆け寄った。
「千尋さん!! いらしていたんですね!!」
「もう……なんだっていつもきみはそんなに大げさなんだ? まるでしっぽ振って走ってくる子犬じゃないか」
「はい、犬です。もう俺は千尋さんの犬になります」
「はあはあしてないで、お靴綺麗にしていらっしゃい」
「はい!」
 自分がとことんダメな男になりさがっていることに新崎はまだ気が付いていない。
「千尋さん、千尋さん」
「何? ご飯にする? お風呂も沸いてるけれど」
「千尋さん!」
「はいはい。そうですね。どうせ、きみはぼくが一番ですもんね」
「どうしてわかったんですか?」
「前にも、ご飯よりお風呂より千尋さんって言われました」
「……覚えていてくれたんですか」
「ほら、何ひとりでぼーっとして! ご飯、温めるから、食べて! ね?」
「はわ~、幸せだ。もう俺、死んでもいい」
「よくないよくない。さ、生き延びるためにご飯にしようね」




 千尋の可愛いところの一つは、エプロンのチョイスが可愛いところにある。前にも彼のエプロン姿に萌えていたが、何度見てもいい。いいものはいい。ずっと眺めていたい。
「新崎くん」
「なんですか、千尋さん」
「さっきからじろじろと見られている気がしてならないんだけど」
「そりゃ見てますから」
「……きみねぇ」
「いいじゃないですか。千尋さん」
「まあ、はい。これ」
「え……」
 テーブルに並んでいるのは、酢豚だ。そう、どう見ても、酢豚、白米、わかめと豆腐の味噌汁。
「ち、千尋さん」
 目の前の信じられない光景に新崎の声が震える。
「あの、その、実は」
 千尋が話を切り出した。
「お料理教室に通いだして……その、お料理をお勉強しています」
 お勉強しています、お勉強しています、お勉強しています。新崎の頭の中にそのことばがリフレインしていく。
「えっと、前、恥ずかしかったし」
「え? 何がですか」
「ほら、前もきみの帰りを待ってご飯作ったことがあっただろう? そのとき、ルゥを溶かしただけカレーだったから」
「いや、溶かしただけって! あのときは本当に嬉しかったですよ」
「でも、ぼくの作ったカレーよりぼくが欲しかったんだろう?」
 うっとことばに詰まる。千尋は妙に天然な性格だ。わかっていない。彼は何気ないひとことを発しただけなのかもしれないが、それを新崎がどうとるのか。どんなに己に魅力があって、その魅力に惹かれた男がどう思うのか。
「……先生、ダメ」
「え?」
「それ、反則。あー、もうダメ。俺、死ねる」
「いや、だから。その……え!?」
 新崎はテーブルに身を乗り出して、千尋の唇を奪った。ちゅっと音を立てて、すぐに離れるような触れ合い。それだけでも、効果は充分だと知っていた。
「なっ、何を!!」
 こんなキスでも、真っ赤になる千尋が可愛くて仕方がない。新崎は我慢できなくなって、ねだった。
「千尋さん……をください」
「は!?」
「もう、俺、あなたが欲しくて仕方ない」
「そりゃいつも物欲しそうな顔してるからね、きみは」
「それは、先生を前にしたときだけだよ。ねえ、お願い」
「そ、それは……」
 千尋は言いよどんだ。新崎は次のことばを待つ。そんな時間すら愛おしくてしかたがない。
「その、よ、夜のお誘いってことで……いいのかな」
 ああ! だめだ!
「に、新崎くんっ!?」
 突然、悶絶しだした新崎に千尋が慌てる。
「どうしたの? お腹痛いの?」
「ち、ちがっ」
「まさか、熱!? 顔が赤いし」
「その……タンマ」
「へ?」
「ちょ、ちょっと、トイレ行ってきます」
「あ、えっ!?」
 絶対に今のは反則である。
 自分がどんな顔《ツラ》してどんなことを言っているのか、わかっているのか、この男は!!
 新崎は出してしまった。





「本当に情けないです」
「え? あ、どうだった? 出た?」
 トイレから帰ってきた新崎に千尋が声をかける。出たとは何が出たのか。おそらく千尋の想像しているものと別のものが出た。出してはならないものが。それを出してしまった新崎はただひたすら己が情けなくなるだけのものを。
「ええ、快便でしたね。どろっどろになってました」
「ええ? どろどろなのは実は体には良くないんだよ」
「でも、溜まっていると私生活にも集中できませんし」
「ああー。便秘ってつらいよね」
 この話のかみ合わなさに新崎は感謝するしかない。
「先生も便秘するんですか?」
「するよ。締め切前とか」
 どれだけのストレスとプレッシャーがかかっているのか、新崎は知らない。ふと新崎は、そのことばから千尋の背中に背負わされているものに気が付いた。脚本があがらなければ現場は動けない。制作と原作の間を取り持ち、視聴者に喜んでもらうその一心で、ゼロからものを作るのにどれだけのエネルギーを必要とするのだろうか。
 それに千尋は兼業作家だ。それも彼はただの会社員ではない。多忙で有名なまんが編集者をしている。


「先生。無理していませんか?」
「それはこっちのセリフ。新崎くん、体調悪いなら……」
「そうじゃなくて! こんな、俺のために忙しいのに俺の家、来てくれて……!! 俺、千尋さんに迷惑かけてるのなら!!」
「……そんなことないよ」
「でもっ」
「ぼくはただきみの顔がときどき見たくなって、仕事がないときに伺いにくるだけ。前も撮影現場、見に行ったことがあったでしょう?」
「あ……」
 たったそれだけのこと。けれど、彼自身から発せられることばは力強い。新崎の心をあたためてくれる。
「ほら、ご飯、冷めちゃうよ」
「あの、千尋さん」
「なに?」
 本当は言いたくない。けれど、さすがにこの状態ではせっかく千尋が作ってくれたご飯を味わえるというのに台無しだ。新崎は力を振り絞った。
「俺、パンツが瀕死なんです」
 恥じ入って、伝える。新崎は先にお風呂に入ることになった。




「どうでしたか?」
 お風呂上りの新崎に浴室ドア越しに千尋が聞いてくる。
「いい湯加減です」
「それはよかった。新しいパンツ履いてでてきてください」
「はーい」
 新崎は転んだときに擦りむいた右足をかばいながら、浴室から出た。水にあたるだけでしみるので、お湯に入らないように右足だけ上にあげて入浴したのだ。
「いま出ました」
 千尋に言われたように洗面所の戸棚から新しい下着を出して着替える。
「パジャマ。ドアの前に用意したので!」
「あ、はい」
 リビングに戻るドアを開けるとその足元に丁寧にたたまれた新崎の寝間着がおかれていた。
「あ~、幸せ。新婚気分」
「変なこと言ってないで、出てきてください」
「ああ、そうだ。メインディッシュはこれからだぜ!!」
 新崎迅人、とことんおバカな二枚目である。





「ごちそうさまでした」
「お粗末様です」
 空になったお皿たちを前に合掌する新崎に千尋が微笑んだ。
「何かを作るって気分がいいですね」
「ええ、はい。作ってもらえるのって幸せです」
「そんなこと、言って。きみっていつも幸せって顔してるのに」
「それは千尋さんに会えるだけで幸せですから」
「そう? じゃあ、ぼくがいないときは、どんな顔してる?」
「えー。こうですかねぇ」
 新崎は、きりっと凛々しい表情を作ってみたつもりだったが、それは失敗に終わった。
「全然、変わってませんが」
「……千尋さんの前だからです」
「はいはい。じゃ、お皿、さらっと洗ってしまうので、しばらくゆっくりしていてください。あ、でも横になるのはだめですよ、新崎くん」
「牛になっちゃうからですか」
「もー」
「もーって、ちょっと千尋さん可愛すぎ……!!」
 新崎、悶絶。
「ちょっと、もう、俺、自信ないですよ。千尋さん目の前にして、一番かっこよく思われたいひと目の前にして、ぐだぐだで。こんなんでかっこいい役者やれるかなぁってぐらいで」
 あ。
 ことばに出したあとに新崎は気が付いた。
 言ってはならないことを言ってしまったことに。
「あ、あ! 今のはナシ!! ごめんなさい、情けないことを……ほんと、さっきのは忘れてくださいっ!」
「新崎くんさぁ」
「千尋さん?」
 ずいっと千尋が新崎の前に顔を出してくる。
「な、なんですか?」
「たまには、キスでもする?」
「え……」
 一気に、頬が熱を持ち出す。新崎の視線は、その前に置かれた愛する人へと注がれる。ただ凝視するだけで精いっぱいだ。
 千尋から求めてくることなんて、初めての経験。完全に彼はフリーズしたのだった。
 そんな新崎の反応に千尋は、ふっと身体を離す。
「じょーだんです」
 と、言ってみる。
 そして、新崎の反応をじっと見守った。
「俺、からなんですね、いつも」
「へ?」
「手を出すのはいつも俺からだし。でも、冗談でも、そう言ってもらえるのは、その……」
「あっ、あっ、ま、待って! ちょっと、新崎くん!?」
 しまった。千尋は新崎に触れようとした。もしかしたら、嫌だったかと思って、はぐらかすために「じょーだん」なんて言ってしまった。それが、逆だったらしい。
「あの、先程の前科が……あるので、ストップ」
 その声に千尋の手は新崎との間の空間に落ちた。
「みっともなくて、すみません……」
「あ、いや、そんなことは……」
「正直、いってください。俺って、求められてるイメージとは本当に逆で」
「いや、求めてないけど?」
 千尋の声に新崎は目を丸くした。


「あー、いや、強いていうと、新崎くんらしい新崎くんというイメージを求めてる? 感じかな?」
「え、それ……。ていうか疑問形なんですね」
「え、あ、ま、まあ。だって、まだよくわからないし」
「何がですか」
「きみが。新崎迅人なる人物のこと」
 ふっと、困ったように笑う千尋に、新崎は抱きつきたくなって、その衝動を必死に押さえ込む。
「まだ本当に知らないことばかりだ。昔に比べたらきみのこと、だいたいわかるようになってきたけど、まだぼくの知らないきみの表情があって、心情があって……」
「えええ、いやいやいや、その、それは、こ、こっちの、せり、ふ、ですからね!?」
「役者なのに随分と滑舌が」
「いやもう、無理です。千尋さんの前で役者の新崎迅人にはなれないです! 一般人の新崎はこんな駄目男なんすよ」
「あ、ああ、いや、そうじゃなくてさ。噛みまくっている新崎くん見るの新鮮だなーと思ったので」
「はぇ!?」
「いや、待って。なんできみ、そこで顔を赤くするのさ!?」
「いやいやいや、あの、千尋さんっ」
「あ、もしかして」
 ここで新崎の核心を千尋が突いた。
「プライベートのきみより二枚目イメージの俳優としての顔のほうが大事だって、思ってない?」
 新崎はどきりと心臓を弾ませた。
「いや、え? だ、だって、それは」
「あー、やっぱり? ということは、ぼくはそんなにも重荷?」
 いま、なんと言った? 新崎は千尋のことばを反芻する。
 重荷? 誰が?
「そんなわけ、ないじゃないですか!! 千尋さんは俺の目標で! ずっと追いかけていて!! 千尋さんいるから俺、頑張れるので!!」
「じゃあ、ぼくはきみの起爆剤になれているみたいだけど、爆破させすぎてる」
「そんなことは……」
「ぼくの近くにいて、緊張してる」
「……それは」
「図星を狙い撃ちしたつもりだけど?」
 新崎は負けた。
「ごもっともです」
 新崎は肩を落とした。降参。勝てる見込みなど、どこにもないけれど。
「俺のこと、見てますよね。千尋さん」
「見てるというか惚れてるから」
「っ! し、心臓、死にそうなの、俺はいま……」
「生きていてもらわないと、困っちゃうな。それから、もっと甘えてもらわないと、もっと困っちゃう」
「俺、困らせていたんですね」
「それだけ、ぼくの中で影響力のある人物だということです」
 新崎はため息をついた。
「白旗上げます。とっくに上げていたけれど」
「ふふ、それはぼくのほうかもよ」
「へ?」
 なんで、と問おうとしたとき、新崎の唇には千尋のそれがあって、そんなことばは封じられてしまった。




 翌朝。
 ベッドの上で上半身を起こした新崎は千尋の姿を探した。そんな彼を襲ったのは香ばしい香り。
「新崎くん、おはよう」
「千尋さんっ!」
 朝から眺める千尋の神々しいことこの上ない。さらに彼は朝食を準備していたらしく、その美しさに目が焦げてしまいそうな新崎。
「何そんなじっと見てくるのさ」
「千尋さんが可愛すぎ……俺はもう生きていけない……」
「はいはい、朝ごはんにしましょうね」
「どんどん俺のオカン化していく千尋さんをお嫁にしたい、むしろ、俺をお嫁さんにしてください……」
「本心ボロボロに出てるけど大丈夫?」
「昨夜が刺激的すぎて……」
「乙女だなぁ」
「そーですよ。永遠の女子高生ですから、俺」
「どのへんが?」
「メルヘンな夢を見てること」
 ふふっと千尋が笑い声を立てる。その軽やかさにつられてか新崎のお腹がきゅっと鳴った。
「ご飯にしましょうかね?」
「はい、千尋さんっ。あ、いや。少しくらいなら甘えさせてもらって」
「ん?」
「た……崇彦さん」
 千尋の下の名前。
 新崎は、そっと読んでみて、やっぱり後悔する。こっ恥ずかしくてたまらない。
「迅人くん」
「いあああ!! うおおお!!」
「朝から元気だねぇ」
「あー、駄目。俺、爆発する!! 千尋さんだめぇぇ、まだ、まだ無理です!! 下の名前は!! 耐性がついてなくて!!」
「さーて。じゃ、今日も、メルヘンな将来の夢のために、お仕事張り切ってできるように、お腹を満腹にしましょーねぇ、迅人くん」
「あー、だめぇぇ、千尋さん、だめえええぇぇぇぇ!! 心臓破裂するぅうううう!!」
 新崎は、だめだめっぷりを放出させながらダイニング・テーブルにつく。
「あ、治ったんだ」
 千尋のひとことに小首をかしげた。
「昨日、足をかばっていたからさ、何かあったのかなと、思ったんだけど」
「……めざとい」
 新崎は転んで怪我した場所を見せるようにパジャマの裾を勢い良くめくった。
「あ」
 擦りむいたその場所は、かさぶたになっていた。




「あの、伊東さん」
 テレビ局の控室にて、新崎はマネージャーを呼び止めた。
「どうしましたか?」
「真剣に聞きたいことがあって」
「はい」
「俺ってどういう人間だと思いますか?」
「ど、どうって……」
「正直に言ってしまっていいので」
「じゃ、じゃあ、素直な人、ですかねぇ」
「素直ですか?」
「真面目だし、やること、きっちりやるし……でも、少し間抜けですよね」
「え?」
「今日、靴下左右違うのを履いてきたじゃないですか」
「そっ、それは!! ほらもう、途中で履き替えたからいいんです!!」
「いや、水に流すのにはあまりにも盛大なミスなので……」
「ああ、もう、それは!! 朝から幸せすぎて、頭が馬鹿になっていたんですから!!」
「昨日の撮影でぶっ転んだのに?」
「水~! ジャージャーしてぇぇ!」
「はいはい」
 ここで新崎は話題を切り出した。
「俺、このままでもいいですかね?」
「え?」
「頑張ってかっこいい俳優、目指していたんですけど……俺、俳優・新崎迅人でもありながら、人間・新崎迅人でもあるんですよ」
「そりゃあ、役者だって人間ですから」
「二枚目路線っていうのが嫌なんじゃなくて、本当に頑張りたいことに全力を注ぎたいから、頑張らなくちゃって思っていることに対して、少し肩の力を抜きたいと思うのですが……伊東さん……どう思います?」
「ど、どうって……」
 伊東は、少し逡巡してから、それでもはっきりと伝えた。
「確かに新崎さんは二枚目プッシュして売るつもりですが、演技以外の面でギャップがすごいのでそこ込みだったんですよ?」
「は?」
「いや、確かにかっこよくしていてくださいとは何度もお願いしていましたが、素の状態ではかっこよくしていただいても、どこかに粗が出るのはもう明白だったので」
「それって……あー、もう、いいや、忘れよ。水に流して、どこまでもいってしまえ」
 傷のかさぶたが消えてなくなるころ、それも川のように流れて海にまで消え去ってしまった。

(了)

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