~'22

チョコレートのお返し、ください

?1.
 新しく入ったドラマの撮影で、A県まで来た。地方ロケが入ると、三か月はゆうに家を留守にすることになる。
 ただでさえ、仕事が不規則で忙しい想い人とは、なかなかふたり重なった休日《オフ》がとれない。それだけではなくて、ロケに出ると、距離的にも遠くなる。
 だから嫌だ、なんて思ってもいないのだが。新崎《にいざき》迅人《はやと》はひとりため息をついた。
 職業、俳優。
 そう名乗っても胸を張っていられるような仕事をしているという自負がある。
 見てくれているひとがいるからだ。それは自分のファンでもあり、視聴者でもあり、追いかけるべき業界人たちのことでもあり、そして、好きなひと。
「あーあ、今ごろ、千尋《ちひろ》さん、何やってかなぁ」
 小休憩中に地べたにそのまま置かれたパイプ椅子の上で、思わずこぼしてしまうひとりごと。
「え、誰です? それ」
 聞かれていたらしい。
 青空の下、あわただしく走るスタッフたち。次のシーンを取るための小さな待ち時間。共演の役者の耳の良さに新崎は少し驚いた。
「酒井《さかい》さん……」
「ひとりごと? 新崎くんって意外と抜けてるよね」
「いや、その……」
「誰? 大事なひと? 新崎くん、まだ独身だったよね? 彼女?」
 共演している酒井は新崎の先輩俳優で、年齢など感じさせないほど人懐っこい性格だった。そして、好奇心が旺盛。あれもこれもと首を突っ込みたがる性格らしい。
「あの、いや、そのぉ」
 新崎自身、冷や汗が出てくる。
 千尋崇彦《たかひこ》との関係は絶対に秘密だ。
 それは二枚目として仕事をしているからというだけではなく、千尋に迷惑がいってしまうからというのもある。
 彼の想い人である千尋は、普段は出版社に勤務している編集者であるが、忙しい合間を縫って脚本執筆をしているクリエイターでもある。
 彼の高校時代の友人が座長を務めている劇団に脚本を下ろしていたとき、新崎と千尋は出会った。
 最初は千尋の書く豪快で外連味《ケレンミ》の強く、それでいて人情にあふれた脚本《筋》が好きで、そんな憧れからの関係だったのだが、いつの間にか、千尋自体にも興味がわいて、気が付いたら彼のことが好きになっていた。
 どんなにアプローチしても、千尋は振り返らなかったのだが、その理由は俳優の卵と脚本家という間柄、自分の将来をダメにしてしまうのではないかという千尋の心配がさせていた。
 だから。
 ようやく自分に振り向いてくれた千尋をがっかりさせるような役者にはなっていはいけない。からなず、ビックになってやる。
 彼の目の前で大きく胸を張っていられるように。
「何しどろもどろになってんだよぉ。んもぉ、気になるなぁ」
 しかし。
 ここで、自分が誰かと付き合っているということがばれてしまってはいけない。新崎は笑ってごまかそうとした。

?2.
「おっと、新崎くんのその笑い方がでてきたということは、何か重要な意味があるということですな!」
 しかし、それは完全に逆効果だったということに気が付く。
「なっ!」
「酒井のおじさんをなめるなよぉ。こちとら俳優、人間観察が趣味! 新崎くんの笑い方の癖なんてとっくに知っているんだからな!」
 ば、ばれてる!?
「はーい、そろそろ次のシーン、行きます! 新崎くん、スタンバイお願いします」
「は、はい!」
 助け舟か。スタッフから声がかかった。新崎はそそくさと立ち上がる。そのとき。
「え……!?」
 新崎は、現場の端のほうにある人影を見つけて、唖然とした。
「どうしたの? 新崎くん?」
 立ち尽くしたままの新崎に撮影スタッフが近寄る。
「あ、いいえ。別に……」
 そう。それは絶対に気のせいに違いない。
 と、いうのも、新崎が見た気がした人影は、彼が会いたくてしかたがない人、千尋そのひとのものに見えたからだ。
 だが、千尋は東京にいるはずだ。こんな場所にいるはずがない。
 新崎はメイクを崩さないように気を付けながら、自分の頬を叩いた。
 寝ぼけているのなら、そんなもの、どこかに振り捨てて、今はただ集中する。目の前のことに! 演技に! 自分のできることに! これから自分がすること、すべて、一挙一動に全神経を注げ! 自分にしかできない演技《コト》をしろ!!



「はい、カット!」
 監督の声が高らかに春の空に響き渡った。
「オーケイです。新崎くん、少し休んで」
「は、はい!」
 新崎は再びパイプ椅子へと戻る。喉が渇いた。マネージャーが慌ててペットボトルを差し出す。ふたをあけて、口をつける。喉奥へと水を流し込んだ。その冷たい感触が食堂を通って胃へと落ちていくのを感じる。心地がいい。
「大丈夫ですか? 新崎さん」
「ああ。うん」
「今日はあと、ワンシーン撮って、終わりだそうです」
「はい、頑張ります!」
 小休憩を取ったあと、また声がかかった。
「新崎くん、スタンバイ、お願いします!」
「はい!!」
 新崎はカメラの前に立った。



「はい、お疲れさまです。今日の撮影はこれまで!」
 その一声に、新崎の全身から力が抜けた。立っていられなくなり、ふらりと地面に倒れる。
「新崎くん!?」
 近くにいた酒井が飛んできた。
「大丈夫!?」
「あ……はい。いや、あの、緊張が急に抜けちゃって」
「まったくもう。困った後輩だな」
 そう言って笑みをたたえた酒井を見て、そして、その奥にものすごい形相で佇んでいたひとを見た。
「……! 千尋さん!!」
 思わず声に出して叫んでしまう。そのひとの名を。
「え?」
 酒井が驚いて、振り返った。その先に、千尋はいた。
 そう、夢などではない。駆け寄ってきた千尋の顔面は真っ青だった。
「新崎くん!?」
 その声。まさしく千尋のものだった。
「大丈夫ですか?」
 マネージャーも飛び出してくる。新崎は恥ずかしさに頬を赤く染めて、立ち上がった。

?3.



「大丈夫?」
 マネージャーに新崎は笑みを作って答える。
「すみません。気が抜けてしまって」
「もぉ。それなら平気なのね? 新崎くんってのめり込むとこうだから」
「はい……すみません。ところで」
 新崎は彼に向かい合った。
「あの、ち、千尋さん……ですよね?」
 信じられない。
 彼を目の前にして、声が震える。
「あの、どうしてここに?」
 けれど、それは幻覚ではなくて、本人だった。
「どうしてって……いや、別に大きな理由はないんだけど。監督が知り合いだったから、すこし現場を見せてもらおうかなー的な?」
 どうしてそこで小首をかしげるのか。年上のはずの千尋があまりにも可愛らしくて、新崎は叫んで走り出したくなる衝動を必死に抑えた。
「そ、そうなんですか?」
「そうだとも!」
 すると横から監督がしゃしゃり出てくる。
「いやぁ、何年振りですかな、千尋さん」
「年もいってないでしょう。新年の挨拶で会ったばかりじゃないですか」
 本当に知り合いらしい。それも、ずいぶんと仲の良い雰囲気だ。
「彼とは、前にケータイ小説が映画化するってときに初めて会ってねぇ」
「え?」
「あ、ああ。あれか。確かぼくが担当していた先生がコミック化をした……」
「そうそう、それそれ」
 うん? 話が読めない。
 そんな新崎に気が付いて、千尋が説明する。
「ずいぶんと前だよ。とあるケータイ小説を原案に漫画化の仕事があって、ほら、ぼく、もともとは漫画編集者でしょう。担当している新人作家に依頼が来て……」
「で、その作品が映画化もしようって企画が持ち上がって俺が助監督」
「映画化の際にスタッフや制作委員会のかたたちと打ち合わせしたことがあって、そのとき、彼と知り合ったんだよ」
「何せ、ドラゴン・クイーンのTシャツ着てたからな。千尋さん、目を輝かせて俺に、『DC《ドラゴン・クイーン》好きなんですか』ってさ」
「もう、あの時はその……!」
「いいじゃん。可愛かったよ、千尋さん」
「か、可愛いって……よしてくださいっ」
「どうして? 今でも可愛いじゃないですか。ほんと、年取ってんのかな」
「取ってます! 最近腰痛がひどい中年ですよ、ぼくは!」
 千尋さん、それ自慢するように言うことなのか。と、いうより。
 新崎は少し不快に思った。いくら監督とはいえ、千尋に可愛いを連発するのは――なぜか、胸がもやもやする。
「ま、そんなわけで気が済むまで見てってくれ」
「仕事で近く寄っただけですから!」
「なんだぁ。俺の活躍を見に来てくれたんじゃないのか!」
「違います! もう、監督の性格、いじわるなんだから!」
 か、可愛い。
 口先をつんとした千尋に新崎は胸をときめかせながらも、どろどろとした重たい気持ちになった。
「あの、えーっと、そろそろ撤収しません?」
 酒田がそろーっと提案した。

?4.


 とりあえず、旅館に移動するという話になった。千尋とはそこで落ち合う約束をして、新崎は帰りのバスに乗り込む。
「あのさ」
 酒田が新崎の隣に座る。
「なんですか?」
「あのさっきの千尋って、もしかして、千尋崇彦のこと?」
 さきほどのひとりごとを聞かれていたのを思い出して、新崎は息を飲んだ。
「そういえば、お前、ドラマ・デビューしたてのころ、やたらめったら千尋さんのこと話してたよな?」
「はえ?」
「覚えてないの? インタビュー記事とか残っているから、あとで見せてやろうか。すごいぞ。何せ、好きなものを聞かれたら、千尋崇彦の脚本ですって答えているあたり。ただのオタクじゃん」
「い、いいじゃないですか。好きな脚本家がいたって」
「まー、そうなんだろうけど。憧れのひとはって聞かれたら、だいたい同じ役者の名前を挙げるだろ?」
「いますよ? 同業者《ヤクシャ》で憧れているひととかたくさん」
「ほぉ?」
「劇団ですっごいお世話になった新庄さんとか最高ですからね。千尋さんの『議会討論戦記』でジュリアスを演じているんですが、めちゃくちゃすごい行間を膨らませるのが上手で、情感豊かにジュリアスの哀愁を表現するんですよ!」
「千尋さんの『議会討論戦記』ねぇ……」
「あっ!」
「何気に千尋さんの話になってねぇか?」
「新庄さんの! 話です!」
「まあ、そういうことにしてやるか。なんかお前がかわいそうになってきたわ」
「はい!? なんでですか!?」
「まあ、よくわからないが、頑張れよ」
「え?」
「だって、まだ映像作品では出演してないじゃんか、お前」
「あ……」
 そうだ。
 まだ、千尋さんの書いた脚本でカメラの前に立ったことがない――。





「すごいね。日本家屋って感じだ。写真とっておかなくちゃ」
 ロケ隊の宿泊している旅館についた新崎は千尋と合流した。広い浴室は温泉から湯を引いているらしく、一日の疲れが癒される絶品だ。それに料理もおいしい。
「ふふ。千尋さん、それって資料あつめのためですか?」
 デジカメひとつ手にとって、旅館の廊下を歩く千尋に新崎は微笑む。なんだか可愛らしくてしかたがないのはいつものことだが、今日もまた可愛くてしかたがない。
「まーね。あと個人的な趣味」
「でも千尋さんが撮った写真って結構な頻度で指が入り込んでいますよね」
 現像した写真の隅に千尋の手がぼやけて入り込んでいるのを思い出した。それを指摘すると、むっとした表情になる。そんなささやかな変化すら愛おしい。
「いいじゃないか、もう」
「はいはい、からかいすぎました。ごめんなさい」
「うーん、許す!」
「ありがとうございますっ」
 幸せだ。
 隣に彼がいるとうだけで心が弾む。世界が輝いて見えるかのように。
 けれど。

?5.
「おーい、千尋さーん」
 監督がひょっこりと顔を出した。
「旅館のひとに聞いたらオッケーだって」
「へ? 何が?」
「夕食。食べていくだろ?」
「あ、ああ。そうか。わざわざありがとう」
「それから部屋なんだけど」
「部屋っ!? いいよ。ぼくはぼくで自分でホテルとってるし」
「どうせ、安いからってビジネス・ホテルとかカプセル・ホテルとかだろ? 足伸ばしてゆっくりしてげよ」
「いいって……」
 正直、むっとする。新崎は監督に横入りされたようで少し腹を立てた。しかし、ふたりの間にどうと割ってでることもできない。ただ黙っている。その選択。
「いいじゃん。俺の隣の部屋、もともと空き室だったっていうんでさ。布団、運び入れてもらったから、泊んな? な?」
「でも、それって……。それにぼく、撮影関係者じゃないし」
「おーわ、お堅い。そんなバキバキだから千尋さんは一皮むきたくなるんだよ」
「それはさせません!!」
 思わず、叫んでしまった。
 大声を上げた新崎に、千尋と監督の視線が突き刺さる。
「おいおい、むくったってそりゃ、本気でむきにいくわけじゃないぞ」
「あ、いや、その……すみません」
「ああ、そういうや、新崎くんって、千尋さんのファンだったんだっけ?」
「あ、えっと……」
「たしか劇団にいたころ、めちゃくちゃ付きまとわれてたって千尋さんから……」
「は、話したんですか!?」
「話されたっていうか語られた。めちゃくちゃな熱量で、今の若い子がねぇって。ほんと、千尋さんそんなに年寄りかよって感じ」
「な……」
 ガツンと後頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃だった。それが、何を意味しているのかも、新崎にはわかっていた。
 嫉妬。そして、悔しさ。
 監督が千尋と仲がいいということに嫉妬して。監督が千尋のあらゆる面のことを知っていることが悔しくて。
 だからといって、ここで泣いて叫ぶわけにもいかない。千尋が自分を選んだと自慢してやることだって――そんなことしたら破滅しかない。
「それより、食事まで時間あるし、風呂行かないかい?」
「え……でも……ぼくは」
「行きます! 俺は、監督と千尋さんと、ご一緒します!」
「新崎くん……って、ひっぱらないでよ」
 新崎は千尋の腕を引いた。
「お風呂、こっちです!」
「いや、あの、あのねぇ……」

?6.


 脱衣所に入ったとき、新崎は激しく後悔した。というのも、監督がいる。なのに、千尋はためらいもなく上着を脱ぎ棄てた。千尋のその体をほかの男に見せたくないのに、ここに連れてきたのは自分自身だ。
 今日ほど自分を憎いと思ったことはない。
「どうしたの? 新崎くん」
 急に落ち込んだから不安になったのだろう。千尋が心配そうに尋ねてくる。
「千尋さん……」
 うなだれていたが、彼のほうへと頭を上げたら――、見てしまった。
「はっ、え、あ!?」
 思わず変な声を出して、後ずさりする。まずい。そうはわかっているが、新崎はぼっと頬が爆発しそうな勢いで熱を持ち始めているのをどうしようもできなかった。
「あれ? ほっぺ赤くない? もう、まだ入ってないのに、のぼせちゃったの? きみが入りたいっていうから、ぼくだって覚悟を決めたのに」
「覚悟!? 覚悟って!?」
 いや、それ以上にまずい。視覚的にかなりまずい。とういうのも、千尋さんは裸だ。
 けれど、彼の肌を見てしまったからといって、取り乱すのはだめだ。絶対にだめだ。
 千尋本人がいるから、というのもあるのだが、そうじゃなくても周囲には監督もいる。第三者がいる。ばれてはいけない。
 いつもの、普段の、スマートな二枚目俳優としての、ああ、だめだ、こんなことを考えている時点でボロは出ている。それでも、クールにこの場をおさめていかなくてはならない。
 新崎の目の前に難題が降り注いだ。
「じゃあ、ぼく、先に行ってるね」
「えっ、あ、待ってください!! 俺もすぐに脱ぎますんで」
「じゃ、俺もお先に」
「か、監督!?」
 まずい。まずい、まずい、まずい。まずすぎる。
 監督と先に千尋さんを行かせてしまうなんて。そんな……!!
 新崎は慌てて服を脱ぎ捨てた。

?7.


「はぁ……いいお湯だったねぇ」
 借りた浴衣姿の千尋は目に毒――ではなくて、ほかほかと湯気が立っていて血色もよくて、色っぽくて――でも、なくて。ああ、どうしたら、いいんでしょう。隣に座る男が可愛くてしかたがありません。新崎はうめいた。
「けど、大丈夫? お風呂のときも、なんだか様子がおかしかったし、本当は体調でも悪い?」
「ち、千尋さん、そんなことは、ないです!」
「そう?」
「久しぶりに千尋さんに会えて……その、俺、舞い上がっちゃって」
 ごほん。
 咳払い。
 監督がした音だった。
「それにしてもおいしそうだな。千尋さん、箸が止まってるけど、苦手なものでもあるのかい?」
「あ、いや、どれもこれもおいしいです」
 そうだった。ここは旅館。そして現在、夕食の最中。
 千尋が新崎の隣に座ってくれたのは本当に救いだったが、千尋の向かいの席には監督が座っている。
 油断はならない。
「ちょっとさぁ、新崎くん、目が死んでいるけど、大丈夫?」
「わ、酒田さん!?」
「いや、そこで驚く? 俺、ずっと隣にいたよ。隣は隣でも、千尋さんのほうの隣に気を取られすぎじゃない?」
 ぐむぅ。だって、好きなんだもの。
「そういや監督。この作品取り終わったら、次はアレだそうですね」
 酒田のことばに監督が眉根を寄せた。
「それをどこで……」
「いやぁ。こういう仕事しているとそういう話、耳に入っちゃうんですよねぇ」
「だからって。しーっ! まだ秘密にしておいて」
「でも、良かったじゃないですか。監督、そんなにも脚本家と仲が良かったとは思ってませんでした」
 うん? なんだ。なんの話だ。
 ただ脚本家と出てきた単語から、新崎は千尋のほうを見た。
「あ……」
 千尋は俯くと下唇を静かに噛んでいた。これは何かある。何かがあるはずだ。
「いーなぁ。俺も今日でなんだか千尋さんのこと、気になりだしちゃって」
「それはだめだ!」
「は? 新崎くん?」
「あ……えっと、すみません。なんでもないです」
 まずい。本当にまずいぞ。
 話が読めないというより、千尋さんの名前が出ただけで、つい過剰に出てしまう。これではただの怪しいひとだ。
 誰だ、千尋さんの目の前でも胸を張っていられる立派な役者になるって決めたのは。このままでは不審者になるのがオチじゃないか。
 新崎は必死に腹の底に力を入れた。ここからが男の勝負だ。
「新崎くん、本当に大丈夫?」
「え? 千尋さん?」
「ご飯、部屋に運んでもらう? 静かな場所のほうが、きみ、好きでしょう?」
「千尋さん……でも」
「すみませーん」
 千尋が立ち上がった。近くにいた女中に声をかける。
「あの、食事を部屋で取りたいんですけれど。そう、ふたりぶん。お願いできますか?」
 話し込んだかと思うとくるりと新崎のほうを見た。
「大丈夫だって!」
 その笑顔がまぶしかった。

?8.


 新崎の部屋。その机の上に日本料理が並ぶ。女中たちが手分けして運んできてくれた。彼女たちが部屋から去ったのを見て、千尋がため息をついた。
「はぁー。やっぱり、個室のほうがゆっくりできていいねぇ」
「……千尋さん」
「ん? 何?」
「なんで、俺と一緒にいるんですか? 千尋さん、彼らと一緒にご飯食べててもいいんですよ?」
 そんな新崎に千尋は思わず、吹き出してしまった。
「え? 千尋さん?」
 急に笑い出した千尋に理解が追い付かない新崎。
「あははは。もうやめてよ。そんなふくれっ面、新崎迅人の名前が泣くよ。笑いすぎて、ぼくまで涙が出てきそうだから……!」
 腹を抱えだして千尋が身もだえる。
「ちょ、ちょっと……」
「もーだめ。ほんと、新崎くん、きみってぼくのこと、好きなんだねぇ」
 え。
「ちょっと、それどういうことですか? えっ、えっ」
「カメラの前ではあんなに輝いていて、現場では役者然として堂々としているのに、変なところで抜けてるっていうか……」
「抜けてる……って、やっぱり俺って抜けてるんですか?」
「うん」
「うんって!! ああ、もう、素直にうなづかないでぇぇ!!」
 ダイレクト・アタック。千尋のことばは何よりも新崎に響く。しっかりとした大人な男に、なりたい。けれど、うまくいかない。悔しい。
「あ、でも悪い意味じゃないよ」
「え?」
「そういうのも、含めて。ぼくは、いいと思っている、から?」
「……疑問形、なんですね」
「え、あ。そ、それより、ご飯食べちゃお? ね?」
「そうやって別のこと話題に引き出して、話を変えるのは、千尋さんの癖」
「んもう、性格悪くなってない? あ、あの監督の下にいるせいかな」
 途端、ぷつんと糸が切れる音がした。いや、完全にそれは切れた。なんの糸かはわからない。ただ、それが切れたせいで、新崎も切れた。
「え、ちょっと……ん!!」
 新崎は千尋へと距離を詰めるとその唇を奪った。
 最初は自身の唇を押し付けるだけ。けれど、ひるんだ千尋の隙間から口のなかへと舌を押し込む。
 抵抗しようとする千尋の体を抑え込んで、抱きしめて、逃れられないようにする。
 新崎《俺》以外の場所からは絶対に、逃がさない。
「ぷはっ、あ、あの、新崎くん?」
 苦しくて、どんどんと新崎の胸板を叩いていた千尋だったが、新崎の唇がようやく離れ云った途端に、新鮮な空気をやっと吸えた。けれど、乱れた呼吸に肩も揺れる。
 それに、いつの間にか新崎に抱きしめられていた。
「なんで、あいつなの!?」
「え?」
 そして、目の前の青年はやけにこどもっぽくて。
「今日、監督の現場、見に来たんでしょ! めちゃくちゃ仲いいじゃないですか! ラブラブじゃないですか! わかりあっているじゃないですか! それって俺への当てつけ? 俺が、かっこよくて地位もあってしっかりした大人じゃないから! いつも千尋さんに迷惑かけてばかりで、ガキっぽくて、未熟だから!」
「は……え? ちょっと、待って」
「だから、本当は別れたい? 別れたいんですか? 実際、千尋さんとはまともに会えていないし、まともに恋人っぽいことしてないし、イチャイチャしたいけど、できないし、できていないし、でもしたいし、したいけど、千尋さん相手だと俺ヘタレるし、なんか勇気でないし、でもしたいし、でもなんかこう、ああーって感じで、むしゃくしゃするし、でも俺は!! 千尋さんだけなんだよ!!」
 新崎はぎゅーっと強く彼を抱きしめた。
「ん。こら、折れる。骨、折れちゃうから」
「ヤダ。千尋さん、どっか行っちゃうなら俺がへし折る」
「怖いこと、いわないの。それがイケメン俳優のすることですか?」
「イケメンじゃないもん。もうダメンズ。マダオ。ぐだぐだすぎて自分でも嫌になる。けど、かっこいい人間になんてなれない」
「充分かっこいいと思っていたんだけどなぁ」
「なんで過去形なの!? ほら、やっぱりね。過去形ってことだから!!」
「はいはい、落ち着いて、落ち着いて。深呼吸。吸って、吐いて、吸って、吐いて」
 新崎は、千尋の肩口で呼吸した。
「はー、やべぇ。千尋さんの匂いがする……」
「こら! 嗅がない!!」
「自然に鼻に入ってくるから不可抗力。というか興奮する」
「しない!! 落ち着け!!」

?9.
 千尋は、ぐっと腕に力を込めて新崎を引きはがした。それでもくっついていようとする新崎に「めっ」としかる。しょぼんとして、肩を落とす新崎に、千尋はため息をついた。
「きみは駄犬かな?」
「へ?」
「いや、今のはひとりごと。……ぼくはきみに会いに来たんだよ」
 千尋は新崎に背中を向けた。新崎はその背中が遠ざかっていくかのように感じて、縋りつきたくなった。しかし、体が動かなかった。拒否されることが――すごく、怖くて。
 だけど、千尋は部屋の隅に置いた自身の鞄を取りに行っただけらしい。すぐに新崎のもとに戻ってくる。そして、鞄の中から包みを取り出した。
「これは?」
「新崎くんへ」
「え。えっと」
「今日、ホワイト・ディだから」
 一瞬、新崎の頭は硬直《フリーズ》した。何度も千尋のことばが頭のなかでリフレインする。その意味をとらえた途端、新崎は得体のしれない幸福感に包まれていた。
「それって……その、そういう意味、ですよね」
 おずおずと尋ねてきた新崎がやけに幼く見えて千尋はまた吹き出した。
「あ、あの! なんでそんな笑うんですか!」
 少し怒ったように、むっと不機嫌を外に出す新崎。TV《テレビ》でも配信でもそんな姿は見ることができない。俳優でもなく生身の新崎だから見れる素の表情。それをいま独占しているということがたまらなく愉快であるとまではさすがに言えないけれど。千尋は、微笑んで彼の頬に触れた。
「叩いた?」
「へ?」
「撮影に入る前に、ほっぺ叩いていたなぁって」
「……見てたんですか?」
「うん。ずっと、見てた。知ってるでしょ。ぼくが見ているのは」
「最初は俺がずっと、千尋さんのこと見てたのに」
「そう。いまはぼくも見ている。答えはそれでわかるでしょう?」
「ただの……バレンタインのお返しじゃないってことですよね」
「そういうの、聞かなくてもわかるでしょう?」
 ずるい。
 新崎は千尋を見つめた。いつも彼だけがずるい。
 不安なとき、助言をくれるのも、安心感をくれるのも、みんな千尋ばかりだ。
「なーに? まだぐずついてるの?」
「ぐずついてません……」
「なんか瞳、うるんできてない? 泣いちゃだめだよ。明日だって撮影あるんでしょ」
 俳優の仕事は自身の体が資本だ。泣きはらした真っ赤な目でカメラの前には立てない。必死であふれそうになるものをこらえる。
「けど、涙は我慢しても、感情までは抑え込まなくていいからね。……ぼくの前では」
 ほら。やっぱり、そういうところ、ずるい。

?10.
 不安だった。
 ひとりで戦わなくてはならないから。
 舞台に立つときはいつもひとりだ。周囲の役者との距離を測って、いかに自分がどうふるまうのか、ずっと頭のなかで計算して。
 それはカメラの前から消えてもそう。これからどういう立ち位置で仕事をしていくか、だとか、どのオーディションに参加するか、だとか、これからの仕事の方向性は、どう売り出していくのか、だとか。
 画面の中でも外でも必死にもがいて。
 だからこそ、つらかった。
 それでも、目指したい場所があるから。
 胸を張って、彼の隣にいたいから。
 けれど、こうして強くあろうとして、徐々に弱くなっていく自分がいて。
 自信を持てば持つほど、自分に自信が持てなくなっていて。
 ほんのささいなことでも、彼が自分から遠ざかっていってしまいそうなのが、怖くて。
 だから、ほんとうに些細なことにも、過敏に反応してしまって。怖い。
 だから。
「千尋さん……ほんと、ありがとうぅ」
「なんか、新崎くん、泣きべそかいているみたいになってる」
 ふふっと軽く笑ってくれる千尋が、くれた証拠は――自分を大切にしてくれているという物的証拠《ホワイト・ディのお返し》に、ものすごく安堵して、悔しいくらいに救われている。
「それより、ご飯、冷めちゃうと思うんだけど?」
「はい、食べます」
「ほら、机について……」
「無理。先に千尋さん、食べちゃいたい」
「はぁ!?」
「いいでしょ。千尋さん」
「いやいやいや。待って待って。え!? えっ!?」
 新崎は切なさとでもいうのだろうか、千尋への愛おしさで胸が弾けてしまいそうだった。千尋に手を伸ばす。抱きしめる。
「待って待って! タンマ!! ちょっと、ダメだって」
「……なんで? もう俺、千尋さんで頭狂ってるから無理」
「頭冷やしなさい!」
 ゴン!
 千尋が新崎の頭を叩いた。
「いってぇ」
「冷静になりなさい! 明日も撮影があるんでしょう!! まず撮影第一! 今日はしっかり食べて、明日のために休息!! わかりましたね?」
「……は、はい」
 だめっと人差し指を立てて新崎に支持する千尋に新崎は、もうすこし甘やかしてほしくて少し腹が立ったが、それでも、彼の耳が赤くなっていることに気が付いて、まあ、いいかという気にもなる。
 好きなひとに好かれているというのは、こんなにも幸せなのかと。

?11.


 結局、あのあと、千尋は旅館の空き室に泊った。
 というのも、新崎は自分の部屋に泊まってくれと何度も懇願したのだが、千尋ががんとしてそのお願いをはねつけたからだ。
 新崎としては、あの空き部屋は監督の部屋の隣だったため、気が気ではなく、はらはらして眠れなかった。
 だったら、これをダシに千尋に「監督の隣の部屋に千尋さんがいるって思うと夜も寝れません」だとか「千尋さんが近くにいるのに遠くにいるのは、さみしくて……夜が怖いです」なんて言って甘えればよかったろうか。などと考えてしまうあたり、自分は弱っちょろいなぁと思いながらも、旅館の廊下を歩く。
「おはようございます」
 自分に向けたそのことばに新崎は笑顔で振り返った。
「千尋さん!!」
 朝から見目麗しい。睡眠不足だなんてものも吹き飛んでしまう。
「よく寝れました?」
 新崎は彼のもとに駆け寄る。だが、よく見ると千尋は少し眠たそうだ。
「ああ、うん。まあね」
「大丈夫ですか?」
「え、ああ。少し……」
「もしかして、あの監督が夜這いに!?」
「はあ!?」
「あ、しまった。つい考えていたことが漏れて……っていうか今のは無しで!!」
「……新崎くん、もしかして」
 何か言いたげな千尋が、新崎に話そうとしたとき。
「おーっす」
 酒田が起きてきて彼らに合流した。
「なんだですか、酒田さん」
「うっわ。朝から新崎くん、不機嫌だねぇ」
 このタイミングでふたりの間に彼が乱入しなければ、不機嫌にもならなかった。
「千尋さんもおはようございます」
「あ、はい……」
「今日はもう帰っちゃうんでしたっけ」
「ええ。まだ仕事が残っているので、ゆっくりしているわけにはいきません」
「それって、アレの話ですか?」
「アレでもありますが、別の仕事も」
「な!! 千尋さん!! アレってなんなんですか!!」
 酒田と千尋の話に出てくるアレがわからない。もう我慢しているのも無理だ。新崎が尋ねた途端にまたまた乱入者が現れる。
「おはよーっす」
「監督! おはようございます!」
「おう、酒田くん、おはよう。今日もよろしくって、新崎くんも千尋さんのお早いですなぁ」
「監督! おはようございます!!」
 新崎はすぐさま彼に距離を詰めた。近づいて小声で確かめる。
「監督、夜、千尋さんに手なんかだしてませんよね?」
「おっと、その話か? 手だけでいいのなら、出してないが?」
 な、なんだと……!!
「じゃあ、足!!」
「それもパス」
「口!」
「は?」
「目! 鼻! 耳!!」
「いやいや、新崎くん。なんの話なんだよ。それ」
「とにかく、千尋さんがあんなにも可愛いからってあーだこーだしないでくださいね」
「……いや、あのきみねぇ」
「新崎くん?」
 監督とこそこそ話を始めた新崎に千尋が不安そうに声をかけてきた。
「千尋さん! いや、これはほんとなんでもない話でして……」
「ああ、うん。廊下でどうこうするより、食堂行かない?」
「はいっ」
 新崎はぴょんと小さく跳ねて千尋の隣を陣取った。この場所は誰にも渡さないつもりだ。
「わっかりやっすーい」
 その背中に向けて監督がひとりつぶやく。
「ほんと、わっかりやっすいですよね。あれでうまくやってるつもりでいるみたいなのが、ほんと危なっかしいというか」
「やっぱりなぁ。酒田くん、うまくやってあげてね」
「はい、監督……。ところでアレの話、新崎くんにはしなくてもいいんですか?」
「やー。もう、別によくない? どうせ、オーディションの話は事務所がすると思うし」
「まー、そうなんでしょうけれど」
「そしたら、また噛みつかれるかなぁ。何せ、千尋崇彦最新作、特別ドラマスペシャルの企画、メガホン持つの俺だし」
「そういや、千尋さんて劇団中心に仕事してますもんね。なかなかこういうドラマの仕事って受けない印象あったんですが……まあ、あいつらみていたら、なんとなく分かってしまったので、まあ……」
「そうなんだよなぁ。彼もまだまだ伸びしろあるいい俳優だから、どこかにすっぱかれないでいてくれるといいんだけど」
 酒田と監督は静かにため息をついたのだった。

(了)




?後日譚
 撮影が終わった。
 帰ってきた旅館の食堂で、酒田は聞きたかったことを尋ねてみた。
「そういえば、休憩の最中、大事そうにそれ、抱えてるけど、何なの?」
 酒田に聞かれても、新崎はにやにやと締まりのない顔をしているので、なんとなくわかってしまった。
「さぁ? なんでしょう~?」
 聞いたほうが馬鹿だったというべきだろう。
 それにしても、こいつ、事務所が二枚目として売り出したいというのは知っていたが、本当に大丈夫なのだろうか。今の新崎はただの間抜けにしか見えない。いや、ただの間抜けだ。
 現場ではあれほどハキハキと輝いていた男が――これである。
「なんつーか、罪づくりな男だよな」
「はあ!?」
「ああ、いや、新崎くんに言ったんじゃなくて……」
 ま、いっか。
 どうせ、あと三日で地方ロケも終わる。



「し、しまったーっ!!」
 新崎は帰ってきた東京の自室で包を開いた。中からはドロドロにコーティング・チョコレートの溶けたクッキーが出現した。
 せっかく千尋にもらったのだから、撮影が終わってから、いただこうと思って、今まで食べずにいたのだ。
 それをこれほど後悔するなんて。
「千尋さんにもらったものなのに~っ」
 泣きつきたい気持ちになってスマホを取る。しかし、かけようと思った相手とは違う相手からの着信にそれは震えた。
「はい、新崎です」
「お疲れさまです。伊東です」
「あ、はい、お疲れさまです」
 マネージャーだった。
「新崎さん。次、TV局からバラエティ番組の出演の仕事、大丈夫ですか?」
「え、あ、はいっ」
「今撮っているドラマの宣伝も兼ねて決まった話なので、しっかりお願いします。日程は……」
 新崎は慌てて手帳を手に取る。
 そうだ。
 憂いてばかりではいられない。
 前に、前に進んでいかなくては。
「あ、それと。近々、大きなオーディションがありますので」
「えっ」
「あとで詳しいこと、お伝えしますね」
 やけに弾んでいるマネージャーの口調に、新崎は小さな胸騒ぎを感じた。けれど。
「はい! よろしくお願いします!!」

後日譚 (了)

7/16ページ
スキ